第一話 召集令状ではない
「先生、税務署からお電話です」
その一言を聞いた瞬間、私は椅子から立ち上がっていた。
「召集か」
「調査です」
若手職員の宮坂千紘は、受話器を手で塞いだまま、冷静に言い直した。
「それと、ここは税理士法人です。先生を召集できる人は、たぶん代表社員くらいです」
「……今のは忘れてくれ」
「努力します」
宮坂の返事は、成功を約束していなかった。
私は三十五歳の税理士で、前世では陸軍経理部の士官だった。正確には二等主計。兵科でいえば中尉に相当する。兵の給与と糧食と被服を預かり、数字を一つ誤れば百人分の飯と冬服が消える仕事である。百年たっても「国から呼び出し」と聞けば、身体のほうが先に返事をするらしい。
電話は、顧問先である伊吹精機株式会社への税務調査、その事前連絡だった。
従業員四十六名、年商三億円余り。救難用ポンプの継ぎ手や小型弁を作る、創業百年余りの町工場である。消費税は、実際の仕入税額を控除する本則課税。前期は薄利ながら黒字で申告していた。
半年前、決算月の九月に記録的な豪雨があった。一階が浸水し、紙の請求書と生産管理サーバーを失った。それでも伊吹精機は従業員を一人も解雇せず、外注を使いながら、どうにか操業を続けている。
先代の顧問税理士が引退し、私たちが業務を引き継いだのは二か月前。調査対象の中心となる前期の申告は、水害の二か月後に、前任者と当時の専務が作ったものだった。前任事務所から受け取った総勘定元帳と外注明細は手元にある。だが明細を裏づける証憑の画像は、伊吹精機の沈んだサーバーにしかなかった。
「対象は三期分ですが、焦点は前期の外注加工費です。元帳、請求書、支払資料を準備してほしいとのことです」
受話器を置いた宮坂が、前期の総勘定元帳を画面に出した。
「四千百二十六万円。明細は四百件。元の請求書は水没、スキャンデータも生産管理サーバーと一緒に沈んでいます。残ったのは元帳側の数字だけです」
「クラウドへの退避は」
「導入の決裁を、隆志専務が二年保留していました」
「雲は水害に強いのにな」
「そういう理解で、今は結構です」
外注費のすべてが否認されるとは限らない。しかし証拠がなければ、取引の実在そのものを疑われる。四千万円の外注費が消えれば、法人税と消費税の追加負担は、加算税を含めて千数百万円に及ぶ。三週間後に控えた融資の更新にも響く。
税務調査は戦争ではない。調査官は敵ではなく、納税者も守るべき陣地ではない。
ただし、期限と数字が人の生活を追い詰める点だけは、兵站の破綻によく似ていた。
「伊吹社長から、回収資料が届いています」
宮坂が私の机の脇を指した。
水染みの残る段ボール箱が三つ。水を吸って波打った納品書、乾いて張りついた伝票の束。どれも一目で、泥水をくぐった紙だと分かる。
その中に一通だけ、真新しい封筒があった。
「専務が自宅の書庫に持ち帰っていた分だそうです。北星加工、七百三十万円。紙の請求書で残っているのは、この一件だけです」
「四百件のうち、一件か」
「僥倖ですね」
「そうだな」
私はそう答えた。その紙が浮いて見えるまで、あと九日あった。
段ボール箱の一番上には、場違いなほど古い帳簿が載っていた。
「工場の古い煉瓦壁を剥がしたら、鉄箱ごと出てきたそうです。創業者の伊吹惣一さんは、軍施設の払い下げを受けて、その一角で伊吹精機の前身を始めたとか。今回の調査には関係ないと思うけれど、会社関係の帳簿らしいから一応、と」
鼠色の表紙は焼け焦げ、綴じ紐は茶色く変色していた。背表紙だけが不自然に厚い。
私は、触れる前から知っていた。
右手の親指が、百年前の痛みを思い出したように疼いた。
表紙を開く。
右から左へ、几帳面な筆跡が並ぶ。
『陸軍被服本廠 第三倉庫 物品受拂簿 大正十四年』
最後の頁には、羅紗二百四十反を「豪雨による浸水のため滅失」とした記載があった。その下に、小さな朱印が押されている。
『陸軍二等主計 榊原征一』
印影の右上だけが薄い。
雨の日に落馬し、傷む右手の親指をかばった私が、斜めに押してしまった跡だった。
税務調査の連絡が来た日、顧問先から百年前の私の罪が届いた。




