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鏡淵の調律 外伝 七海家前史 御岳から宮城へ、宮城から出雲へ —— 七海雫が生まれるまでの血脈  作者: ちとせ鶫
序章 御岳の旧交

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第3話 家訓の夜

御岳には、

「家訓は血より重い」という言葉がある。


朝比奈家の誓いは東へ。

七瀬家(七海家)もまた、その誓いの中にあったはずだった。


だが、

道典の剣先は、東ではなく“川”へ向かう。


それは技の癖ではなく、

意思でもなく、

ただ“好き”という感覚に近いもの。


この夜、

父から語られる家訓は、

道典にとって“初めての境界”となる。


東へ向けと言われる剣先が、

なぜ南へ流れるのか。


その理由を、

道典はまだ知らない。

 父に呼ばれたのは、朝光祭から三日後の夕方だった。


 道場に来い、と言われた。道場といっても、七海家の道場は朝比奈家の本道場より小さい。板間が六畳ほどで、壁に木刀が二本かかっていて、隅に砥石が置いてある。それだけの場所だ。父はここで道典に型を教えてきた。ここで叱られたことも、何度かある。


 道典が入ると、父は板間の中央に正座していた。


 道典も向かいに座った。


 父はすぐには話さなかった。道典も黙っていた。父と二人でいるときはいつもこうだ。言葉が出てくるまで待つ。急かすと、出てくるはずだった言葉が引っ込んでしまう。


 しばらくして、父が言った。


 「朝光祭の奉納を見ていたが」

 「はい」

 「最後の型、東へ向けられていたな」

 「はい」


 父はそこで一度、息を吸った。


 「お前の剣先は、毎年少し南へ流れる」


 道典は答えなかった。典嗣にも同じことを言われた、とは言わなかった。父はそれを知っているのかもしれないし、知らないのかもしれない。どちらにしても、今は聞かれていることだけに答えるほうがいい気がした。


 「分かっているか」と父は言った。

 「はい」

 「南に何がある」

 「川です」


 父がもう一度、息を吸った。今度は少し長い息だった。


 「若御魂の剣は、川に向けてはならない」


 道典は父の顔を見た。父は道典を見ていた。叱っているのではない、と思った。諭している、というのとも少し違う。何か大事なことを渡そうとしている——そういう顔だった。


 「東の神は東にいる。剣先は東に向ける。それが朝比奈から続く誓いで、”七瀬”もその誓いの中にある。分かるか」

 「分かります」

 「川に向けてはならない。川は中間だ。中間は、どこにも属さない」


 どっちつかず、という典嗣の言葉を、道典は思い出した。


 「はい」と道典は言った。

 「朝比奈家と同じ誓いを守れ」

 「守ります」


 父は道典の目を見てしばらくいて、それから小さく頷いた。「行っていい」と言った。


 道典は立ち上がって、道場を出た。


     * * *


 夜になった。


 家の中が静かになってから、道典は一人で庭に出た。木刀を持って。父には言わなかった。母も寝ていた。庭は暗かったが、月が出ていたので、足元は見えた。


 型の入りから始めた。「朝光の一」。


 剣先を動かしながら、道典は東の方角を確認した。月の位置から大体の見当はつく。東はあちらだ。「朝光の二」に移る。剣先を東へ。ちゃんと向けた。


 問題は最後の振り下ろしだ。


 道典はゆっくりやってみた。剣先を東に向けたまま、腕を上げて、振り下ろす——


 流れた。


 南に、流れた。


 木刀の先が、川のほうへ向いていた。ゆっくりやっても、同じだった。意識しても、同じだった。振り下ろす瞬間に、何かに引かれるように、剣先が南へいく。


 道典はもう一度やった。今度は剣先が南へ向かいそうになった瞬間に、力で押さえた。東へ、東へ、と念じながら押さえた。剣先は東を向いた。でも腕が震えていた。型として成立していなかった。


 もう一度。今度は押さえずにやった。


 南へ流れた。


 道典は木刀を下ろして、しばらく立っていた。


 川の音が聞こえた。庭からでも、夜は聞こえる。昼より静かな分、遠くの音まで届く。中間川の水の音が、南から来ていた。


 好きなんだ、と道典は思った。


 川が好きだ。川の音が好きだ。橋の上から水を見るのが好きだ。剣先が川へ向かうのは、たぶんそういうことだ。止めようとしても流れるのは、止め方が分からないからではなくて、止めたいのかどうか自分でも分からないからかもしれない。


 でも、と道典は思った。


 「好き」でいいのか。


 父は「川に向けてはならない」と言った。典嗣は「中間はどっちつかずだ」と言った。二人とも間違ったことは言っていない。東の神を守る剣が川を向いては、意味がない。それは道典にも分かる。


 だから「好き」でいいのか、という問いは残る。


 好きなものへ向かってはいけない、というわけではないと思う。でも好きなものへ向かい続けると、向かってはいけない場所へ行くことになるかもしれない。その手前のどこかで止まれるのかどうか、道典にはまだ分からなかった。


 月が少し動いた。


 道典はもう一度、型の入りに戻った。「朝光の一」。「朝光の二」。剣先を東へ。振り下ろす——


 今度は止めなかった。力で押さえもしなかった。ただ、剣先が南へ向かおうとする感覚を、そのまま感じた。


 剣先は東を向いたまま、止まっていた。


 道典は少し驚いた。南へ流れなかった。でも、流れなかった理由も分からなかった。さっきと何が違うのか、自分でも説明できなかった。


 月が雲に入った。庭が少し暗くなった。


 川の音は、まだ聞こえていた。


     * * *


 その夜、道典は東を向いて眠った。


 東を向いて眠ることは、七海家の習慣だった。父もそうする。父の父もそうしていたと聞いた。若御魂のいる東の方角に顔を向けて眠る——それが七海家の在り方だ。


 道典は目を閉じながら、川の音を聞いていた。


 南から来る音が、東を向いた耳の裏まで回ってくる気がした。


 好きか嫌いか、と誰かに問われたら、好きだと答えると思った。川が、という意味で。向いてはいけないものが好き、という意味ではなくて、ただ、川が好きだ、という意味で。


 その二つがどう違うのか、言葉にできるかどうか、道典にはまだ分からなかった。


 眠りに落ちる前に、最後にもう一度だけ、川の音がはっきり聞こえた。


東を向いて眠る七海家の習慣。

南から聞こえる川の音。

その二つが、道典の中で静かに重なり始める。


父の言葉は正しい。

典嗣の言葉も正しい。

だが、

道典の剣先が向かう先だけが、誰の言葉にも当てはまらない。


好きという感覚は、

時に禁忌より強い。


この夜、

道典は初めて“止めずに感じる”という選択をした。

それが何を意味するのかは、まだ分からない。


ただ、

七海家が御岳から離れていく未来は、

すでにこの夜の庭で始まっていた。


次話、

道典が「羽鳥」という言葉に出会い、

沈黙が生まれる。

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