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鏡淵の調律 外伝 七海家前史 御岳から宮城へ、宮城から出雲へ —— 七海雫が生まれるまでの血脈  作者: ちとせ鶫
序章 御岳の旧交

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第2話 中間川の橋

御岳には、

“川を見ると本心が揺れる”という古い言い伝えがある。


東の神を守る者は山を見よ。

西の神を恐れる者は影を見よ。

そして——

間を歩く者は、川を見る。


朝光祭の翌日、

典嗣が道典を中間川へ誘ったのは、

ただの散歩ではなかった。


二人の剣がまだ同じ軌道を描いていた頃、

すでに“向く先の違い”は始まっていた。


その違いが、

川面に最初の形を現す。

 朝光祭が終わった翌日、典嗣が「川を見に行こう」と言った。


 理由は言わなかった。典嗣はいつもそうだ。行き先だけ言って、なぜかは言わない。道典はそれに慣れていたから、「うん」とだけ答えて並んで歩いた。


 中間川へ続く道は、参道から一本外れた細い路地を抜けていく。石畳が途切れて、土の地面になって、両側に低い石垣が続く。秋の終わりで、石垣の隙間から草が枯れかけて飛び出ていた。二人の足音は、石畳のときと違って、くぐもった音になった。


 橋が見えてきた。


 古い木の橋で、欄干が低い。渡るたびに板がかすかに震える。道典はこの橋が好きだった。足の裏に伝わる振動が、川の重さのように感じられて、渡るたびに川の中にいる気持ちになる。


 典嗣が橋の中ほどで立ち止まった。道典も並んで立った。


 川を見下ろすと、水面が光っていた。秋の朝の光が斜めに差して、川の表面がところどころ白く弾けている。水は透明で、川底の石が見える。大きいのと小さいのが混ざって、流れに磨かれて丸くなっている。


 典嗣が欄干に肘をついた。道典も同じようにした。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 川の音が、欄干の振動を通して腕に伝わってくる。遠いようで近い、近いようで遠い音。道典はこの感覚も好きだった。川が自分の体の中に少しだけ入ってくるような感じ。


 「昨日の奉納、よかった」典嗣が言った。川を見たままで。


 道典は少し驚いた。典嗣が稽古以外の場所で剣の話をすることは、あまりない。「剣先、ちゃんと東へ向けられてた」


 「お前のほうが上手い」道典は言った。


 「違う」典嗣は即座に返した。「上手い下手じゃない。向く先が同じだったということだ」


 道典は何も言わなかった。


 川の水面を見ていると、自分の顔が映っているのが分かった。波立っているから、輪郭がゆらゆら揺れて、はっきりしない。道典の顔と、川底の石と、空の光が、全部ひとつに混ざって揺れている。


 典嗣の顔も映っているはずだ、と思って、もう少し川面を見た。


 典嗣は映っていなかった。


 道典は目を細めた。橋の上に典嗣はいる。隣に立っている気配がある。でも川面には道典の顔しかない。光の角度のせいか、典嗣の位置からは水面に届かないのか、理由は分からなかった。一瞬のことで、すぐに波が来て、道典の顔も揺れて見えなくなった。


 気のせいだと思った。


 「七海の家も、朝比奈と同じ神を守っているんだろう」典嗣が言った。


 道典は川から目を上げた。典嗣はまだ水面を見ていた。問いかけているのか、確認しているのか、声の調子からは判断がつかなかった。


 「同じだ」と道典は言った。


 典嗣が小さく頷いた。


 「じゃあ、一緒に守ろう」と典嗣は言った。「ずっと。お前と俺で」


 言葉は川の音に混じって、道典の耳に届いた。川が少し増えたような重さで、言葉が体に入ってきた。


 道典は「うん」と言った。


 それ以外の言葉が出てこなかった。出てこなかったというより、それ以外は必要ない気がした。典嗣も何も続けなかった。二人はしばらくそのまま、欄干に肘をついて川を見ていた。


   * * *う


 帰り道、道典はひとつのことを考えていた。


 川面に典嗣が映っていなかったこと。


 一瞬だけのことで、光の具合でそうなっただけだと分かっていた。でも、なぜかそれが頭から離れなかった。川に映っていたのは道典だけで、典嗣はいなかった。「一緒に守ろう」と言ったのは典嗣で、「うん」と言ったのは道典で、川面にいたのは道典だけだった。


 何かが引っかかっているのは分かるが、それが何なのかは分からなかった。


 道典は典嗣の隣を歩きながら、石垣の草を見た。枯れかけた草が風に揺れていた。川の音はもう聞こえない。二人の足音だけが、土の道の上に続いていた。


 「お前、川が好きだよな」典嗣が突然言った。


 道典は驚いて典嗣を見た。典嗣は前を向いていた。


 「なんで?」

 「毎回橋の上で、いつまでも川を見てる。魚がいなくなっても見てる。俺が声をかけないと帰ってこない」


 道典は少し考えた。「好きか嫌いかで言えば、好きだと思う」


 「川は、東でも西でもない」典嗣が言った。「中間だ」

 「そうだな」

 「中間は、どっちつかずだ」


 道典は返事をしなかった。典嗣も続けなかった。


 どっちつかず、という言葉が、足音と一緒に土の道に落ちていった。拾い上げるか拾い上げないか、道典はしばらく迷って、結局そのままにした。


 参道の入り口まで戻ってくると、典嗣が「また明日」と言って別れた。道典は「うん」と言って、典嗣が角を曲がって見えなくなるまで見送った。


 それから、また川のほうを向いた。


 木々の間から、橋の端が少しだけ見えた。川の音は、ここからでも聞こえた。


 典嗣の言葉が、まだ体の中にある気がした。川の音と一緒に届いた言葉。一緒に守ろう、ずっと、お前と俺で。道典はそれを「うん」と受け取った。川の音と一緒に受け取ったから、言葉と川の音が混ざって、どちらがどちらか、今となってはよく分からなくなっていた。


 それでいいと思った。


 混ざっているほうが、自分には合っている気がした。

川面に映らなかった典嗣の姿。

「中間はどっちつかずだ」という言葉。

そして、川の音と混ざって届いた「一緒に守ろう」。


道典はまだ気づいていない。

この日、橋の上で起きた“わずかなズレ”が、

七海家と朝比奈家の未来を決定づけることを。


川は東でも西でもない。

ただ“間”を流れ続ける。


そして道典の剣先もまた、

その“間”へと静かに引かれ始めていた。


次話、

七海家の家訓と禁忌が語られ、

道典の「向く先」がさらに揺らぎ始める。

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