邪神の秘密と神獣㊺
「……くっ。頑丈なリザードマンを、一撃で沈めるか……」
ティファーは、倒れ伏したゼイグから視線を外さず、
切れ長の青い瞳をさらに細めた。
ディープデーモンのクラゲインほどではないが、リザードマンは魔族の中でも、頑丈だ。
それが一撃で沈められた。
人の身である自分なら骨も残らないだろう。
しかし、視線は揺れない。
頭の中で、情報が整理される。
戦力、損耗、敵の特性。
――防御力、速度、攻撃力。
すべてが想定の上を行く。
結論は単純だった。
勝てる見込みが薄い。
その瞬間。
ディアボロスの腹部が、不自然に膨らんだ。
黒曜石の外殻が、内側から押し広げられる。
硬質な装甲の奥で、何かが収束している。
ただの呼吸ではない。
溜めだ。
黒曜石の装甲の内側で、冷気が凝縮されるのが、はっきりと分かる。
視覚ではない。
肌で感じる。
空間そのものが、冷たさを超えた痛みへと変質していく。
空気が凍りつき、呼吸が痛みを伴う。
肺に入る空気が、刃のように刺さる。
喉が焼けるように冷たい。
それは凍傷に近い感覚だった。
「…まずい…冷気が来る…くっ!」
ティファーは即座に後退を選択する。
判断は速い。
だが――一瞬、判断が遅れた。
そのわずかな遅れが、致命へと繋がる。
足元。
氷が、這う。
静かに、だが確実に。
ブーツの裏から脛へ、
床と一体化するかのように凍結が広がる。
まるで生き物のように、氷が這い上がる。
逃げる足を絡め取り、動きを封じる。
瞬間的な拘束。
だが、それで十分だった。
「なっ…しまっ――」
言葉は最後まで紡がれない。
逃げ切れない。
身体は動く。
だが、足が遅い。
その刹那。
ディアボロスの尾が、大きくしなり空間を裂くように、長大な尾が弧を描く。
その動きには、無駄が一切ない。
先端の竜頭が、灼熱を孕んで口を開いた。
黒曜石の顎が軋み、内部に赤い光が灯る。
それは先ほどの冷気とは対照的な、純粋な破壊の熱。
炎が、放たれる。
圧縮された熱が、一気に解放される。
直線的な奔流となって、空間を焼き払う。
氷の世界に、あり得ないほどの熱が走る。
逃げ場はない。
足はディアボロスの冷気によって拘束されている。
回避の余地も、時間も、存在しない。
だが。ティファーの視界に、青と緑が混じる影が、飛び込んできた。
揺れる髪。細い褐色の体躯。
そのすべてが、迷いなく前へと出る。
「ティファーさんっ!」
サフィアだった。
その声は、恐怖に震えている。
だが、それでも確かに前へと踏み出している。
細い身体を盾のように差し出し、貝殻を大きく掲げる。
「清き水脈よ、盾となれ――『アクア・シールド』!」
サフィアの声が、震えながらも確かに響いた。
その詠唱に呼応するように、彼女の手にした貝殻から魔力が溢れ出す。
それは静かな流れではない。
堰を切った奔流。
抑え込んでいた力が、一気に解き放たれる。
空気中の水分が引き寄せられ、凝縮され、形を成していく。
冷気すら巻き込みながら、水は厚みを持ち、層を重ねる。
巨大な水の盾が瞬時に形成され、正面から炎を受け止めた。
それは壁ではない。
流動しながら、衝撃を受け止め、逃がし、拡散する水の盾。
炎の息吹と水の盾がぶつかる。
相反する力が、真正面から衝突する。
灼熱と水が衝突し、轟音と共に、凄まじい量の水蒸気が爆ぜる。
ジュウゥゥッ、と耳を焼くような音。
水が一瞬で蒸発し、白煙となって膨れ上がる。
だが同時に、新たな水が流れ込み、盾の形を保つ。
押し潰されそうになりながらも、崩れない。
視界が、白に塗り潰される。
蒸気が空間を満たし、すべてを覆い隠す。
距離感が消え、方向感覚が狂う。
だが、その白の中で。
その間にティファーは、剣で足元の氷を叩き割った。
鋭い一閃。
凍結した氷が、金属音と共に砕け散る。
足に絡みついていた拘束が、一気に解ける。
亀裂が走り、拘束が解ける。
氷の欠片が弾け飛び、足元に散る。
即座に距離を取る。
