第26話 千鶴が来た日
ツネさんが死んで、数年が経った。
村に仕切る者がいなくなると、神事が少し崩れた。誰かがツネさんの役を引き継ごうとしたが、ツネさんのようにはいかなかった。引き継いだ者は悪くなかった。ただツネさんではなかった。岳人はそれを見て、ツネさんがどういう者だったかを少し後から理解した。土地の記憶を受け取っている者は、代わりがきかない。
岳人は竹刀の稽古を続けていた。毎朝、庭の石のほうを向いて型をやる。型は変えていない。剣先は前を向いている。それだけだった。
二十代の後半になっていた。
* * *
冬の入り口の朝だった。
岳人が型を終えて縁側に上がろうとしたとき、門のほうに人の気配があった。村の者ではない、と体が先に知った——足音の間隔が、この村の者とは違う。
振り向くと、女が立っていた。
年は岳人より少し下か、同じくらいか。紺の厚手の着物に、旅慣れた足元をしていた。荷物は少なかった。長くここに留まるつもりはない、という荷物の量だった。岳人を見て、少し頭を下げた。
「七海岳人さんですか」
「そうです」
「羽鳥千鶴といいます」と女は言った。「縁を繋ぎに来ました」
* * *
岳人は動かなかった。
動けなかったのではない。受け取るのに少し時間がかかっただけだった。「来た時が行く時だ」とツネさんが言っていた。「来るよ、そのうち」とも言っていた。父の手帳の一行も、岳人の中にあった。「羽鳥千鶴を、頼れ」——その名前が今、目の前に立っていた。
「中へ」と岳人は言った。
千鶴は「失礼します」と言って門をくぐった。草履が揃えて置いてあった縁側を見て、そこには上がらず、庭に立ったまま岳人を待った。ツネさんが縁側に腰を下ろしていた場所に目がいった。千鶴はそこを見ていなかった——ただ岳人を見ていた。
「縁を繋ぐ、というのは」と岳人は言った。
「七海岳人さんに、と思ってきましたが」千鶴は少し考えるように言った。「正確には、間を歩く家系に、でしょうか」
岳人はその言い方を受け取った。「間」という言葉をこの女は知っている。知っているだけでなく、使い慣れている。
「父から聞いていました」と岳人は言った。
千鶴は「そうですか」と言った。少し間があった。「お父様は賢い方でした」
過去形だった。知っている、と言ったのではない。知っていた、でもない。「賢い方でした」——道典のことを、既に終わった者として知っている言い方だった。
* * *
茶を出した。早苗は奥にいた。
気配があったから、聞こえていたはずだったが、出てこなかった。
岳人と千鶴は縁側に並んで座った。庭に朝の光が入っていた。石が光を受けていた。
「どこから来たんですか」と岳人は聞いた。
「島根から、今回は」と千鶴は言った。「今回は、という言い方が正しいかどうか分かりませんが——羽鳥の家は動く家です。一つの場所に留まらない」
「ツネさんが言っていました」
千鶴は少し顔を変えた。「ツネさん」
「この村の老婆です。三年前に亡くなりました。羽鳥の家は動く家だと——間を守る者は、留まれないとも」
「その方が」千鶴は少し考えるような間を置いた。「あなたにそれを話したんですね」
「父のことも知っていました。会ったことがないのに分かると言っていた。土地の記憶で分かる、と」
千鶴は庭を見た。石を見た。「この土地には、そういう方がいたんですね」
「いました」
千鶴はしばらく庭を見ていた。岳人も庭を見た。石はそのままだった。
* * *
「なぜ今、来たんですか」と岳人は言った。
これまで聞けなかった問いだった。ツネさんには何度か聞こうとして、聞けなかった。千鶴には聞けた——この人は答える、と体が先に知っていた。
千鶴は「いくつか理由があります」と言った。「一つは、あなたが待っていたから」
「待っていた、というのが分かるんですか」
「待っている場所には、来やすい」千鶴は言った。「縁は水に似ています。高いところから低いところへ、自然と流れる。あなたがここで待っていたことが、この土地を低くした。だから来られた」
「もう一つは」
「あなたの父が、東を向かなくなったから」
岳人は少し止まった。「父は死んで数年経ちます」
「そうではなくて」千鶴は言った。「道典さんが東を向いていた間は、来られなかった。東を向く者のもとへ羽鳥が来ると、その者を引き抜くことになる——それは羽鳥家のやり方ではない。道典さんが東を向くのをやめた時に、来る道が開いた」
岳人は父のことを思った。東を向いて眠り、東を向いて死んだ父を。「父は死ぬまで東を向いていました」
「はい」千鶴は静かに言った。「だから来たのは今になりました。遅くなって申し訳ありません」
謝罪だった。儀礼的な謝罪ではなかった。本当に申し訳ないと思っている言い方だった。
岳人は「いいです」と言った。「ツネさんが待ちなさいと言ってくれた。待てました」
* * *
千鶴はその日、夕方まで七海家にいた。
話の多くは後日にまわした。今日は来た、ということだけで十分だった——そういう空気だった。岳人が作ったのでも千鶴が作ったのでもなく、二人の間にそういう空気があった。
帰り際に千鶴が「しばらくこの村にいます」と言った。「どのくらい」と岳人が聞くと、「あなたが決まるまで」と言った。
「何が決まるんですか」
千鶴は少し考えた。「それは、あなたが決めることです」
岳人は答えなかった。答えないことが答えになる気がした。千鶴はそれで十分だというように、小さく頭を下げて帰っていった。
岳人はしばらく門のところに立っていた。冬の入り口の空気が冷たかった。千鶴が歩いていった道を見ていた。足音の間隔が、やはりこの村の者とは違った。
* * *
夜、岳人は砥石を研いだ。
いつもより長く研いだ。錆びさせないために研ぐのではなく、手を動かしていたかった。研ぎながら、ツネさんの声を思い出した。「分かった時が、次に行く時だよ」——分かった時が来たのかどうか、まだ分からない。ただ、来るべき者が来た、という感触はあった。
奥から早苗の声がした。「岳人」
「はい」
「今日の方は」
岳人は少し考えた。「羽鳥の家の方です。父の手帳に書いてあった」
早苗はしばらく黙っていた。「そうか」と言った。それだけだった。
岳人は砥石を研ぎ続けた。




