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鏡淵の調律 外伝 七海家前史 御岳から宮城へ、宮城から出雲へ —— 七海雫が生まれるまでの血脈  作者: ちとせ鶫
序章 御岳の旧交

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第5話 早苗との出会い

御岳の外には、

御岳の言葉が届かない場所がある。


東でも西でもない、

ただ“外”と呼ばれる世界。


道典が早苗と出会ったのは、

その外の世界の、ごく小さな通りだった。


川の音と混ざらず、

剣の誓いとも関係なく、

ただ“言葉だけ”が届く場所。


この回は、

道典が初めて「御岳の外の声」を受け取る場面であり、

七海家の運命が静かに別の方向へ傾き始める瞬間。

# 七海家前史 序章 第五話「早苗との出会い」


---


 御岳の外へ出ることは、それほど珍しいことではなかった。


 山を下りた先に、いくつか町がある。御岳の人間はそこへ買い出しに行ったり、用事を済ませに行ったりする。道典も年に数回は行った。ただ、御岳の人間は外の町でも大体御岳の人間同士でかたまって動く。外の人間と長く話すことは、あまりない。


 早苗に会ったのは、道典が二十三か二十四のころだった。


 用事があって一人で山を下りた日の、帰り道のことだ。道に迷ったわけではないが、来るときに使わなかった路地を試しに歩いたら、見慣れない通りに出た。小さな商店が並んでいて、夕方の光が通りを斜めに照らしていた。


 早苗は、その通りの端にある茶屋の軒下にいた。


 何かを読んでいた。本か、紙か、遠くからでは分からなかった。道典が通り過ぎようとしたとき、ちょうど日が傾いて、軒下が暗くなった。早苗が顔を上げた。道典と目が合った。


 それだけだった。


 道典は通り過ぎた。路地の角まで来て、なぜか止まった。引き返すつもりはなかった。ただ、足が止まった。


 少しして、また歩き始めた。御岳へ戻る道を取った。


     * * *


 次にその通りへ行ったのは、二週間後だった。


 用事はなかった。ただ、その通りを通りたくて山を下りた、ということを道典は自分に認めるのに少し時間がかかった。認めてしまえば、単純なことだった。


 早苗はまた軒下にいた。今度は何も読んでいなかった。ぼんやりと通りを見ていた。


 道典は茶屋の前で止まった。


 「先日も通りましたか」と早苗が言った。


 道典は少し驚いた。覚えられていたことより、先に向こうから声をかけたことに驚いた。「通りました」と道典は言った。


 「御岳の方ですか」

 「そうです」


 早苗は少し頷いた。「分かります。歩き方が違う」

 「歩き方が」

 「石畳を歩き慣れた人の足の運びです」


 道典はそれを聞いて、自分の足元を一度見た。土の通りの上に立っていた。石畳ではない。でも体に染みついた歩き方は変わらない、ということらしかった。


 「あなたはここの方ですか」と道典は聞いた。

 「違います」と早苗は言った。「三年前にここへ来ました」

 「どこから」

 「もっと北から」


 それ以上は聞かなかった。早苗も詳しくは言わなかった。釣り合いが取れている気がして、道典はそれでいいと思った。


     * * *


 三度目に会ったとき、茶屋の中で茶を飲んだ。


 向かいに座った早苗は、道典が思っていたより話す人間だった。通りのこと、季節のこと、最近読んだものの話。道典は聞く側に回ることが多かったが、それが苦ではなかった。早苗の話は、急かさない。聞いている人間を置いていかない。


 話の途切れ目に、早苗が聞いた。「御岳では何をしているんですか」


 道典は少し考えた。


 「剣の稽古をしています」

 「剣の」と先を続けて話す。

 「朝比奈という家と、ずっと一緒に。神事に奉納する型があって、毎年それを稽古しています」

 「神事」と早苗は繰り返した。否定でも肯定でもなく、ただ受け取るように。「御岳には東と西で神が違うと聞いたことがあります」


 「そうです」道典は言った。「東に若御魂がいて、西に幽御魂がいる。”七瀬”の家は東の神を守っています」

 「”七瀬”というのがあなたの家ですか」

 「はい」


 早苗はまた少し頷いた。道典は続けようとした。朝比奈家との関係のこと、剣の誓いのこと、川のほうへ剣先が流れることのこと——話せることはいくつかあった。


 でも途中で、止まった。


 話せることと、話せないことの境界が、いつもより手前にある気がした。「羽鳥」という言葉のこと。蔵の巻物のこと。典嗣にも言えなかったこと。それらが、話せることの手前に積んであって、道典はそこから先へ進めなかった。


 「続きは」と早苗が言った。

 「少し、複雑なので」

 「複雑でも構いません」

 「全部は話せないかもしれません」道典は言った。言ってから、少し後悔した。初めて会った相手に言うことではないかもしれない、と思った。


 でも早苗は表情を変えなかった。茶碗を両手で持ったまま、道典を見ていた。


 「全部話せない人間と一緒にいていいのか、ということですか」と早苗は言った。


 道典は驚いて早苗を見た。


 「話せるだけ話してくれれば、十分です」と早苗は言った。「全部でなくても、話してくれた分だけで、大体のことは分かります」


 道典はしばらく早苗を見ていた。


 大体のことは分かります、という言葉の意味を、道典は確かめたかった。何が分かるのか。”七瀬”の家のことが、剣先が川へ流れることが、「羽鳥」という言葉に引かれる感覚が——そのどれかが、話した分だけで伝わる、ということか。


 聞けなかった。


 「そうですか」と道典は言った。それだけ言った。


 早苗が小さく笑った。道典はその笑い方を見て、後悔が少し薄くなった。


     * * *


 帰り道、御岳へ続く坂を上りながら、道典は考えた。


 話せるだけ話してくれれば十分だ、という言葉を、道典は川の音と一緒には受け取らなかった。


 朝光祭が終わった翌日、橋の上で、典嗣の「一緒に守ろう」を川の音と混ぜて受け取ったときとは、違った。早苗の言葉は、川の音が聞こえない場所で聞いた。土の通りの、茶屋の中で。だから言葉だけで届いた。混ざらずに、そのまま届いた。


 それが、何かを変えた気がした。


 何が変わったのかは、すぐには分からなかった。ただ坂を上りながら、御岳の石畳が見えてきて、足の裏がその感触を思い出して、道典は少しだけ、自分が二つの場所に同時にいる感覚を持った。


 石畳の上の自分と、土の通りの茶屋で話していた自分。どちらが本当というわけではなく、どちらも同じくらい本当だった。


 東の山の稜線が、夕暮れの空を背景に黒くなっていた。


 川の音は、まだ聞こえなかった。


 道典は石畳を踏んで、御岳へ戻った。



〔序章 完〕

典嗣の言葉は、いつも川の音と混ざって届いた。

父の言葉は、家訓と誓いの重さと一緒に届いた。


だが早苗の言葉は違う。

混ざらず、

濁らず、

ただ“言葉そのもの”として道典に届いた。


「話せるだけ話してくれれば、十分です」


その一言が、

道典の中の境界を静かに揺らした。


御岳の石畳と、

外の土の通り。

どちらも本当で、どちらも嘘ではない。


序章はここで終わる。

だが道典の揺らぎは、

まだ始まったばかり。


次章、

七海家と朝比奈家の関係が決定的に断たれる

「密通と露顕」 が描かれる。

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