邪神の秘密と神獣㊻
「(ちょ、ちょっと…やばくないかっ!?……)」
クトゥルは、内心で叫んでいた。
氷の世界は、静まり返っている。
風も止み、砕けた氷片が転がる音だけが、やけに大きく響く。
その中心で、仲間が二人――動かない。
「(え、え、え!?もう二人、倒れた!?待って待って、これ普通に全滅ルートじゃないかっ!?)」
視界の端に、倒れ伏したゼイグの巨体。
血に染まった氷の上で、微動だにしない。
少し離れた場所には、ティファー。
崩れ落ちたまま、ぴくりとも動かない。
戦線は、崩壊寸前。
だが、表情は、変えない。
変えられない。
ここで崩れれば終わる。
灰色の肌に、無表情。
黒髪が、冷気に揺れる。
その姿は、まるで最初から何も感じていないかのように静かだ。
氷の粒子が髪先に触れ、わずかに白く凍りつく。
だが、それすら意に介さないように、彼はただ立っている。
だが内側は、完全にパニックだ。
「(いや無理無理無理!俺自身、戦えないし!ビームとか出ないし!)」
心臓が暴れている気がする。
逃げたい。
その一言が、頭の中を支配する。
だが、逃げられない。
ここで逃げたと認識された瞬間、邪神としての格が崩壊する。
それは、自身の死を意味する。
だから、動けない。
動かないのではなく、動けない。
ディアボロスの眼紋が、再び回転を強める。
ギィ……と、低い金属音にも似た音が響く。
幾何学の円環が噛み合い、加速する。
その回転は、明確な意志を帯びていた。
空気が、重くなる。
見えない圧力が、クトゥルの全身を押さえつける。
視線ではない。
定められたという感覚。
次に狙われるのは――明らかに、自分だと思った。
だが違った。
神獣の眼紋は、クトゥルから逸れ、静かに――確実に、別の存在を捉えていた。
回転する幾何学の瞳孔が、わずかに軌道を変える。
それは偶然ではない。
サフィア。
誰よりも後ろで、誰よりも必死に仲間を守ろうとしていた魔族の少女。
震える手で魔法を放ち、一歩引いた位置から戦場を支えていた存在。
その支えこそが、今、標的として認識される。
黒曜石の巨体が、わずかに姿勢を変える。
ほんの数センチ。
だがその変化だけで、空気が軋む。
その動きだけで、洞窟の温度が乱高下した。
凍てつく冷気と、焼き付くような熱が、同時に押し寄せる。
氷壁がきしみ、蒸気が一瞬だけ発生しては消える。
環境そのものが、神獣の動きに追従できていない。
――尻尾が、膨らむ。
ゆっくりと、しかし確実に。
長大な尾がしなり、その先端へと力が集まっていく。
竜の頭部を模した尾の先端。
黒曜石で形作られた顎が、わずかに開く。
その内側に、異様な光が灯る。
内部に走る黄色の神紋が、脈打つように明滅する。
ドクン、ドクン、と。
それは鼓動のようだった。
だが血流ではない。
力の収束。
圧縮されたエネルギーが、解放の瞬間を待っている。
「……っ!」
サフィアは、直感で悟った。
理屈ではない。
本能が警鐘を鳴らす。
これは、受け止めなければならない攻撃だ、と。
避けるという選択肢はない。
彼女は咄嗟に前に出る。
小さな身体で一歩前に出ると、彼女は大型の貝殻を胸の前に構えた。
腕が震えるが、下げない。
一歩は、あまりにも小さい。だが、その意味は重い。
魔力が、溢れ出す。
制御しきれないほどの量が、身体の内側から押し出される。
空気が揺らぎ、水分が引き寄せられる。
「盾になって……!」
祈りにも似た言葉。
命令ではない。
願い。
水が、空気中から引き寄せられ、渦を巻きながら一枚の巨大な水壁を形成する。
同時に。