無駄のない動き。
体勢を崩すことなく、後方へと滑るように退く。
蒸気の中を抜け、再び視界を確保する。
「…っ…助かったぞ。感謝する。」
短く、しかし確かな感謝。
それ以上の言葉は不要だった。
戦場において、それだけで十分。サフィアもそれが分かっているのか頷いた。
「どういたしましてっ!」
彼女は息を切らしながらも、無邪気な笑みを浮かべる。
肩が上下し、呼吸は荒い。ディアボロスの強力な炎を防ぐため、より多くの魔力を使った魔法を行使しているため、消耗も激しいはずだ。
それでも、その表情には恐怖よりも安堵が勝っていた。
守れた。
その事実だけが、彼女を支えている。
「僕がサポートするから、ティファ―さん、攻撃お願い!」
声はまだ震えている。
だが、その中に確かな意思がある。
前に出る覚悟。
支える覚悟。
「ああっ」
ティファーは地を蹴り、飛び出すようにディアボロスへ肉薄した。
踏み込みの瞬間、氷床が鋭く鳴る。
細かな亀裂が足元から走り、白い破片が弾け飛ぶ。
その加速には一切の迷いがない。
最短で、最速で、ただ一点へ。
片手剣を低く構え、最短距離、最小動作。
無駄を削ぎ落とした構え、肩の力を抜き、重心を極限まで落とす。
突きの態勢。
全身の力を一点へと収束させる、刺突の型。
それは斬るのではない。
通すための動き。
だが、神獣も黙ってはいない。
ディアボロスの巨体が、わずかに揺らぐ。
それだけで空気が押し潰される。
軍鶏の前脚が持ち上がり、鉤爪が迎撃の構えを取る。
鋭利な爪が、わずかに開く。
その動きは緩慢に見えるが、実際には致命的な速度を秘めている。
迎え撃つ準備は、すでに整っていた。
その瞬間。背後から、水音。
かすかな、しかし確かな流動音。
「させないっ――『アクア・エッジ』!」
サフィアが放った水の刃が、鋭く、一直線に飛ぶ。
圧縮された水流が、刃の形を保ったまま空間を切り裂く。
その軌跡に沿って、空気が裂ける音が走る。
神獣の装甲を貫くには、明らかに力不足。
黒曜石の肉体に、傷はつかない。
水刃が触れた瞬間、硬質な抵抗に弾かれ散る。
細かな飛沫となって、氷の空間に消える。
だが。ディアボロスの視線が、動いた。
巨大な眼の紋様が、わずかに水の刃を追う。
ほんの一瞬。
それは反射か、計測か。
だが確実に、意識が逸れた。
その一瞬をティファーは、見逃さなかった。
踏み込み。
さらに一歩、深く。
氷を砕き、間合いの内側へと滑り込む。
剣閃が走る。
光が一筋、空間に刻まれる。
振り抜きではない。
突きでもない。
その中間。最短距離で、最小限の軌道で、最大の効果を狙う一撃。
硬質な感触。
手に伝わる、重い抵抗。
まるで岩を削るような鈍い手応え。
刃は弾かれかけながらも、黒曜石の羽根の根元を掠める。
金属と金属が擦れる音が響き渡り、一枚の羽根が断たれる。
たった1枚。ほんの1部。
巨大な翼から、黒曜石の羽根が砕け落ちる。
完全な切断ではない。
だが、確実に切断に近い結果を生んだ。
血は、出ない。
そもそも流れるものが存在しないかのように。
致命傷には、ほど遠い。
巨体に対しては、あまりにも小さな損傷。
だが確かに、切れた。その事実がは重く重要。
氷の床に落ちた羽根の破片が、乾いた音を立てて転がる。
カラン、と。
白い氷の上を、黒い欠片が転がる。
その音が、やけに大きく響いた。
ティファーは剣を引き、距離を取る。
深追いはしない。
一撃を入れた時点で、役目は果たした。
即座に後退し、再びディアボロスとの間合いを空ける。
サフィアは、息を呑み、その光景を見つめた。
目の前で起きた結果。
それを、理解しようとする。
神獣は、まだ倒れない。
圧倒的な存在は、依然としてそこに在る。
だが。二人の胸の奥に、ほんのわずか確かに、希望が灯った。
ディアボロスが咆哮し、理解した。
次に排除すべき対象を。
巨大な黒曜石の頭部が、ゆっくり、しかし確実に、ティファーへと向けられる。
