第11話 朝比奈家の『記録』
これは、道典が後に伝聞でしか知らない場面だ。
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典嗣が由緒書を広げたのは、夜だった。
本道場ではない。朝比奈家の奥座敷——記録類を保管する部屋だ。燈籠を一つ持ち込んで、棚から由緒書を取り出した。巻物ではない。綴じた冊子だ。年代順に記録されている。朝比奈家と、その傍流の家々の動静。神事への関与。剣技の継承。主だった出来事。
典嗣は該当の頁を開いた。
「七瀬家」の記述があった。道典の父の代からの記録だ。朝比奈家の傍流として。東の神事への関与として。剣先の癖についての一行もあった——剣先、東を向こうとして南へ流れる。これは直らぬが、東への意志は本物なり。
典嗣はその一行を、しばらく見ていた。
誰が書いたか、典嗣には分かっていた。典嗣の父だ。道典の父と並んで稽古をした頃の記録だ。典嗣はその頃を知らない——生まれていなかった。しかし父から聞いていた。七海の道典の父は剣先が流れるが、流れながらも東を向こうとしている、と。
典嗣は筆を取った。
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書き直すのではない。
消す、というのも正確ではない。由緒書の記述を墨で塗りつぶすことはしなかった。典嗣がしたのは、別の冊子に「その年」の記録を書き起こす作業だった。朝比奈家の正式な由緒書とは別に、各家の動静を年ごとにまとめた副本がある。そちらに——七瀬家の記述を、書かなかった。
書かなかった、ということは、副本にはその年の七瀬家の記録がない。
副本を参照する者には「その年、七瀬家について記録すべきことはなかった」と読める。
典嗣は副本を書き進めた。他の家々の記録を書いた。神事の記録を書いた。その年の気候を書いた。七瀬家については、何も書かなかった。書かないことが、消すことだった。
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筆を置いたのは、夜半を過ぎた頃だった。
典嗣はしばらく、副本を見ていた。
空白がある。文字の流れの中に、七海家がいるべき場所に、何もない。読む者には見えない空白だ——そこに何かがあるはずだという前提を持って読む者でなければ、気づかない。典嗣はその空白を作った。自分が作ったことを、分かっている。
「これで正しい」とは、思わなかった。
正しい、という言葉が何を意味するのかが、この夜の典嗣には分からなかった。東の神を守るために必要な措置をした、ということは分かる。朝比奈家の記録から七海家の密通を消すことは、家の役目として行うべきことだった。それは分かる。しかし「正しい」とは——道典が間違っていて、自分が正しいという意味で使う言葉ならば、使えなかった。
「これでよかった」とも、思わなかった。
よかった、という言葉はもっと使えなかった。
典嗣は冊子を閉じた。棚に戻した。燈籠の火を消す前に、もう一度だけ棚を見た。由緒書が並んでいる。典嗣の父の字、その父の字、さらに上の代の字。朝比奈家が東の神を守ってきた記録が、この棚に詰まっている。典嗣もここに加わる。典嗣の息子の小太郎も、いつかここに加わる。
七海家は、ここには加わらない。
加わらなくなった、ということが——今夜の典嗣の仕事の意味だった。
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座敷を出ると、廊下が冷えていた。
御岳の夜は、秋が深まると急に冷える。典嗣はそれを毎年知っていた。子どもの頃から知っていた。道典も知っていた——二人で稽古の後に廊下を歩くと、足の裏から冷えが来た。道典が「毎年こんなに冷えたか」と言い、典嗣が「毎年同じだ」と答えた。それが何年続いたか。
廊下に立ったまま、典嗣はしばらく動かなかった。
川の音が聞こえた。
中間川は朝比奈家の敷地からは遠い。聞こえるはずがない。それでも聞こえた——聞こえた気がした。道典が橋の上で聞いていたのと同じ川の音だ。典嗣には分からない。道典が橋の上で何を聞いていたのか、その音の質が自分に届くものと同じかどうか、典嗣には分からなかった。
ただ、川の音が聞こえた気がした。
夜の御岳は静かだった。
典嗣は自分の部屋へ戻った。