ディアボロスの尾が、振り抜かれた。
しなやかに弧を描いた尾が、次の瞬間には轟炎を放つ。
竜頭の顎が開き、内側に凝縮されていた力が一気に解き放たれる。
灼熱の奔流が、一直線に吐き出される。
それは炎というより、圧縮された破壊そのもの。
光と熱が束となって走り、空間を焼き裂く。
空気が焼け、洞窟の天井が赤く染まる。
氷壁が一瞬で蒸発し、蒸気が爆ぜる白の世界が、赤に侵食されていく。
炎と水が、正面から激突した。
サフィアの展開した水壁が、正面からその奔流を受け止める。
ぶつかった瞬間、凄まじい蒸気が発生するはずだった。
水が蒸発し、炎を削ぎ、相殺する――
本来なら、水は炎を打ち消すはずだった。
「……え……?」
しかし、サフィアの表情が、凍りつく。
目の前で起きている現象を、理解できない。
水壁の表面に、霜が走った。
そして、次の瞬間には無数に白い亀裂のような氷結が、壁全体へと広がっていく。
炎に触れたはずの水が、凍っている。
あり得ない現象。
熱に触れた水が、凍る。
音を立てて、水が氷へと変質していく。
パキ、パキ、と。
静かな、だが確実な破壊の音。
流動していたはずの水が硬直し、透明だった壁が、白濁した氷へと変わっていく。
理解が、追いつかない。
「(……どうして……?)」
思考が止まる。
目の前の現実を、脳が拒絶する。
だが、現象は止まらない。
次の瞬間、答えが突きつけられる。
ディアボロスの炎は、単なる熱ではない。
表面は灼熱。
だが内部に、絶対零度に近い氷の属性が絡み合っている。
相反する二つの力。
本来なら、互いに打ち消し合うはずの属性が、矛盾なく同時に存在している。
灼きながら、凍らせる。
溶かしながら、固定する。
相反する力が、完全に制御された状態で同時に存在する。
それは、魔法ではない。
人の理で扱えるものではない。
神の獣の権能だ。
「……っ、あ……!」
声が、震える。
理解した瞬間には、もう遅い。
氷結した水壁が砕け散り、氷の破片が、刃となって飛び散る。
サフィアは、必死に貝殻を掲げ、身を守ろうとする。
氷の破片が雨のように降り注ぐ中、小さな身体を丸めるようにして、防御の姿勢を取った。
肩に、腕に、頬に鋭い氷片が掠め、細かな傷が走る。
だが、それでも彼女は後退しない。
「だ、だいじょうぶ……っ!まだ……!」
声は震えている。
唇がかすかに震え、言葉の端が途切れそうになる。
それでも、言い切る。
自分に言い聞かせるように。
サフィアは、再び、水を呼び出す。
冷たい空気の中から、わずかな水分を掻き集める。
魔力が流れ、空間が震え、水が形を持つ。
『アクア・ヴェール』
薄く、柔らかな水の膜が、身体を包むように展開される。
『アクア・シールド』
さらにその外側に、厚みを持った水の盾を重ねる。
重ね、重ね、防御を試みる。
層を増やし、密度を上げる。
衝撃を分散させ、侵食を止めるために。
理屈は正しい。
だが出現した水は、触れた瞬間から凍結し、次々と砕かれていく。
展開された瞬間、すでに遅い。
水は流動する前に凍り、盾としての機能を持つ前に、硬直する。
パキン、と音を立てて、氷へと変わった水が粉砕される。
水の防御が、防御として成立していない。
「(……あ……)」
胸の奥に、冷たいものが広がる。
それは外から来る冷気ではない。
内側から、じわじわと染み出す感覚。
恐怖。
それも、初めて知る種類の恐怖。
痛みでもない。
死の恐怖でもない。
もっと根源的なもの。
抗えない、という理解。
努力では届かない。
祈りでは覆せない。
どれだけ積み重ねても、意味がない。
ただ、格が違う。
