第19話 岳人、10歳
十歳になった頃には、「山のほうから」という答えが自分の言葉になっていた。
最初は父の言葉を借りていた——二章の宿場でそう学んだ。でも何度も使ううちに、岳人の口に馴染んだ。今では意識して使っていない。「どこから来たの」と聞かれると、考える前に出てくる。父の言葉が、岳人の言葉になっていた。
それが問題かどうか、十歳の岳人には判断できなかった。問題だと感じるには、別の答えを持っていなければならない。岳人には「山のほうから」以外の答えがなかった。正確には——御岳、という答えはあるが、使えない。使えない答えは、持っていないのと少し違う。ただ、区別する言葉を岳人はまだ持っていなかった。
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村の子どもたちとは馴染んでいた。
省吾とはまだ近くにいた。省吾は相変わらず無口で、岳人に何かを聞くことがなかった。聞かない代わりに、何かと一緒にいた。一緒に畑の手伝いをした。一緒に川へ行った。この川は御岳の中間川とは違う——幅が広くて、流れが緩い。川の音が低かった。岳人はその音を聞きながら、御岳の川を比べようとして、比べるための記憶がないことに気づいた。音の記憶はある。でも川の姿の記憶がない。御岳の川は、岳人には音だけだった。
そういうことを、省吾に話したことはなかった。
話す必要を感じなかった、というより——話し方が分からなかった。御岳の記憶がない、ということをどう言葉にすればいいか。言葉にしようとすると、言葉が来る前に話が終わる気がした。
仙台のほうの言い回しが、少しずつ体に入ってきていた。
「んだ」と「んでねえか」の使い分けが分かるようになっていた。省吾は生まれからここにいる子どもだから、岳人の言い方の変化には気づかないかもしれない。でも父と母は気づいていた。道典は何も言わなかった。早苗は「上手になってきたね」と言った。それだけだった。
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竹刀の稽古を、毎朝していた。
父に教わった型だ。型は十いくつある。それを順番に繰り返す。一人でやるから、相手がいない。相手がいない型稽古は、どこかで止まっていく感覚がある——型は型として動けるが、どこへ向かっているのかが分からない。
剣先の問題だ。
父の剣先は、東を向こうとして少し南へ流れる——それを老人が見抜いたと、一章の橋の場面で父が語っていた。岳人はその話を、父から直接聞いたわけではない。聞いていないのに知っている——どこかで聞いたのか、感じ取ったのか、分からない。ただ父の剣先が少し南へ流れることは、岳人には分かっていた。
自分の剣先は、どこへ向くべきか。
東は、御岳の方角だ。岳人は御岳を知らない。東を向く理由が、岳人にはない。西は——西が何かを、岳人は知らない。西の神というものがあることは父から断片的に聞いていた。西の方角に何かがあることは分かる。でもそれが岳人に関係があるかどうか、分からない。
型を踏みながら、剣先が迷った。
迷うのは毎朝のことだった。迷いながら型を踏んだ。どこかへ向くべきだという感触はあるが、どこかが分からない。父に聞けば分かるかもしれない——聞いたことがあった。父は「型だけ教えた」と言った。それ以上は言わなかった。
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ある朝、型を終えて竹刀を下ろしたとき、省吾が来た。
学校へ行く前に通りかかったのだろう、少し早足だった。岳人を見て足を止めた。
「何やってんの」と省吾が言った。
「稽古」と岳人は言った。
省吾は少し岳人の竹刀を見た。それから「前を向いてるね」と言った。
「剣先のこと?」
「うん」省吾は言った。「東とか西とか、どっちでもなく、ただ前向いてる」
岳人は少し驚いた。省吾は方角に詳しくない——稽古の意味も知らないはずだ。ただ見て、そう言った。
「そうかもしれない」と岳人は言った。
省吾は「行くわ」と言って早足で行った。
岳人はしばらく竹刀を持ったまま、省吾が行った方向を見ていた。前を向いている——そういう見え方が、外からはあるらしかった。岳人の中では迷っているのに、外からは前を向いているように見える。それが正しいのかどうか、岳人にはまだ分からなかった。
* * *
その年の冬に、岳人は老婆の家の前を通った。
老婆の名前は、この頃には知っていた。ツネさん、と呼ばれていた。村の誰もが「ツネさん」と言った。苗字を使わなかった。岳人も「ツネさん」と呼ぶようになっていた。
その日、岳人は老婆の家の前で少し立ち止まった。二章で初めてこの村に来た日に、老婆が「間を歩いてきたんだね」と言った。あの言葉がまだ岳人の中に残っていた。
「間」が何かを、岳人はまだ知らない。
父は教えなかった。父が教えないのは、砥石の話と同じ黙り方だった——黙ることが答えだ。でも今回の黙りは、砥石の「使わなくても錆びる」より重い気がした。単純に言葉がないのではなく、言葉があるのに言わない——そういう黙り方に、岳人には聞こえた。
老婆の家の前に立って、少し考えた。
そして、入らなかった。
まだその時ではない気がした。何が「その時」なのかは分からない。ただ、今入るのではない気がした。竹刀の剣先が迷っているうちは、聞きに行ってはいけない気がした。
それが正しい判断だったかどうかも、分からない。
岳人は老婆の家の前を離れ、家へ帰った。




