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鏡淵の調律 外伝 七海家前史 御岳から宮城へ、宮城から出雲へ —— 七海雫が生まれるまでの血脈  作者: ちとせ鶫
第4章 羽鳥千鶴

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第26話 千鶴が来た日

 ツネさんが死んで、数年が経った。


 村に仕切る者がいなくなると、神事が少し崩れた。誰かがツネさんの役を引き継ごうとしたが、ツネさんのようにはいかなかった。引き継いだ者は悪くなかった。ただツネさんではなかった。岳人はそれを見て、ツネさんがどういう者だったかを少し後から理解した。土地の記憶を受け取っている者は、代わりがきかない。


 岳人は竹刀の稽古を続けていた。毎朝、庭の石のほうを向いて型をやる。型は変えていない。剣先は前を向いている。それだけだった。


 二十代の後半になっていた。


     * * *


 冬の入り口の朝だった。


 岳人が型を終えて縁側に上がろうとしたとき、門のほうに人の気配があった。村の者ではない、と体が先に知った——足音の間隔が、この村の者とは違う。


 振り向くと、女が立っていた。


 年は岳人より少し下か、同じくらいか。紺の厚手の着物に、旅慣れた足元をしていた。荷物は少なかった。長くここに留まるつもりはない、という荷物の量だった。岳人を見て、少し頭を下げた。


 「七海岳人さんですか」


 「そうです」


 「羽鳥千鶴といいます」と女は言った。「縁を繋ぎに来ました」


     * * *


 岳人は動かなかった。


 動けなかったのではない。受け取るのに少し時間がかかっただけだった。「来た時が行く時だ」とツネさんが言っていた。「来るよ、そのうち」とも言っていた。父の手帳の一行も、岳人の中にあった。「羽鳥千鶴を、頼れ」——その名前が今、目の前に立っていた。


 「中へ」と岳人は言った。


 千鶴は「失礼します」と言って門をくぐった。草履が揃えて置いてあった縁側を見て、そこには上がらず、庭に立ったまま岳人を待った。ツネさんが縁側に腰を下ろしていた場所に目がいった。千鶴はそこを見ていなかった——ただ岳人を見ていた。


 「縁を繋ぐ、というのは」と岳人は言った。


 「七海岳人さんに、と思ってきましたが」千鶴は少し考えるように言った。「正確には、間を歩く家系に、でしょうか」


 岳人はその言い方を受け取った。「間」という言葉をこの女は知っている。知っているだけでなく、使い慣れている。


 「父から聞いていました」と岳人は言った。


 千鶴は「そうですか」と言った。少し間があった。「お父様は賢い方でした」


 過去形だった。知っている、と言ったのではない。知っていた、でもない。「賢い方でした」——道典のことを、既に終わった者として知っている言い方だった。


     * * *


 茶を出した。早苗は奥にいた。

 気配があったから、聞こえていたはずだったが、出てこなかった。


 岳人と千鶴は縁側に並んで座った。庭に朝の光が入っていた。石が光を受けていた。


 「どこから来たんですか」と岳人は聞いた。


 「島根から、今回は」と千鶴は言った。「今回は、という言い方が正しいかどうか分かりませんが——羽鳥の家は動く家です。一つの場所に留まらない」


 「ツネさんが言っていました」


 千鶴は少し顔を変えた。「ツネさん」


 「この村の老婆です。三年前に亡くなりました。羽鳥の家は動く家だと——間を守る者は、留まれないとも」


 「その方が」千鶴は少し考えるような間を置いた。「あなたにそれを話したんですね」


 「父のことも知っていました。会ったことがないのに分かると言っていた。土地の記憶で分かる、と」


 千鶴は庭を見た。石を見た。「この土地には、そういう方がいたんですね」


 「いました」


 千鶴はしばらく庭を見ていた。岳人も庭を見た。石はそのままだった。


     * * *


 「なぜ今、来たんですか」と岳人は言った。


 これまで聞けなかった問いだった。ツネさんには何度か聞こうとして、聞けなかった。千鶴には聞けた——この人は答える、と体が先に知っていた。


 千鶴は「いくつか理由があります」と言った。「一つは、あなたが待っていたから」


 「待っていた、というのが分かるんですか」


 「待っている場所には、来やすい」千鶴は言った。「縁は水に似ています。高いところから低いところへ、自然と流れる。あなたがここで待っていたことが、この土地を低くした。だから来られた」


 「もう一つは」


 「あなたの父が、東を向かなくなったから」


 岳人は少し止まった。「父は死んで数年経ちます」


 「そうではなくて」千鶴は言った。「道典さんが東を向いていた間は、来られなかった。東を向く者のもとへ羽鳥が来ると、その者を引き抜くことになる——それは羽鳥家のやり方ではない。道典さんが東を向くのをやめた時に、来る道が開いた」


 岳人は父のことを思った。東を向いて眠り、東を向いて死んだ父を。「父は死ぬまで東を向いていました」


 「はい」千鶴は静かに言った。「だから来たのは今になりました。遅くなって申し訳ありません」


 謝罪だった。儀礼的な謝罪ではなかった。本当に申し訳ないと思っている言い方だった。


 岳人は「いいです」と言った。「ツネさんが待ちなさいと言ってくれた。待てました」


     * * *


 千鶴はその日、夕方まで七海家にいた。


 話の多くは後日にまわした。今日は来た、ということだけで十分だった——そういう空気だった。岳人が作ったのでも千鶴が作ったのでもなく、二人の間にそういう空気があった。


 帰り際に千鶴が「しばらくこの村にいます」と言った。「どのくらい」と岳人が聞くと、「あなたが決まるまで」と言った。


 「何が決まるんですか」


 千鶴は少し考えた。「それは、あなたが決めることです」


 岳人は答えなかった。答えないことが答えになる気がした。千鶴はそれで十分だというように、小さく頭を下げて帰っていった。


 岳人はしばらく門のところに立っていた。冬の入り口の空気が冷たかった。千鶴が歩いていった道を見ていた。足音の間隔が、やはりこの村の者とは違った。


     * * *


 夜、岳人は砥石を研いだ。


 いつもより長く研いだ。錆びさせないために研ぐのではなく、手を動かしていたかった。研ぎながら、ツネさんの声を思い出した。「分かった時が、次に行く時だよ」——分かった時が来たのかどうか、まだ分からない。ただ、来るべき者が来た、という感触はあった。


 奥から早苗の声がした。「岳人」


 「はい」


 「今日の方は」


 岳人は少し考えた。「羽鳥の家の方です。父の手帳に書いてあった」


 早苗はしばらく黙っていた。「そうか」と言った。それだけだった。


 岳人は砥石を研ぎ続けた。

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