ルーナ物語
第十章 報告書
フィーニス魔法学園は静かな日々を迎えていた。
朝になれば白い息が空へ溶け、校庭の芝には薄く霜が降りる。
木々はすっかり葉を落とし、冷たい風が時計塔の鐘の音を遠くまで運んでいた。
一年生たちは、初めての学期を終えようとしている。
入学したばかりの頃は、杖を握ることさえぎこちなかった生徒たちも、今では基礎魔法を使いこなし、互いに励まし合いながら成長を続けていた。
クロエも、その一人だった。
魔法を覚えた。
友達ができた。
何度も失敗し、そのたびに立ち上がった。
笑った日もあれば、悔し涙を流した日もある。
まだ英雄にはほど遠い。
それでも、あの日校門をくぐった少女は、確かに一歩ずつ前へ進んでいた。
放課後。
教室には穏やかな笑い声が響いていた。
クロエは窓の外へ目を向けた。
夕日に照らされた校庭は黄金色に染まり、遠くでは上級生たちが今日最後の訓練を終えている。
「また明日。」
「うん。またね!」
友達と手を振り合い、クロエは寮への道を歩き始めた。
石畳には時計塔の長い影が伸び、吐く息は白く空へ消えていく。
寮へ向かう生徒たちの笑い声。
どこかの教室から聞こえる楽器の音。
食堂から漂ってくる温かなスープの香り。
フィーニス魔法学園は、今日も平和だった。
誰も、この穏やかな毎日が永遠ではないことを知らない。
⸻
その夜。
校長室。
暖炉の火が静かに揺れ、部屋を橙色に照らしていた。
窓の外では、小さな雪がゆっくりと舞い始めている。
一人の教師が、数枚の報告書を机へ置いた。
「本日の報告です。」
校長は静かに頷き、一枚ずつ目を通していく。
「校内施設、異常ありません。」
「北側結界、異常ありません。」
「東側結界、異常ありません。」
紙を机へ戻す音だけが、静かな部屋に響いた。
「ご苦労。」
教師は最後の一枚を手に取り、少しだけ言葉を止める。
「……もう一件、ございます。」
校長はゆっくりと顔を上げた。
教師は報告書を見ながら読み上げる。
「一年二組。」
「ルーナ・フェルミア。」
その名前が部屋に響いた瞬間。
校長の指先が、ほんのわずかに止まった。
教師は続ける。
「立入禁止区域への侵入。」
「校則違反。」
「減点十点です。」
「本年度、七件目となります。」
部屋に重い沈黙が流れた。
教師は慎重な口調で言葉を続ける。
「このままでは、規則に従い停学処分を検討する必要があります。」
校長は何も答えない。
ただ、報告書に書かれた一つの名前を見つめ続けていた。
ルーナ・フェルミア。
長い沈黙の末、校長は静かに口を開く。
「……記録だけ残しておいてくれ。」
教師は思わず顔を上げた。
「ですが校長。」
「規則では――」
「私が責任を持つ。」
短い一言だった。
しかし、それ以上反論できる空気ではなかった。
「……承知しました。」
教師は深く一礼し、静かに部屋を後にする。
扉が閉まる。
校長は一人になった部屋で、報告書を手に取った。
ゆっくりと机の引き出しを開く。
そこには、小さな木箱が置かれていた。
箱の中には、数日前に結界の近くで見つかった黒い羽が静かに収められている。
校長はその隣へ、ルーナの報告書を重ねてしまった。
そして窓際まで歩き、降り始めた雪を見つめる。
白く染まる校庭。
静まり返った訓練場。
雪をかぶり始めた時計塔。
誰もいない学園は、まるで眠っているようだった。




