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鏡淵の調律 外伝 七海家前史 御岳から宮城へ、宮城から出雲へ —— 七海雫が生まれるまでの血脈  作者: ちとせ鶫
第1章 間を渡る者

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第8話 典嗣の怒り

 「あの夜の沈黙が、答えだったんだろう」


 典嗣が言った。道典は何も言わなかった。


 朝比奈家の本道場。燈籠が二つ。二人が向き合っている。これは前の夜の続きではない——数日が経っていた。典嗣が再び使いを寄越した。道典は来た。来ない選択肢を、考えなかった。


 「会うつもりがあるかと聞いた。お前は答えなかった。それは『ある』ということだ」

 「違います」道典は言った。「ないとも言えなかっただけです」

 「同じことだ」


 道典は板間を見た。「同じではないと思います」


 「お前が橋に行けば、老人は来る。来れば、お前は川を並んで見る。それを止める気がないということは——」

 「止める気がないとは言っていない」

 「では止める気があるのか」


 沈黙が来た。


 典嗣はその沈黙を最後まで待った。それから「そういうことだ」と言った。


     * * *


 道典は典嗣と何十年も並んで稽古をしてきた。


 子どもの頃から。青年になってから。所帯を持ってからも、週に何度かは朝比奈家の道場に来て、典嗣の横に立った。剣先の方向が少し違う。典嗣はそれを知っていた。道典も知っていた。知った上で、並んで稽古をしてきた。


 それが何十年だ、と道典はこの夜初めて数えた。


 二十年を少し超えるくらいになる。


 「羽鳥と往来するということは」と典嗣が言った。声が変わった。静かではあるが、底が変わった。「東の神を棄てるということだ」

 「棄てていません」道典は言った。「ただ間を見ていただけです」

 「間を見る者に、東の神は宿らない」

 「宿らない、というのは——」

 「宿らないのだ」典嗣は繰り返した。「お前が好きかどうかの話ではない。そういうものの仕組みの話だ。東を守る者は東だけを見なければならない。半分でも間を見れば、東は薄れる。薄れた東は、やがて東でなくなる」

 「それが本当なら」道典は言った。「なぜ典嗣さんは俺を何年も黙って見ていたんですか」


 典嗣が止まった。


 「俺が橋に通っているのを知っていた、と言いました。ずっと前から、見えていた、と。なぜその時に止めなかったんですか。止めていれば——」

 「止められると思っていた」典嗣は言った。声が低くなった。「お前が自分で戻ってくると。橋から、こちら側に戻ってくると。だから待った」

 「戻れなかったんじゃない。どこにも行っていなかったんです。橋の上にいただけです」

 「橋の上は、どちらにも属さない」

 「それが問題だと、俺には分からなかった」


 典嗣は何も言わなかった。


 板間に、燈籠の光が落ちている。影が二つ、揺れている。


     * * *


 「お前だけは違うと思っていた」


 典嗣が言った。それまでと声の質が変わった。怒りではない——怒りの下にある何かが、そのまま出た声だった。


 道典は典嗣を見た。


 「朝比奈の家から出た傍流だ。同じ流れだ。剣は同じだ。向く先だけが少しだけ違う——だが戻ってくる。守るべきものを守って、こちら側にいる。そういう家だと思っていた。お前もそういう人間だと思っていた」

 「俺は東を棄てていません」

 「棄てていない、と言うたびに」典嗣は言った。「俺は何かをなくしていく気がする」


 道典はその言葉を聞いて、何も言えなかった。


 「お前が羽鳥と往来することが問題なのではない」典嗣は続けた。「お前が羽鳥と往来しながら、棄てていないと言えることが——俺には分からない。同じものを見ているはずなのに、どこでそんなに変わったのか。どこで変わったのか、俺が気づかなかったのか。気づいていたのに止められなかったのか」

 「典嗣さん——」

 「お前だけは違うと思っていた、と言った。それが答えだ」典嗣は言った。「お前に対して俺が持っていた信頼の話をしている。信仰の話ではない。お前と俺の話だ」


 道典は板間を見た。

 そういうことか、と思った。


 典嗣が怒っているのは、七海家が羽鳥家と往来したからではない——それだけではない。典嗣が怒っているのは、道典が二十年以上、橋の上に立ち続けたことを、典嗣に話さなかったからだ。信仰の裏切りではなく、旧友への沈黙が、本体だ。


 「話せなかった」道典は言った。

 「知っている」

 「話せない理由が自分の中にあると気づいたのは、ずっと前でした。蔵で巻物を見つけたときに——典嗣さんに話そうとして、やめた。なぜやめたのか、今も正確には分からない」

 「正確には、と言う」

 「おおよそは分かります。好きだったんだと思います。橋の上にいることが。川の音を聞くことが。老人が来て、間の話をすることが。それを話せば——止められると思った。禁忌だと言われると思った。そうかもしれない。そうかもしれないけれど——止めたくなかった」


 典嗣はしばらく黙っていた。


 「好きだった」典嗣は繰り返した。静かな声だった。「そういうことを言う人間だったのか、お前は」

 「怒っていますか」

 「怒っている」典嗣はすぐに答えた。「怒っている。ただ——お前が嘘をついたとは思っていない。それが余計に困る」


     * * *


 対峙がどこで終わったか、道典には後から思い出せなかった。


 典嗣が「もういい」と言ったのか、道典が立ち上がったのか。気づいたら道典は本道場の外に出ていた。夜の御岳は静かだった。石畳が冷えていた。


 道典はしばらく、その場に立っていた。


 典嗣の言葉が残っていた。「お前だけは違うと思っていた」——その言い方が、何度も頭の中に戻ってきた。怒りの言葉ではなかった。怒りを超えて、その下にある何かが出た言葉だった。


 道典は典嗣に、何十年も叱られてきた。叱っているのか心配しているのか判断できない顔で、言葉を渡されてきた。序章の頃から。子どもの頃から。その言葉を道典はたいてい川の音と混ぜて受け取ってきた。川の音の中に溶かして、受け取りながら保留にしてきた。


 この夜の言葉は、川の音と混ざらなかった。


 「お前だけは違うと思っていた」——これだけが、ただそのまま、道典の中に残った。川に溶けなかった。流れていかなかった。どこにも預けられなかった。


 石畳が冷えている。東の空はまだ暗い。


 道典は家へ向かった。岳人が眠っているだろう。早苗が待っているだろう。


 川の音は、聞こえなかった。

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