圧倒的な差。
それを、身体ではなく、魂で理解させられる。
「……おかしい……」
サフィアの声は、かすれていた。
呼吸が乱れ、言葉がうまく繋がらない。
目の前で起きている現象が、これまで信じてきたものを否定している。
「水なら……水なら、守れるはずなのに……」
ディープマーマンとして生まれ、水と共に生き、水に守られてきた。
潮の流れに抱かれ、波の揺らぎに身を委ね、どんな時も、水は味方だった。
優しく包み込み、時に激しく押し流し、それでも決して、裏切ることはなかった。
絶対の拠り所が、目の前で否定されていく。
凍りついた水の破片が、足元で砕ける。
さきほどまで守りだったものが、
ただの無力な残骸へと変わっていく。
ディアボロスは、歩みを止めない。
巨大な黒曜石の脚が、一歩、また一歩と踏み出される。
黒曜石の脚が地を踏むたび、氷と炎が同時に地面を侵食する。
足跡は、凍結と焼却が同時に刻まれた異様な痕となる。
白く凍りついたかと思えば、次の瞬間には焦げ、蒸発し、また凍る。
理が崩れている。
この場において、常識は何一つ通用しない。
逃げ場は、ない。
視界の端にあるのは、崩れた氷壁と、倒れた仲間。
後退する余地も、隠れる場所も、存在しない。
水は凍り、炎は止まらない。
守りは奪われ、攻撃は止められない。
「……おにいちゃ………」
かすれた声が、喉の奥で止まる。
呼びたかった名前。
助けを求める本能が、無意識にその存在を探していた。
だが、声にならない。
音にする前に、凍りつく。
少女は、それでも立ち続ける。
膝が震え呼吸が乱れる。
それでも、倒れない。
守れなくても、無力でも、それでも、ここに立つしかなかった。
退けば、終わる。
それだけは、分かっている。
だから、立つ。
小さな身体で、巨大な理不尽の前に。
神獣の影が、完全にサフィアを覆い尽くす。
神獣の尾が、しなった。
ゆるやかに、しかし確実に。
巨大な質量が、空間そのものを引き絞るように弧を描く。
それは攻撃というより、巨大な鞭が空間を叩き割る前触れだった。
振るわれる前から、圧が来る。
空気が押し潰され、逃げ場を失い、次の瞬間に訪れる破壊を予告する。
「しま――」
サフィアの声は、途中で途切れた。
判断は早かった。
だが、それでも足りない。
一瞬の油断。
ほんの、呼吸一つ分の遅れ。
それが、この戦場では致命的だった。
彼女は反射的に大型の貝殻を掲げる。
身体が勝手に動く。
考えるよりも先に、防御の姿勢を取る。
両腕で強く握りしめ、
胸元へと引き寄せるように構える。
最後の砦。
それが、今の彼女にできるすべてだった。
轟音と共に、貝殻が悲鳴を上げる。
ミシッ――
ひび割れ、次の瞬間、貝殻は粉砕された。
「……っ!?」
衝撃が、サフィアの身体を吹き飛ばす。
砕けた貝殻の破片とともに、小さな身体が宙へと投げ出された。
軽い。あまりにも軽い。
重力すら遅れて感じるほどの一撃。
視界が反転する。
氷の天井、赤く焼けた空気、白い床――それらがぐるりと混ざり合う。
宙を舞い、背中から地面に叩きつけられる。
――ドンッ、と鈍い音。
氷床がわずかに砕け、細かな破片が跳ねる。
肺から空気が、強制的に吐き出された。
「っ――!」
声にならない。
呼吸が止まる。
胸が痙攣し、空気を求めて軋む。
視界が、揺れる。
焦点が定まらない。
世界が波打つように歪む。
「(……ま、まだ……動ける……)」
かろうじて残った意識が、身体に命令を送る。
終わっていない。
終われない。
震える手で、地面を掴む。
氷が冷たい。
その感覚だけが、かろうじて現実を繋ぎ止める。
