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鏡淵の調律 外伝 七海家前史 御岳から宮城へ、宮城から出雲へ —— 七海雫が生まれるまでの血脈  作者: ちとせ鶫
序章 御岳の旧交

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第4話 羽鳥という言葉

御岳には、

「知らぬ名を口にすると、道が変わる」という古い言い伝えがある。


七海家の蔵に眠る古い紙束。

そこに書かれていたのは、

朝比奈家でも七海家でもない——

“第三の家”の名。


羽鳥。


東でも西でもない場所を見守る家系。

その言葉に触れた瞬間、

道典の中で何かが静かに動き始める。


この回は、

七海家が“御岳の誓い”から外れていく最初の音が、

かすかに響く場面。


道典はまだ気づかない。

だが、この日から彼はもう、

典嗣と同じ場所には立てなくなる。

 七海家の蔵は、道場の裏にある。


 板戸が二枚あって、内側から木の閂がかかっている。道典は子どもの頃から、この蔵の前を何度も通り過ぎてきた。中に何があるかは、大体知っていた。古い農具と、使わなくなった器と、父が「触るな」と言った木箱がいくつか。暗くて、ほこりっぽくて、夏でも少し冷たい場所だ。


 蔵に入ったのは、父が出かけた午後のことだった。


 理由があったわけではない。朝光祭から半月ほど経って、稽古もなく、典嗣とも会っていない日の、手持ち無沙汰な時間に、なんとなく板戸を引いた。閂は、内側からでなければかからない構造になっていた。つまり外からは、ただ引けば開く。道典はそれを初めて確かめた。


 中は暗かった。板戸の隙間から光が斜めに入って、ほこりが光の中で動いているのが見えた。


 道典は目が慣れるまで、入り口に立っていた。


 農具が左側の壁に立て掛けてある。鍬と鎌と、用途のよく分からない木の柄。奥に木箱が三つ重なっている。父が「触るな」と言ったやつだ。右側の棚に、布に包まれた細長いものが何本かある。


 道典はその細長いものに近づいた。


 布を開くと、紙を巻いたものだった。巻物、というほど大げさではない。半紙を何枚か重ねて端から巻いて、紐で結んであるだけのものが、四本か五本あった。紐は古くなっていて、引っ張ると簡単にほどけた。


 広げてみた。


 文字が書いてあった。筆で書いた、古い字だ。崩し字で、道典が読める字と読めない字が半々くらいだった。読める部分だけ拾っていくと、何かの由来か、系譜のようなものらしかった。人の名前らしき文字列が縦に続いて、横に短い言葉が添えてある。


 二本目を広げた。これも同じような系譜だった。


 三本目を広げたとき、見慣れない言葉が目に入った。


 「羽鳥」という二文字だった。


 道典は目を細めた。羽、鳥。読み方は分かる。「はとり」だろうか。それとも別の読みがあるのか。意味は——鳥の羽、ということしか思いつかない。御岳で聞いたことのない言葉だった。


 前後の文字を読もうとした。崩し字がひどくて、半分以上が読めなかった。「東でも」という文字は読めた。「西でも」という文字も読めた。その間に何か書いてあるが、かすれていて判別できない。「見守る」という言葉と、「家系」という言葉は読めた。


 東でも西でもない、何かを見守る家系。


 それが「羽鳥」と関係している。


 道典はしばらく、その部分を見ていた。光が斜めに入ってきて、紙の上のほこりが光の中で揺れた。「羽鳥」という文字だけが、周りより少し濃く書かれているように見えた。最初から濃かったのか、他の字が薄れていく中でそう見えるのか、判断はつかなかった。


 紐を結び直して、棚に戻した。


     * * *


 翌日、典嗣と稽古をした。


 いつも通りの朝の稽古で、二人で型を打って、型の細かい部分について典嗣が指摘して、道典がそれを直す。いつも通りの時間だった。


 稽古の終わりに、道典は言おうとした。


 蔵で古い巻物を見つけた、ということ。「羽鳥」という言葉があった、ということ。東でも西でもない何かを見守る家系のことが書いてあった、ということ。


 言葉が、のどの手前まで来た。


 典嗣が木刀を鞘に収める動作をしていた。いつもと同じ、丁寧な動作だった。道典はその動作を見ながら、言葉が出てくるのを待った。


 出てこなかった。


 正確には、出てくる前に引っかかった。何かが、言葉の前にあった。引っかかりの正体がすぐには分からなかった。典嗣が悪いわけではない。話してはいけない理由も、思いつかない。ただ、何かが——


 「どうした」典嗣が言った。道典を見ていた。


 「なんでもない」道典は言った。


 典嗣はしばらく道典を見てから、「そうか」と言って先に道場を出た。


 道典は一人で板間に残った。


     * * *


 その夜、道典は引っかかりの正体を考えた。


 なぜ言えなかったのか。


 怖かったのかもしれない、とまず思った。知ってはいけないものを見てしまったような気がして、それを口にすることで何かが動き始めるのが怖かった。でも、それだけではない気がした。


 次に思ったのは、典嗣に言ったとして、典嗣がどう反応するか、が分からなかった、ということだ。「羽鳥」という言葉を聞いて、典嗣が何と言うか。知っているのか知らないのか。知っていたとして、どういう意味で知っているのか。道典には見当がつかなかった。見当がつかないまま言葉を出すことへの、ためらい。


 でも、一番正直に言うなら——と道典は思った——言えなかった理由は、自分の中にある。


 蔵で「羽鳥」という言葉を見たとき、道典は何かを感じた。川の音を聞くときに似た感覚だった。引かれる、というより、既に知っていたものに再び会うような感覚。「好きか嫌いか」より先に「知っている」という感覚。


 それを典嗣に話すことが、なぜかできなかった。


 川が好きだということは、典嗣に言える。剣先が南へ流れることは、典嗣に知られている。でも「羽鳥」という言葉に引かれた感覚は、言えなかった。


 違いが何なのか、道典にはまだ分からなかった。


 ただ、言えなかったのは典嗣のせいではない、ということだけは分かった。言えない理由は、自分の中にある。自分の中のどこかに、まだ言葉になっていない何かがあって、それが口を塞いだ。


 道典は天井を見ながら、「羽鳥」という文字を頭の中で何度か書いた。


 羽。鳥。


 東でも西でもない何かを見守る家系。


 川の音が、南から聞こえた。


 道典はそれを聞きながら、今夜も答えの出ないまま、目を閉じた。

「羽鳥」という言葉に触れたとき、

道典は“知っている”という感覚を覚えた。

それは川の音に似て、

懐かしく、引かれるようで、

しかし理由の分からない感覚。


典嗣に言えなかったのは、

秘密を守りたかったからではない。

怖かったからでもない。


ただ、自分の中の“まだ言葉にならない何か”が、

口を塞いだだけだった。


この沈黙こそが、

七海家と朝比奈家の未来を分ける最初の分岐点。


川の音は南から聞こえる。

羽鳥という言葉もまた、

東でも西でもない“間”から響いてくる。


次話、

道典と早苗の出会いが描かれ、

七海家の運命はさらに静かに傾き始める。

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