ルーナ物語2
第二章 ページをめくる音
夜の学園は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
昼のあいだは、生徒たちの声で満ちている廊下。
笑い声。
授業へ急ぐ足音。
誰かが名前を呼ぶ声。
そのすべてが消えた夜の校舎は、まるで別の場所のように静まり返っていた。
長い廊下には月明かりだけが差し込み、窓枠の影が床に細く伸びている。
壁に掛けられた古い絵画も、本棚の隙間に置かれた小さな彫像も、夜になると少しだけ違って見えた。
まるで、眠っている学園が静かに息をしているようだった。
その中を、一人の少女が歩いていた。
銀色の長い髪。
小さな足音。
ルーナ・フェルミア。
ルーナは、誰にも見つからないように廊下を進んでいた。
足音を立てないように。
息を潜めるように。
時折、廊下の奥へ目を向ける。
誰かがいるわけではない。
けれど、ルーナは何かを確かめるように、何度も周囲を見た。
やがて、校舎の奥にある古い階段へたどり着く。
昼間でもあまり使われない階段だった。
石で造られた段は少し冷たく、踏むたびに小さな音が響く。
ルーナは一段ずつ、ゆっくり上っていった。
最上階へ近づくにつれ、空気が冷たくなっていく。
窓の外では、夜風に揺れる木々が黒い影になっていた。
遠くで時計塔の鐘が鳴る。
低く、静かな音だった。
ルーナは足を止めない。
最後の段を上りきると、そこには長い廊下があった。
普段、生徒が近づくことのない場所。
授業で使われる教室もない。
明かりも少ない。
ただ、古い壁と、閉ざされた空気だけがそこにあった。
廊下の突き当たりには、一枚の木の扉がある。
重そうな扉だった。
長い年月を感じさせる深い色。
表面には細かな傷があり、何度も開かれたようにも、長い間一度も開かれていないようにも見える。
扉の中央には、金色の文字が静かに刻まれていた。
立入禁止。
ルーナは、その扉の前までは行かなかった。
少し離れた窓際で足を止める。
そして、静かに廊下の先を見つめた。
扉ではなく。
扉の周りの空気を。
まるで、そこに何かの気配を探しているように。
月明かりがルーナの横顔を照らす。
銀色の髪が、淡く光った。
ルーナは動かない。
声も出さない。
ただ、じっと待っていた。
何かを待っているようにも見えた。
何かを見張っているようにも見えた。
しばらくして、ルーナはほんの少しだけ目を伏せた。
「……今日も。」
誰にも聞こえないほど小さな声。
安心したような。
でも、少し寂しそうな声だった。
ルーナは扉へ近づこうとはしない。
手を伸ばすこともしない。
ただ、その場所にあることを確かめるだけ。
それだけで十分だと言うように。
その時だった。
階段の下から、足音が近づいてきた。
規則正しい足音。
巡回の教師だった。
ルーナはすぐに振り返らなかった。
足音が近づいてくるのを聞きながら、ゆっくりと目を上げる。
やがて、教師が廊下に姿を現した。
手には小さな灯りの魔法を浮かべている。
その光が、暗い廊下をぼんやりと照らした。
「ルーナ・フェルミア。」
教師の声が静かな廊下に響く。
ルーナはようやく振り返った。
「また君か。」
教師は困ったように息を吐いた。
怒っているというより、心配しているような声だった。
「ここは立入禁止区域だ。」
「分かっています。」
ルーナは静かに答える。
その声に迷いはなかった。
教師は眉をひそめた。
「分かっているなら、なぜここにいる。」
ルーナは少しだけ黙った。
窓の外で、風が木の枝を揺らす。
月明かりが雲に隠れ、廊下が一瞬だけ暗くなった。
「……眠れなくて。」
小さな答えだった。
教師はルーナを見つめる。
「眠れないからといって、ここへ来ていい理由にはならない。」
「はい。」
「最近、何度かここで君を見かけたと報告がある。」
ルーナは何も言わなかった。
教師は続ける。
「何か探し物でもあるのか。」
「いいえ。」
「誰かに会おうとしているのか。」
「いいえ。」
「では、なぜだ。」
ルーナは答えなかった。
答えられないのではなく、答えないように見えた。
教師はしばらく黙っていた。
それから、深く息を吐く。
「……寮へ戻りなさい。」
「はい。」
ルーナは素直に頭を下げた。
教師の横を通り過ぎる時、ほんの一瞬だけ廊下の奥を見た。
立入禁止の扉。
閉ざされたままの扉。
その奥に何があるのか。
誰も知らない。
少なくとも、そう言われていた。
「ルーナ。」
教師が声をかける。
ルーナは足を止めた。
「もうここへ来てはいけない。」
「……はい。」
少しだけ遅れて返事をする。
それからルーナは、教師とともに階段を下りていった。
二人の足音が少しずつ遠ざかる。
こつ。
こつ。
こつ。
やがて、その音も聞こえなくなった。
廊下は再び静寂に包まれる。
誰もいない。
誰もいないはずの廊下。
月明かりが、閉ざされた扉を照らしている。
その時。
ペラ……。
小さな音が響いた。
本のページをめくる音だった。
風ではない。
木のきしむ音でもない。
確かに、誰かが紙をめくった音。
閉ざされた扉の奥から。
ペラ……。
もう一度、音がした。
まるで。
誰かがその部屋で、静かに本を読んでいるかのように。