指先が滑る。
力が入らない。
それでも、必死に体勢を立て直そうとする。
肘をつき、身体を起こそうとする。
だが影が、落ちた。
すべてを覆う、圧倒的な質量の影。
光が遮られ、温度が変わる。
見上げた先には、
すでに迫りきった神獣の前脚。
軍鶏の脚。
筋肉の塊のような異形の肢体。
黒曜石の鱗が幾重にも重なり、その隙間から冷気と熱が同時に漏れ出す。
短剣のような鉤爪が、サフィアの視界いっぱいに広がる。
逃げ場はない。
回避も、防御も、間に合わない。
「……あ……」
声にならない声。
喉が震えるだけで、音にならない。
死を、理解した瞬間だった。
思考が止まる。
恐怖すら、遅れてやってくる。
――終わる。
その結論だけが、静かに落ちる。
――次の瞬間。
金属音。
刃鳴り。
鋭く、耳を裂くような高音が、空間を切り裂いた。
赤黒い魔力が、視界を切り裂いた。
黒と赤が混ざり合った禍々しい光が、一直線に走る。
「――ふん」
低く、冷ややかな声。
その声音には、焦りも恐怖もない。
ただ、事実として止めたという響きだけがあった。
サフィアの目の前に、クビナシが立っていた。
漆黒の甲冑に刻まれた紋様が、衝撃を受けて禍々しく輝く。
赤黒い光が脈打ち、まるで鎧そのものが生きているかのように蠢く。
彼女の手には、ブラッディ・ティアーズ。
刃渡り一八〇センチの日本刀が、神獣の前脚を真正面から受け止めていた。
刃と爪が噛み合い、火花が散る。
――重圧。
空気が押し潰される。
衝撃が地面へと逃げ、氷床が音を立てて沈み込む。
大地が沈む。
クビナシの身体が、ずるり、と後退する。
足元の氷が削れ、白い軌跡が残る。
一歩。
踏みとどまる。
二歩。
さらに押される。
だが、崩れない。
最終的に、一メートルほど押し戻されたところで、
ようやく踏みとどまった。
「……ちっ」
楽しげとも、苛立ちとも取れる舌打ち。
クビナシの動きは、微塵も揺らがない。
押し返されながらも、なお刃を離さない。
むしろ――楽しんでいる。
圧し潰されるほどの重圧の中で、その存在はより鮮明に際立っていた。
サフィアは、呆然と立ち尽くしていた。
崩れかけた身体を、かろうじて支えながら。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
助かった。
――そう思った。
確かに、死は目の前まで迫っていた。
あの一撃が振り下ろされていれば、
間違いなく終わっていた。
それを、止められた。
だから――
「……あ、ありがとう……」
かすれた声で、礼を告げる。
喉が乾いている。
声がうまく出ない。
それでも、言葉にする。
その時、サフィアは違和感に気づいた。
小さな、だが決定的な違和。
クビナシは、一度も、こちらを振り返らない。
助けた相手を確認するでもなく、声に反応するでもなく。
ただ、そこに立っている。
視線は、ただひたすら神獣に向けられている。
一切の迷いもなく。
蒼い双眸が、期待に濡れている。
その奥にあるのは、理性ではない。
――歓喜。
純粋な、戦いへの渇望。
破壊への欲求。
「(……あ……)」
理解してしまった。
胸の奥が、すっと冷える。
この首なし騎士は、自分を守るために立ったのではない。
無様に潰される獲物を奪われることを、良しとしなかっただけだ。
ただそれだけ。
自分は守られたのではない。
横取りされたのだ。
その事実が、ゆっくりと心に沈む。
サフィアの膝が、崩れる。
力が抜ける。
張り詰めていたものが、一気に切れる。
急激に、彼女の意識が遠のいていった。




