第25話 春の竹刀
春になった。
雪が解けるのに時間がかかった。三月になっても川岸に白いものが残り、四月に入ってからようやく土が見えた。土が見えてから、少しずつ草が出た。
道典が死んで一年が経った。
* * *
岳人は毎朝、竹刀を持って外に出た。
特に決めたわけではない。気づいたらそうなっていた。父の砥石を枕の近くに置いて寝るようになったのも同じで、いつそうしたか分からない。ただそうなっていた。
庭は広くない。前の住人が残した石があって、左側に傾いた古い木がある。岳人はその木と石の間に立って、型を始める。父から教わった型だ。教わった時から変えていない——変え方を知らない。
剣先がどこを向いているか、と岳人は考える。
東ではない。父は東を向いて眠り、東を向いて死んだ。岳人には東への向きが分からない。宮城に来て十年以上経つと、御岳がどの方角にあるか体の感覚が教えてくれなくなる。川のほうでもない。西でもない。
ただ、前を向いている。
前というのは、庭の端に立っている石のほうだった。意味はない。そちらに向けたわけでもない——型を始めると、自然にそちらへ向く。石は何も言わない。型が終わると、剣先は石より少し上の空気を向いている。
それでいいのかどうか、岳人には分からない。ただ毎朝やっている。
* * *
その朝も型を終えたところで、ツネさんの声がした。
「上手くなったね」
縁側を見ると、ツネさんが腰を下ろしていた。いつ来たのか分からなかった。草履が揃えて置いてあった。ツネさんは縁側に座って庭を見ていた——岳人が気づく前から見ていたのかもしれない。
「いつからいたんですか」
「少しね」とツネさんは言った。「邪魔するのも悪いから」
岳人は竹刀を下ろした。「見ていましたか」
「見ていた」ツネさんは庭に目を向けたまま言った。「父親の型だね」
「そうです」
「継いでいる」
岳人は少し考えた。「型は継いでいます。でも向く先は継いでいない」
「そう」とツネさんは言った。「そうだと思った」
* * *
岳人は縁側の端に腰を下ろした。ツネさんとは少し距離を置いた。庭に朝の光が入ってきていた。草が短く、石が光を受けて白っぽく見えた。
「向く先、まだ分かりません」と岳人は言った。
「うん」
「分からないまま型だけやっている。それでいいのかどうかも、分からない」
ツネさんはしばらく何も言わなかった。庭を見ていた。岳人も庭を見た。石のほうを見ると、さっきまで竹刀の剣先が向いていた場所が見えた。空気だけがある。
「分かった時が、次に行く時だよ」とツネさんは言った。
岳人はその言葉を受け取った。ゆっくりした言い方だった。結論ではなく、ただ置いたような言い方だった。
「次に行く、というのは」
「あんたには行くところがある」ツネさんは言った。「千鶴さんが来た時だ。来た時が行く時だ——まだ来ていないから、まだここにいる。ただそれだけのことだよ」
「来るんですか、まだ」
「来る」ツネさんは言った。少し間があった。「私はもう見ないかもしれないけれど」
岳人はツネさんの顔を見た。ツネさんは庭を見ていた。顔が変わっていた。飄々とした様子は同じだが、何かが薄くなっているような——光の入り方が変わっているような。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ」ツネさんは言った。笑い方が少し違った。「春になったからね。冬が終わる時に終わる者もいる」
岳人は何も言えなかった。
「長く生きたよ」とツネさんは言った。「この土地の記憶を少し受け取って、長く生きた。それで十分だった」
* * *
ツネさんはそのまましばらく縁側に座っていた。岳人も座っていた。二人で庭を見ていた。
草が風に揺れた。石はそのままだった。
「砥石は」とツネさんが言った。
「研いでいます」
「毎日か」
「錆びない程度には」
ツネさんは小さく笑った。「父親のことを言っているみたいだよ」
岳人は砥石のことを思った。枕の近くに置いてある砥石を。父が毎晩研いでいた砥石を。「剣は錆びる。使わなくても錆びる」という父の言葉を。「錆びさせないために研ぐんだ」というツネさんの言葉を。
同じことを、二つの言い方で言っている。
「ツネさんは父と会ったことがないんですよね」と岳人は言った。
「ない」
「なのに父のことが分かるんですか」
「土地の記憶で分かる」ツネさんは言った。「砥石の話も、間を歩く話も——この土地は知っていた。あんたの父が来る前から、そういう者が来ると知っていた。だから分かった」
「ツネさんも間を歩く人ですか」
ツネさんは少し考えた。「私は歩かなかった。ここに根を張った。歩く者と、根を張る者がいる——どちらも必要だよ」
* * *
ツネさんが帰るとき、縁側に立って一度だけ振り返った。
「あんたは雪の中でよく育った」とツネさんは言った。
岳人は何と言えばいいか分からなかった。「ありがとうございます」と言った。
「礼はいらないよ」ツネさんは言った。「土地が育てた。私は見ていただけだ」
そう言って、ツネさんは帰っていった。
岳人はしばらく縁側に立っていた。庭の石を見ていた。剣先が向いていた場所を見ていた。そこには何もなかった。空気だけがあって、草が揺れていて、朝の光が落ちていた。
「分かった時が、次に行く時だ」という言葉が、岳人の中に残っていた。
* * *
翌朝、岳人がツネさんの家を訪ねると、戸が開いていた。
入ると、ツネさんは布団の中にいた。東でも西でもなく、庭のほうを向いて、目を閉じていた。顔は穏やかだった。冷たかった。
岳人はしばらくその場に立っていた。
やがて縁側から庭を見た。ツネさんの庭は狭かった。雑草が短く、石が一つあった。石の向こうに、まだ雪の残った山が見えた。
岳人は砥石を握った。懐に入れていた砥石を、手の中で握った。
来るものが分かっている、という待ちの形が岳人の中にある。それはツネさんが置いていったものだった。ここに根を張ったツネさんが、歩いていく岳人に渡したものだった。
春の光が庭に入っていた。東も西も同じに照らしていた。
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岳人はその日、砥石を研いだ。
錆びさせないために。
次に行く日まで。




