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鏡淵の調律 外伝 七海家前史 御岳から宮城へ、宮城から出雲へ —— 七海雫が生まれるまでの血脈  作者: ちとせ鶫
第2章 御岳からの逃走

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第16話 宮城の土地を初めて踏む

 村に入ったのは、冬の入り口だった。


 雪が残っていた。まだ深くはない、地面の窪みに薄く溜まっている程度の雪だった。踏むとざらざらした音がした。御岳の石畳とは違う、土の道だった。岳人はその感触を覚えている——足の裏が、石の上とは別の種類の冷たさを受け取った。


 村の人間たちが見ていた。


 遠巻きに、だ。戸口に立っていた者が、三人が通ると少し動いて見た。畑のそばにいた者が、手を止めて見た。誰も声をかけなかった。声をかけないまま見ていた。それは御岳での「見えていない顔をする」とは違った——これは、見ている。はっきりと見て、ただ何も言わないでいた。


 子どもの岳人には、その違いが体で分かった。排除されているのではない。値踏みされているのでもない。ただ、珍しいものを見ている——その目線だった。


     * * *


 最初に声をかけてきたのは、老婆だった。


 村の外れのほうから来た。小柄で、腰が少し曲がっていた。足取りは遅くなかった。三人のそばまで来て、道典を見た。道典を見て、早苗を見て、岳人を見た。それから道典に言った。


 「どこから来なすった」


 方言だった。仙台のほうの言い方だと、岳人は後に知った。その時点では何と言ったのか完全には聞き取れなかったが、問いの意味は分かった。


 道典が答えた。「山のほうから」


 老婆は「ああ」と言った。少し間があった。それから、また言った。


 「そうか。あわいを歩いてきたんだね」


 背を向けた。来た方向へ戻っていった。


     * * *


 「あわいを歩いてきた」——その言葉が、空気を変えた。


 岳人には分かった。分かった、というのは意味が分かったのではない——父と母の空気が変わったことが、分かった。父は老婆の背中を見ていた。老婆が遠くなってからも、見ていた。母は父を見ていた。父を見て、それから岳人を見た。何も言わなかった。


 三人は顔を見合わせた——と岳人は言いたいところだが、正確ではないかもしれない。岳人は父と母が無言で何かを交わしているのを、外側から見ていた。交わしている内容を読む力が、六歳の子どもには足りなかった。


 「あわい」という言葉の意味を、岳人はその時点では知らなかった。


 石を並べて「間の石」と言ったことを、岳人は覚えていない。覚えていないから、老婆の「間」と自分の「間」が繋がらなかった。繋がらないまま、父の顔を見ていた。


 父の顔が、いつもと違った。


 何が違うのかを言語化できなかった。違う、ということだけが岳人に届いた。橋を渡りきった朝に父が立ち止まったときとも違う、典嗣への弁明の夜から帰ってきたときとも違う——岳人が記憶している父の顔の中で、あの瞬間の顔だけが、どこにも分類できないまま残っている。


     * * *


 老婆がなぜ「あわい」を知っていたのか。


 長い間、岳人には分からなかった。父に聞いたことがある。父は答えなかった——黙った。砥石のときと同じ黙り方だった。母に聞いたことはない。母は聞かれなくても「大体のことは分かります」という人だったから、聞けば何か言ったかもしれない。でも岳人は聞かなかった。


 答えが来なくても、問いが消えなかった。


 老婆はこの村に、何十年もいる。この村の土地の話を知っている。東の神も西の神も、同じに覆う雪の話を知っている。間を歩く者がこの土地に来ることを、知っていた——あるいは予感していた。そういうことが、後になって少しずつ岳人には見えてきた。


 しかしその時点では何も見えなかった。


 ただ、父の顔が変わった。老婆が「間」と言ったとき、父の中で何かが動いた。それだけが子どもの岳人に届いた最初のことだった。


     * * *


 村に着いた最初の夜、三人は一軒の空き家に泊まった。


 村人の一人が——老婆ではない、別の誰かが——無言で鍵を渡してくれた。理由は分からなかった。翌朝、道典が礼を言いに行くと、その人間は「老婆に言われた」とだけ言った。


 老婆の名前を、岳人がはっきり知るのはもう少し後になってからだ。


 雪がまた降り始めていた。

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