第7話 息子の口から
典嗣が何も言わない時間が続いた。
道典は板間を見ていた。燈籠の光が揺れるたびに、二人の影が伸びたり縮んだりする。典嗣はまだそこにいる。出ていっていない。出ていかないということが、どういう意味なのかを道典はずっと考えていた。
「いつ頃から」と典嗣が言った。
「最初に会ったのは朝光祭の前だ。岳人が生まれる前だった」
「分かっている。それは聞いた」
「では何を——」
「どこで止まれたか、と思っている」典嗣は言った。「橋で引き返せた。巻物を断れた。そこで終わっていれば」
道典は答えなかった。
答えられなかった、というほうが正確だった。どこで止まれたか——その問いに、道典は今も答えを持っていない。止まらなければならない場所が、自分にはどこにも見えなかった。それが問題なのだということは、今なら分かる。
「続けてくれ」典嗣が言った。「岳人が言ったことを」
* * *
岳人が生まれたのは、羽鳥の老人と三度目に会った翌年の春だった。
道典はそれを「重なった」とは思っていなかった。老人との往来と、岳人の誕生に、因果はない。ただ記憶の上では隣り合っている。老人が巻物を広げた秋の橋のことと、岳人が初めて声を出した春の朝のことが、道典の中では同じくらいの質感で残っている。
往来はその後も続いた。
老人は不定期に現れた。月に一度足を運ぶこともあれば、半年の間、気配すら消すこともあった。逢瀬の場所は常に同じ、この古い橋の上だった。「ここで」と取り決めたわけでもないのに、道典が橋の中ほどへ歩を進めると、そこには必ず老人の背中があった。
道典が近づくと、老人は静かに振り返り、「来ましたか」と問いかける。
道典は深く息を吐き出し、「どうも」と短く返す。
その言葉のやりとりは、水流が橋脚を叩く音に混じり、夜の帳の中に吸い込まれていく。月光に照らされた老人の横顔は、まるで橋の欄干の一部であるかのように古びて動かない。かつて三本目の木が立っていた場所に視線を落としながら、二人はただ、川面を流れる深藍の闇を眺め続けた。橋の上に重なる影は、いつしか月光の月白に溶け合い、どちらがどちらの影なのかも判然としなくなっていた。
話す内容は、毎回同じではなかった。
東の神と西の神の境界について。「間」を守ることの意味について。羽鳥家の家系に伝わる記録の断片について。老人は押しつけなかった。「こういうことが書いてある」と言い、道典が聞けば続け、聞かなければやめた。道典はたいてい聞いた。聞かない理由が、毎回、思いつかなかった。
岳人が歩けるようになった頃、一度だけ橋で老人と鉢合わせたことがあった。
その日は道典の稽古の後で、早苗が岳人を連れてきていた。道典と早苗が橋の手前で立ち話をしていると、老人が渡ってきた。
老人は岳人を見た。岳人は老人を見た。
「お孫さんですか」と老人は道典に言った。
「息子です」と道典は答えた。
老人は岳人の前にかがんだ。岳人は逃げなかった。子どもは時々、大人には見えないものを見る。岳人がそういうことを感じていたかどうかは分からない。ただ逃げなかった。
「いい目をしている」と老人は言った。それだけ言って立ち上がり、橋を渡っていった。
早苗は何も聞かなかった。
* * *
「その老人が岳人に直接何かを教えたわけではない」と道典は言った。「会ったのは一度だけだ」
「では符牒はどこで」
「俺が、話したんだと思う」道典は言った。「思う、というのは——正直に言うと、話したという記憶がない。ただ、岳人が知っていたということは、俺が話したのだろうということだ」
典嗣は黙っている。
「子どもに話すつもりはなかった。ただ、子どもというのは——そこにいるだろう。話しているそばに。気づかないでいる」
川の音が、どこかから聞こえた気がした。
違う。川はここからは聞こえない。朝比奈家の本道場は御岳の中ほどにある。川は遠い。
聞こえているのは自分の中の何かだ、と道典は思った。
* * *
発覚は、子どもたちの遊びの中でだった。
岳人が六つの秋のことだ。典嗣の息子の小太郎——道典より年下の典嗣に、子が生まれたのは道典と同じ頃だった——と岳人は幼い頃から顔を合わせていた。父親同士が旧友だったから、自然にそうなっていた。
その日、二人は境内の裏手で石を集めていた。大きい石、小さい石、平たい石。子どもは分類が好きだ。何の役に立つわけでもなく、並べることに意味があるらしかった。
小太郎が「これは東の石」と言った。
岳人が「じゃあこっちは間の石」と言った。
