第9話 早苗に話す夜
家に戻ったのは夜が深くなってからだった。
燈りが一つついていた。道典が入ると、早苗は縫い物をしていた。岳人は奥で眠っている。早苗は顔を上げ、道典を見て、それから縫い物に目を戻した。「冷えたでしょう」と言って立ち上がり、火のそばに椀を置いた。
道典は座った。椀を受け取った。温かかった。
何も言わずに飲み終えて、空の椀を膝の上に置いた。
「話します」と道典は言った。
早苗は縫い物を脇に置いた。それだけで、聞く用意ができた。道典はそれを見ていた——何かを正したわけでも、構えたわけでもない。ただ脇に置いた。それだけで十分だった。
* * *
話した。
橋のことから話した。老人のことを話した。巻物を見たことを話した。何度か会ったことを話した。岳人が符牒を口にして、典嗣に伝わって、連絡が来たことを話した。典嗣と二度、向き合ったことを話した。
話しながら、道典は何度か止まった。止まるたびに、早苗は何も言わなかった。急かさなかった。続きを促しもしなかった。ただそこにいた。道典はそのたびに、また話した。
全部話せたかどうか、分からない。でも、話せるものは全部話した気がした。
話し終えて、しばらく何もなかった。
早苗は火を見ていた。
「謝らないのか」と道典は言った。自分でもなぜそれを言ったのか、少し後から考えた。早苗に謝れと言いたかったのではない。謝らないことを責めたかったのでもない。ただ——典嗣との対峙の後で、何かに謝られることを道典が求めていたのかもしれなかった。
「何に謝ればいいか分からない」と早苗は言った。
道典は早苗を見た。
「謝り方が分からないんじゃなくて」早苗は続けた。「何に対して謝ればいいのか、が分からない。あなたが橋に行ったことに? 老人と話したことに? 典嗣さんに言えなかったことに? 岳人が符牒を知っていたことに? どれに謝ればいいか、私には分からない」
道典は何も言えなかった。
「あなたは、どれだと思いますか」と早苗は言った。
「分からない」道典は言った。「典嗣は——信仰の話だと言った。俺は信仰を棄てたつもりはない。でも典嗣はそう言った。どちらが正しいのか、俺にはまだ分からない」
「どちらも正しいかもしれない」
「そうかもしれない」
「それなら」早苗は言った。「何に謝ればいいか、やっぱり分からない」
* * *
火が小さくなっていた。
早苗が薪を一本足した。火が少し戻った。
「どうしたい」と早苗が言った。
道典はその問いを聞いて、少しの間考えた。どうしたいか——典嗣との対峙の中で、その問いは来なかった。典嗣は「お前は東の神を棄てた」と言い、道典は「棄てていない」と言った。どうしたいかを、誰も聞かなかった。
「岳人を傷つけたくない」道典は言った。
早苗はそれを聞いた。否定しなかった。肯定もしなかった。ただ受け取った。
「それだけですか」と早苗は言った。
「それが一番大きい」
「あなた自身は、どうしたいか」
道典はしばらく考えた。「分からない」と言いそうになった。それが正直な答えだった。しかし少しだけ待ってから、別の言葉が来た。
「御岳にいたくない」と道典は言った。「今はそれだけ分かる」
早苗はうなずいた。うなずいただけで、何も言わなかった。
それから立ち上がった。
「では動こう」と早苗は言った。
* * *
立ち上がり方が、いつもと変わらなかった。
縫い物を畳んで立ち上がるのと、同じ動き方だった。何かを決意した人間の立ち上がり方ではなかった。今夜眠る前に戸締まりをしようと立ち上がるのと、変わらなかった。
道典はそれを見ていた。
早苗はどこへ動くのかを言わなかった。いつどうするのかも言わなかった。どこへ行くのかも言わなかった。ただ「動こう」と言って立ち上がった。それだけだった。
それだけで、道典には十分だった。
——典嗣が「お前だけは違うと思っていた」と言ったとき、その言葉が川の音に溶けなかった。川に預けられなかった。道典の中にそのまま残った。どこへ置けばいいか分からないまま、石畳を歩いて家に帰ってきた。
早苗が「では動こう」と言ったとき、その言葉もまた川の音に溶けなかった。
溶けなかったが、重さが違った。
典嗣の言葉はそのまま残って、道典を動けなくした。早苗の言葉はそのまま残って、道典を動かした。どちらも川に溶けなかった。どちらも消えなかった。ただ、働き方が違った。
道典は椀を置いて立ち上がった。
「どこへ」と道典は聞いた。
「北のほうへ」早苗は言った。「雪が多いところへ。東も西も、同じに覆うところへ」
道典はその言葉を聞いた。
川の音は聞こえなかった。




