第6話 羽鳥家との最初の往来
どこから話せばいいか、と道典は思った。
典嗣が向かいに座っている。七海家の道場ではなく、朝比奈家の本道場だ。広い板間に、道典と典嗣だけがいる。燈籠が二つ灯っていて、その間に二人が向き合っている。典嗣の顔は、道典が何十年も見てきた顔だ。叱っているのか心配しているのか判断できない、と子どもの頃に思っていた。今は分かる。今の典嗣の顔は、叱っている。
「話してくれ」と典嗣が言った。「聞かせてもらおう」
道典はしばらく板間を見ていた。それから顔を上げた。
「向こうから来たんだ」と道典は言った。「俺が行ったわけじゃない。向こうが来た」
「それは知っている」
「最初は、橋の上だった」
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あれは道典が三十を少し過ぎた頃のことだ。
朝光祭を数日後に控えた、秋の終わりの朝だった。早苗と所帯を持って二年ほど経っていたが、子どもはまだいなかった。朝の稽古を終えて、一人で中間川の橋へ来ていた。典嗣との稽古ではなく、一人でよく来ていた。
橋の上に、人がいた。
道典が来るより先に、橋の中ほどに立っていた。老人だった。御岳の人間ではない、と一目で分かった。着ているものが違う。腰の姿勢が違う。御岳の人間は石畳を踏んで育つから、どこへ行っても石畳を歩く癖が出る。この老人の立ち方には、その癖がなかった。
道典は橋の手前で止まった。
老人はこちらを向いていた。待っていたように見えた。しかし道典を待っていたのか、それとも誰かを待っていたのか、その時点では判断がつかなかった。
「渡りますか」と老人が言った。
道典は少し考えてから、橋を渡り始めた。
老人の横に並んで、川を見た。秋の水は色が変わっている。夏より暗くて、底の石がくっきり見える。川の音が欄干の振動を通して腕に伝わってくる。道典がずっと好きだった感触だ。
「よく来るんですか」と老人が言った。
「ここへは、よく来ます」道典は言った。「あなたは?」
「初めてです」老人は答えた。「でも、ずっと知っていた場所です」
道典はその言い方が少し引っかかったが、何も言わなかった。
「東でも西でもない場所は、こういう場所のことを言うんでしょうね」老人は川を見ながら言った。「川の中央。どちらにも属さない水の上」
道典は老人を見た。老人は川を見たままだった。
東でも西でもない——道典が父に、典嗣に言われてきた言葉だった。禁忌として言われてきた言葉だった。この老人はそれを、禁忌の色をまったく帯びずに言った。ただそういうものがある、という言い方で言った。
「七瀬の家の方ですね」と老人が言った。
道典は止まった。「なぜ分かるんですか」
「剣先の向きで分かります」老人は穏やかに言った。「東を向こうとして、少しだけ南へ流れる。そういう剣先を持つ人間を、私は一人しか知りません」
道典は何も言えなかった。
老人が初めて道典のほうへ顔を向けた。白髪で、目尻に深い皺がある。目が静かだった。叱っているのでも、値踏みしているのでも、なく——ただ確かめている、という目だった。
「羽鳥と申します」と老人は言った。
* * *
「そこで名前を聞いた」と道典は言った。「羽鳥。向こうが名乗った」
典嗣は黙っている。
「俺は何もしていない。ただ橋の上にいた。向こうが来て、向こうが話しかけて、向こうが名乗った」
「続けてくれ」典嗣が言った。声は静かだ。静かな分、何かが底に沈んでいる気がした。
* * *
羽鳥と名乗った老人は、神の成り立ちについての古い記録を持っていた。
その日ではない。その日は名乗り合っただけで、老人はすぐに橋を渡って去った。また会うとも、会わないとも言わなかった。道典はしばらく橋の上に残って、川を見ていた。川の音が変わった気がした——変わっていないのに、何かが違って聞こえた。
二度目に橋で会ったのは、朝光祭が終わってから半月ほど後だった。
老人はまた橋の中ほどにいた。今度は巻物を一つ持っていた。
「ご覧になりますか」と老人は言った。
道典は「拝見します」と答えた。
答えてから、「なぜ?」と自分に問い質した。なぜ「拝見します」と言ったのか。断る理由がなかったから、というのが一番正直な答えだった。断る理由——巻物を見てはいけない理由が、道典には思いつかなかった。
巻物には、東の神と西の神の成り立ちが書いてあった。朝比奈家で教わったこととほぼ同じだったが、少し違うところがあった。東でも西でもない「間」についての記述があった。「間を見守る者がある」という一行だった。御岳の伝承にはない記述だった。
「これは?」と道典は言った。
「羽鳥の家に伝わるものです」老人は答えた。「東の家でも西の家でも、記録していないものを記録している」
「間を見守る、というのは」
「文字通りのことです」老人は言った。「東が東であるために、西が西であるために、間が必要だ。間を誰かが見ていなければ、東も西も自分の輪郭を保てない。そういうことを、ずっとやっている家です」
道典はその言葉を聞いて、何かを思い出そうとした。蔵の巻物の崩し字。「東でも西でもない」「見守る」「家系」——読めた断片が、老人の言葉と重なった。
「七海の家も、そういう記録を持っていませんか」と老人が言った。
道典は答えなかった。
老人はそれ以上聞かなかった。
* * *
「それ以来、何度か会った」と道典は言った。「橋の上で。老人が来て、俺がいた。それだけのことだ」
「それだけのことでは、ない」典嗣は言った。
「裏切りのつもりはなかった」
「分かっている」
「分かっているなら——」
「分かっている、と言っている」典嗣の声が、少し低くなった。「お前が裏切ろうとしていたとは思っていない。だから余計に、どうしていいか分からない」
道典は典嗣を見た。典嗣は板間を見ていた。
叱っているのか心配しているのか。子どもの頃は判断できなかった。今は分かる。今の典嗣の顔は、どちらでもない。
道典はそれまで、典嗣のそういう顔を見たことがなかった。
「お前が橋にいた」典嗣はゆっくり言った。「橋の中央に。東でも西でもない場所に。俺には見えていた。ずっと前から見えていた。でも言わなかった。お前が橋から戻ってくることを、待っていた」
川の音が、どこかから聞こえた気がした。
道典は何も言わなかった。
燈籠が二つ、板間に光を落としていた。二人の影が、板間の上で揺れていた。