小太郎は「間の石って何」と聞いた。
岳人は「東でも西でもない石。羽鳥が守ってる場所の石」と言った。
小太郎はその言葉を覚えていた。
夕方に帰って、父親の典嗣に話した。「今日ね、岳人が変なことを言った」という具合に、子どもが話すような軽さで。
典嗣は聞いた。
典嗣は何も言わなかったらしい。「そうか」と言って、夕飯の続きを食べた、と後で小太郎が岳人に話した——もっとずっと後に、二人がそれを笑えるほどの年になってから。そんな話を二人がする未来は、この時点では誰にも見えていなかった。
* * *
道典が連絡を受けたのは翌日の朝だった。
使いの者が来て「典嗣殿がお呼びです」とだけ言った。場所は本道場。時は夕刻。それだけだった。
道典はその日の稽古を早く終わらせた。
昼に早苗と向き合って飯を食べた。早苗は何も聞かなかった。道典も何も言わなかった。ただ食べ終わってから、道典は箸を置いて少しの間だけ動かなかった。
「岳人は」と道典は言った。
「昼寝しています」早苗は答えた。「今日はよく眠れていますよ」
道典はそれを聞いて、ようやく立ち上がった。
道場へ向かいながら、道典は自分が何を考えているかを確かめようとした。言い訳——その言葉が頭の中に来た。次に来たのは、言い訳より先に岳人のことを考えた、という気づきだった。
岳人が傷つく。
それが一番最初に来た。自分がどうなるか、典嗣に何を言われるか、その前に——岳人が傷つく、という予感だけが来た。
道典はそれを「順序がおかしい」とは思わなかった。今も思っていない。ただ、典嗣はその順序を知っている。知っているから、怒りが複雑になっている——というのを道典はこの夜に初めて気づいた。
* * *
「岳人はまだ何も知らないのか」と典嗣が言った。
「何を知るんですか」
「お前が連れてこられる理由を」
「子どもです。六つです」道典は言った。「知るわけがない」
典嗣は板間を見た。「そうか」と言った。その言い方の底に何かがある。道典には読めなかった。怒りではない。悲しみでもない。諦めでもなかった。
「俺は」道典は言った。「岳人に、符牒を教えようとしたわけじゃない」
「知っている」
「ただ話していたら——」
「知っている」典嗣は繰り返した。「だから余計に、どうしていいか分からない」
この台詞を、道典はどこかで聞いた気がした。一話前にも似たことを言っていた。
「お前が裏切ろうとしていたとは思っていない。だから余計に、どうしていいか分からない」——典嗣はこの夜を通じて、同じ言葉に何度も辿り着いている。
「岳人を責める気はない」典嗣は続けた。「子どもだ。六つだ。聞いたことを言っただけだ」
「分かっています」
「お前を責めるつもりもない」
道典は典嗣を見た。
「責めるつもりがないなら」
「責めていないことと、許していることは別だ」典嗣は言った。「俺には——東の神を守ることと、お前との旧交を守ることの、どちらを先にすべきか、という問いが来ている。その問いを、お前が作った」
川の音が聞こえた気がした。今度ははっきりと。
「一つだけ聞く」典嗣が言った。
「はい」
「羽鳥の老人と、また会うつもりがあるか」
道典は答えなかった。
答えられなかった、というより——答えが出なかった。会うつもりがある、とは言えなかった。しかし会うつもりがない、とも言えなかった。それは嘘になる。老人がまた橋に来たとき、自分が渡らずにいられるかどうか、道典には確信がなかった。
その確信のなさが、この沈黙の中にある。
典嗣はその沈黙を、しばらく待った。
それから「今夜はもういい」と言って、立ち上がった。
* * *
道典は本道場に一人残った。
燈籠が二つ、板間に光を落としていた。典嗣が出ていった後も、燈籠はまだ燃えていた。典嗣のために灯されていたのか、道典のために灯されていたのか、どちらともつかなかった。
道典はそのまま、しばらく板間を見ていた。
岳人は今ごろ眠っているだろう。早苗がそばにいるだろう。六歳の子どもは石を分類したことも、変なことを言ったと小太郎に言われたことも、明日の朝には忘れているかもしれない。
道典が橋へ通い始めたのは、岳人が生まれる前だった。岳人には関係のないことだった。
それが今夜、岳人の口を通じて典嗣の耳に届いた。
子どもは自分が何を運んでいるか知らない。道典も知らなかった——岳人が何かを運ぶことになると、考えたことがなかった。考えなかったこと自体が、どういうことなのか。
燈籠の光が揺れた。
川の音が、今度は聞こえなかった。




