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鏡淵の調律 外伝 七海家前史 御岳から宮城へ、宮城から出雲へ —— 七海雫が生まれるまでの血脈  作者: ちとせ鶫
第2章 御岳からの逃走

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第15話 道典の砥石

 父が毎晩、刀を研いでいた。


 旅の宿でも、野宿の夜でも、火が消えるまでの時間に父は砥石を出した。懐から取り出して、膝の上に置いて、刀をゆっくり動かした。音は小さかった。眠れない夜に岳人はその音を聞きながら、火の揺れを見ていた。


 ある夜、岳人は聞いた。「なんで研ぐの」


 父は手を止めなかった。「刀は錆びる」と言った。


 「錆びたらどうなるの」


 「切れなくなる」


 「でも」岳人は言った。「使わないんだったら錆びてもいいんじゃないか」


 父は黙った。


 手を止めなかった。刀を砥石の上で動かし続けた。石と金属が擦れる音が、小さく続いた。岳人は答えを待った。答えは来なかった。


 翌朝、父はまた研いでいた。


     * * *


 その会話の意味を、岳人は長い間考えなかった。


 考えなかった、というより——問いとして立ち上がらなかった。六歳の子どもが「使わないなら錆びてもいいのでは」と言い、父が黙った。それだけのことだった。父が黙るのは珍しいことではなかった。父はよく黙った。黙ることが、道典なりの答えだということを、岳人はその頃すでに感じていた。感じていたが、何の答えなのかまでは分からなかった。


 砥石が典嗣という人物と繋がっていること——道典が砥石を懐から出すとき、そこには朝比奈家の本道場と、二人で並んだ稽古の二十年があること——そういうことを岳人が知ったのは、ずっと後になってからだ。


 知らないまま、砥石の音を聞いていた。


     * **


 父が剣を使う場面を、岳人は旅の間も宮城に来てからも、一度も見なかった。


 稽古はしていた。早朝に、誰もいないうちに。岳人が目を覚ますと、父はもう庭に出ていた。型を踏んでいた。剣先がどちらを向いているか、子どもの岳人には読めなかった。ただ父が動いていることは分かった。動いていて、終わると砥石で研いだ。使ったから研ぐのではなく、使ったかどうかに関わらず研いだ。


 刀剣は錆びる。使わなくても錆びる。


 その言葉が、岳人の中に残った。言葉として残ったというより——父の手が砥石の上で動く映像と一緒に残った。石の黒みがかった色。刀が動くたびに立つ小さな音。父の指の形。それらが全部、あの会話と不可分に結びついている。


     * * *


 岳人が竹刀を持つようになったのは、宮城に来て数年後だった。


 父が一本渡した。何も言わなかった。型を教えた。型を教えながら、剣先についての言葉は何も言わなかった。岳人は型を覚えた。一人で続けた。なぜ続けるのかを、岳人は自分に聞かなかった。聞かなくても続けていた。


 続けていた理由は、後になっても言語化できない。


 ただ、続けることが当然だった。剣は錆びる。使わなくても錆びる——父がそう言ったことと、岳人が竹刀を持ち続けることの間に、直接の因果はない、と岳人は思っている。因果はないが、繋がっている。繋がっている、と感じているだけで、それを説明する言葉を岳人は持っていない。


 説明しない、ということが——たぶん父から来ている。


     * * *


 あの夜、父が黙った後に研ぎ続けた音が、岳人の耳に残っている。


 答えを言わないことが、答えだった。父はそういう人だった。


 砥石の音は小さかった。火が揺れていた。岳人はいつの間にか眠った。翌朝目が覚めると、父はまた研いでいた。それが何日続いたか。北へ向かう旅の間、父は毎晩研いだ。砥石は宮城に来てからも、父の手の届くところに置かれていた。


 最後にどこへいったのか、岳人は知らない。


 道典が死んだとき、岳人は砥石を探した。見つかった。


 父の枕の下にあった。

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