第12話 最後の朝
七瀬家が御岳を発ったのは、朝だった。
早朝ではない。朝の稽古が終わり、御岳の人間たちが動き始める頃合いだった。隠れて出るつもりはなかった。荷をまとめて、戸を閉めて、石畳を歩いた。それだけだった。
岳人は道典の隣を歩いた。六歳にしては口数が少ない子どもだったが、この朝はさらに少なかった。荷物の一つを自分で持つと言い張って、道典より少し先を歩いた。道典は岳人の背中を見ながら歩いた。
早苗は少し後ろにいた。
* * *
橋の手前に来たとき、道典は東の空を見た。
秋の空は高い。雲が少なかった。東の山の稜線が、朝の光の中にくっきりと見えた。典嗣と並んで稽古をした道場は、あの稜線の手前にある。東の社は、もう少し奥だ。子どもの頃から見てきた稜線だった。これが最後になる、とは思わなかった——そういう言葉で収めることが、道典にはできなかった。
典嗣は来なかった。
来ないだろうと、道典は分かっていた。典嗣が来る理由がない。朝比奈家の記録から七海家を消した人間が、七海家の出立を見送りに来る理由は、どこにもない。分かっていた。分かっていても、道典は橋の手前で少し立ち止まった。
それだけだ、と道典は思った。立ち止まりたかった、それだけだ。
* * *
男が来たのは、道典が立ち止まっていたときだった。
朝比奈家の者ではない——少なくとも、道典が顔を知っている者ではなかった。年かさの、無口そうな男だった。道典と目が合わなかった。橋の手前の石の上に、小さな包みを置いた。それだけして、来た方向へ戻っていった。
道典はしばらく包みを見ていた。
岳人が「なに?」と言った。
「いや、拾っておこう」と道典は言った。
包みを開いた。中に、砥石があった。
小ぶりな、黒みがかった石だ。子どもが両手に収まるくらいの大きさ。道典にはすぐに分かった——典嗣の道場にあった石だ。二人で並んで剣を研いだ、あの石だ。いつ頃からそこにあったのか、道典には分からない。気づいたときにはあった。典嗣も道典も、当たり前のように使っていた。
道典はその石を、しばらく手の中で持っていた。
重さを確かめるように。重さを忘れないように。どちらでもない、ただ持っていた。
石の表面は少し滑らかだった。長く使われた石の感触だった。
* * *
道典は石を懐に入れた。
岳人がこちらを見ていた。「なに」ともう一度言いたそうな顔をしていたが、言わなかった。道典は岳人の手を取った。岳人は少し驚いたように見えたが、振り払わなかった。
橋を渡り始めた。
中間川の水は、秋の色をしていた。夏より暗くて、底の石がくっきり見える。欄干の振動が腕に伝わってくる——岳人の手を通じて、岳人の歩みの振動も伝わってくる。道典はそれを感じながら歩いた。
橋の中央を過ぎた。
老人が立っていた場所を過ぎた。「東でも西でもない水の上」と老人が言った場所だった。老人は今日はいない。これからもここには来ないだろう——道典が来なくなるのだから。橋に来ない道典を待つ老人が、橋の中央に立ち続ける理由はない。
橋を渡りきった。
川の音が、変わった気がした。
* * *
変わった、というのが正確かどうか、道典には分からなかった。
同じ川の同じ水の音だ。何も変わっていない。ただ——橋のこちら側で聞く音と、あちら側で聞く音が、道典の耳には少し違って届いた。御岳の側で聞いていた音よりも、遠くから来ている音のように聞こえた。あるいは、近くから来ているのに遠く聞こえた。どちらか分からなかった。
岳人が手を少し引いた。「行こう」と言いたいらしかった。
「ああ」と道典は言った。
川を振り返らなかった。
東の空は、まだ高かった。




