表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡淵の調律 外伝 七海家前史 御岳から宮城へ、宮城から出雲へ —— 七海雫が生まれるまでの血脈  作者: ちとせ鶫
第3章 宮城の寒村

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/23

第19話 岳人、10歳

 十歳になった頃には、「山のほうから」という答えが自分の言葉になっていた。


 最初は父の言葉を借りていた——二章の宿場でそう学んだ。でも何度も使ううちに、岳人の口に馴染んだ。今では意識して使っていない。「どこから来たの」と聞かれると、考える前に出てくる。父の言葉が、岳人の言葉になっていた。


 それが問題かどうか、十歳の岳人には判断できなかった。問題だと感じるには、別の答えを持っていなければならない。岳人には「山のほうから」以外の答えがなかった。正確には——御岳、という答えはあるが、使えない。使えない答えは、持っていないのと少し違う。ただ、区別する言葉を岳人はまだ持っていなかった。


     * * *


 村の子どもたちとは馴染んでいた。


 省吾とはまだ近くにいた。省吾は相変わらず無口で、岳人に何かを聞くことがなかった。聞かない代わりに、何かと一緒にいた。一緒に畑の手伝いをした。一緒に川へ行った。この川は御岳の中間川とは違う——幅が広くて、流れが緩い。川の音が低かった。岳人はその音を聞きながら、御岳の川を比べようとして、比べるための記憶がないことに気づいた。音の記憶はある。でも川の姿の記憶がない。御岳の川は、岳人には音だけだった。


 そういうことを、省吾に話したことはなかった。


 話す必要を感じなかった、というより——話し方が分からなかった。御岳の記憶がない、ということをどう言葉にすればいいか。言葉にしようとすると、言葉が来る前に話が終わる気がした。


 仙台のほうの言い回しが、少しずつ体に入ってきていた。


 「んだ」と「んでねえか」の使い分けが分かるようになっていた。省吾は生まれからここにいる子どもだから、岳人の言い方の変化には気づかないかもしれない。でも父と母は気づいていた。道典は何も言わなかった。早苗は「上手になってきたね」と言った。それだけだった。


     * * *


 竹刀の稽古を、毎朝していた。


 父に教わった型だ。型は十いくつある。それを順番に繰り返す。一人でやるから、相手がいない。相手がいない型稽古は、どこかで止まっていく感覚がある——型は型として動けるが、どこへ向かっているのかが分からない。


 剣先の問題だ。


 父の剣先は、東を向こうとして少し南へ流れる——それを老人が見抜いたと、一章の橋の場面で父が語っていた。岳人はその話を、父から直接聞いたわけではない。聞いていないのに知っている——どこかで聞いたのか、感じ取ったのか、分からない。ただ父の剣先が少し南へ流れることは、岳人には分かっていた。


 自分の剣先は、どこへ向くべきか。


 東は、御岳の方角だ。岳人は御岳を知らない。東を向く理由が、岳人にはない。西は——西が何かを、岳人は知らない。西の神というものがあることは父から断片的に聞いていた。西の方角に何かがあることは分かる。でもそれが岳人に関係があるかどうか、分からない。


 型を踏みながら、剣先が迷った。


 迷うのは毎朝のことだった。迷いながら型を踏んだ。どこかへ向くべきだという感触はあるが、どこかが分からない。父に聞けば分かるかもしれない——聞いたことがあった。父は「型だけ教えた」と言った。それ以上は言わなかった。


     * * *


 ある朝、型を終えて竹刀を下ろしたとき、省吾が来た。


 学校へ行く前に通りかかったのだろう、少し早足だった。岳人を見て足を止めた。


 「何やってんの」と省吾が言った。


 「稽古」と岳人は言った。


 省吾は少し岳人の竹刀を見た。それから「前を向いてるね」と言った。


 「剣先のこと?」


 「うん」省吾は言った。「東とか西とか、どっちでもなく、ただ前向いてる」


 岳人は少し驚いた。省吾は方角に詳しくない——稽古の意味も知らないはずだ。ただ見て、そう言った。


 「そうかもしれない」と岳人は言った。


 省吾は「行くわ」と言って早足で行った。


 岳人はしばらく竹刀を持ったまま、省吾が行った方向を見ていた。前を向いている——そういう見え方が、外からはあるらしかった。岳人の中では迷っているのに、外からは前を向いているように見える。それが正しいのかどうか、岳人にはまだ分からなかった。


   * * *


 その年の冬に、岳人は老婆の家の前を通った。


 老婆の名前は、この頃には知っていた。ツネさん、と呼ばれていた。村の誰もが「ツネさん」と言った。苗字を使わなかった。岳人も「ツネさん」と呼ぶようになっていた。


 その日、岳人は老婆の家の前で少し立ち止まった。二章で初めてこの村に来た日に、老婆が「間を歩いてきたんだね」と言った。あの言葉がまだ岳人の中に残っていた。


 「間」が何かを、岳人はまだ知らない。


 父は教えなかった。父が教えないのは、砥石の話と同じ黙り方だった——黙ることが答えだ。でも今回の黙りは、砥石の「使わなくても錆びる」より重い気がした。単純に言葉がないのではなく、言葉があるのに言わない——そういう黙り方に、岳人には聞こえた。


 老婆の家の前に立って、少し考えた。

 そして、入らなかった。


 まだその時ではない気がした。何が「その時」なのかは分からない。ただ、今入るのではない気がした。竹刀の剣先が迷っているうちは、聞きに行ってはいけない気がした。


 それが正しい判断だったかどうかも、分からない。


 岳人は老婆の家の前を離れ、家へ帰った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