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鏡淵の調律 外伝 七海家前史 御岳から宮城へ、宮城から出雲へ —— 七海雫が生まれるまでの血脈  作者: ちとせ鶫
第1章 間を渡る者

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第10話 御岳の反応

 最初に変わったのは、隣家だった。


 七海家の隣には、御岳で代々神具を作ってきた老夫婦が住んでいた。道典が子どもの頃から挨拶を交わしてきた夫婦だ。朝に顔が合えば「今日は冷えますな」とか「岳人さんはよう育ちますな」とか言ってくれた。それが、ある朝から来なくなった。


 来なくなった、というのは正確ではない。夫婦は変わらずそこにいた。玄関先で顔が合うことも、以前と同じくらいあった。ただ、視線の方向が変わった。道典のほうを見なくなった。見ていないというより、見えていない——という顔をした。


 道典は最初、自分が何かをしたのだと思った。無意識に失礼なことを言ったか、何かを踏み越えたか。しかし思い当たることがなかった。しばらくして、ようやく分かった。老夫婦は道典を恐れているのではない。道典に関わることを恐れている。それだけのことだった。


     * * *


 神事の割り当てが減ったのは、その少し後だ。


 七海家は御岳の神事に、朝比奈家の傍流として毎年いくつかの役を担ってきた。東の社の清掃。朝光祭の警固の補佐。秋の終わりの供物の配置。道典の父の代からずっとそうだった。それが、次の神事の前になっても連絡が来なかった。


 道典は問い合わせなかった。


 問い合わせれば、何かが確定する気がした。連絡が来ないままでいれば、まだ宙に浮いたままでいられる。そういう気持ちがあったことを、道典は自分でも分かっていた。情けない、とも思わなかった。ただそういう気持ちがあった。


 神事の日、道典は家から出なかった。


 岳人が「今日は行かないの」と聞いた。「今年は休みだ」と道典は答えた。岳人は「そうか」と言った。六歳の子どもが「そうか」と言う言い方だった——疑っているのか納得しているのか、よく分からない言い方だった。


 早苗は何も言わなかった。その日の夕飯を、いつもと変わらず作った。


     * * *


 稽古相手が来なくなったのは、もっと後だ。


 道典は朝比奈家の本道場ではなく、七瀬家の道場で稽古をしていた。七瀬家の道場といっても広くはない——板間六畳ほどの、木の匂いがする部屋だった。朝に数人の若い者が来て、道典と並んで型を踏んだ。それが御岳の習慣だった。


 一人が来なくなった。二人が来なくなった。三人目が来なくなった日、道典は一人で道場に立った。


 型を踏んだ。


 剣先が、東を向こうとして、少しだけ南へ流れた。


 この癖は直らない、と道典は思った。直そうとすれば型が崩れる。放っておけば東を向かない。これが自分の剣だ——典嗣が初めてこの癖を指摘したのは、二人がまだ青年の頃だった。「音で分かる。最後の振り下ろしの風の音が、お前のは少し南に逃げる」。あの頃の典嗣の声を、道典はまだ正確に思い出せた。


 一人で型を踏み終えた。


 道場を出ると、石畳が朝の光の中にあった。静かだった。誰もいなかった。


     * * *


 岳人のことが、一番遅く来た。


 最初に道典が気づいたのは、岳人が外から帰ってくる時刻が早くなったことだった。以前は夕暮れまで境内や川沿いで遊んでいた。それが昼を少し過ぎた頃に帰ってくるようになった。


 道典は聞いた。「今日は早いな」


 「うん」岳人は言った。それだけだった。


 早苗に聞くと、早苗は少しの間間を置いてから「子どもたちの集まりから外れているみたいです」と言った。「気にしているかどうかは、分からない」


 道典は何も言えなかった。


 岳人は道典に似て、言語化できないことを言語化しない子どもだった。「嫌だ」と言う前に、その場からいなくなる。泣く前に、泣かなくて済む場所へ移動する。外から帰ってくる時刻が早くなったのは、居場所がなくなったからではなく——居場所がなくなりそうになる前に、自分で帰ってきているのかもしれなかった。


 それが道典の理解だった。合っているかどうかは分からなかった。


 止める方法を、道典は知らなかった。隣家の視線を戻す方法を知らなかった。神事の割り当てを取り戻す方法を知らなかった。稽古相手を連れ戻す方法を知らなかった。岳人を子どもたちの輪の中に戻す方法を知らなかった。


 それらはどれも、自分が作ったものではなかった。


 自分が作ったものではないのに、どうすれば戻るのか分からなかった。


     * * *


 早苗だけが、変わらなかった。


 変わらなかった、というのも正確ではないかもしれない。早苗は御岳出身ではなかった。御岳の人間の目線が変わっていくことを、道典よりも早くから感じていたはずだった。それでも早苗の動き方は変わらなかった。朝に起きて、飯を作り、岳人の世話をし、必要な買い物をし、夜に眠った。挨拶をしなくなった隣家の前でも、早苗はいつもと変わらない声で「おはようございます」と言った。


 返事が来ないときも、来たときと同じ顔をしていた。


 道典はそれを見ていた。見ていて、何かを学んでいた気がした。何を学んでいたのかは、その時点では言語化できなかった。


 ある夜、道典が「早苗は怖くないのか」と聞いた。


 早苗は少し考えてから「怖い、というより」と言った。「これが終わるということが、分かっている気がします。どこかへ向かっているということが」


 「どこへ?」


 「それは分からない。でも、動いているということだけは分かります」


 道典はその言葉を聞いた。川の音と混ぜて受け取ろうとした。


 混ざらなかった。


 最近、川の音が聞こえなくなっていた。橋へ通っていたあの頃は、道場にいても家にいても、川の音がどこかから届いてきた気がした。今は聞こえない。老人が来なくなったからではない——老人はまだ来るかもしれない。ただ川が遠くなった気がした。


 「動こう」と早苗は言った。四話の夜に言ったのと同じ言葉を、また言った。今度は立ち上がらなかった。火を見たまま言った。


 「分かっている」道典は言った。「もうすぐ動く」


 燈りが一つ、部屋に光を落としていた。


 岳人が奥で寝返りを打つ音がした。

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