その瞬間、空気が変質した。
音が、死ぬ。
呼吸が、凍る。
神獣の周囲で、風そのものが硬化していく。
吹き荒れるはずの気流が、氷の刃へと変換され、空間に停止した嵐のように張り巡らされた。
――風を、凍らせている。
ティファーは、即座に理解した。
避けるべき角度、次に来る攻撃の軌道、後退すべき距離。
すべて、計算できている。
だが、ディアボロスはその計算の一歩先にいた。
神獣の巨大な眼紋が、鈍く光り、幾何学文様の瞳孔が、加速するように回転する。
それは視線ではない。
観測でもない。
予測だ。
ティファーが踏み出す未来を、既に読み終えている。
「――っ!」
ティファーが横に跳ぶ。
同時に、彼女が跳ぶと判断した地点へ、凍結した氷の刃が、先回りして突き刺さった。
音もなく、空間に在るはずのない刃が現れる。
透明なはずのそれは、光を屈折させ、わずかに輪郭を浮かび上がらせた。
避けた先。
その安全地帯であるはずの場所が、すでに死地へと変わっている。
回避行動が、罠になる。
『ウィンドカッター』
ティファーは、咄嗟に、風の刃を放ち着地地点の氷の刃を切断する。
魔法を放った直後の停滞。
ほんの刹那。
だが、それで十分だった。
その隙を、ディアボロスは逃さない。
前脚が地を蹴る。
氷床が砕け、衝撃が伝播する。
踏み込みの一点に、全質量が集中する。
鳥脚の突進力と、虎脚の爆発的踏み込み。
異なる構造が、矛盾なく融合している。
軽さと重さ。
速度と破壊。
そのすべてが、同時に発揮される。
空間が、歪む。
速度が限界を超え、視界が追いつかない。
存在そのものが、線となって走る。
「……っ!」
ティファーは剣を構え、防御姿勢を取る。
反射、思考ではない。
身体に刻み込まれた動き。
だが遅い。
すでにディアボロスの前脚が迫っていた。
「っ!?『アクア・シールド』っ!」
サフィアが咄嗟に、ティファーの前に水の盾を展開する。
反射的な行動だった。
思考よりも先に、身体が動いていた。
空気中の水分を強引に引き寄せる。
瞬時に圧縮され、幾重にも層を重ねた水の障壁が、ティファーの前に立ちはだかった。
――間に合った。
だがディアボロスの一撃は、想像を踏み越える。
衝撃が、水の盾へと直撃した。
それは魔法ではない。
純粋な打撃。
軍鶏のように発達した前脚。
黒曜石の鱗に覆われたそれが、一直線に振り下ろされる。
無駄のない軌道。
圧縮された質量と速度だけで成立する、原始的でありながら完成された一撃。
衝撃の瞬間、水の盾が大きく歪む。
波打ち、層が乱れ、圧力を逃がそうと必死に形を変える。
盾は確かに機能している。
直撃の威力を受け止め、流し、分散し、減衰させている。
本来ならば、それで十分なはずだった。
だが受け止めきれない。
圧力が、桁違いだった。
一点に集中した質量が、水の層を押し潰し、分散しきれない衝撃が、そのまま貫通する。
完全には、防げない。
水の盾が軋む。
内部で圧力が暴れ、逃げ場を失い、次第に崩壊していく。
圧縮された衝撃がそのまま押し込まれる。
ディアボロスの打撃がティファーを襲う。
それは振るわれたというより、空間そのものが叩きつけられたかのような一撃だった。
衝撃が、空気を押し潰しながら直線的に走り、彼女の鎧が悲鳴を上げる。骨が軋む。
金属が歪み、ひび割れ、押し潰される音。
その内側で、肉と骨が同時に限界を超える。
衝撃は一点ではない。
面として、全身を貫く。
血が、飛び散る。赤が、白を裂く。
凍てついた空間に、鮮烈な色が広がる。
飛沫となった赤が、氷晶の中に混ざり、ゆっくりと落ちていく。
吹き飛ばされたティファーの身体は数メートル転がった。
氷の上を滑り、砕けた破片を巻き込みながら、無様に。
摩擦はほとんどない。
勢いを殺すこともできず、ただ転がり続ける。
装甲が氷を削り、火花のような氷片が散る。
ようやく止まったときには、すでに立ち上がる力は残っていなかった。
身体が言うことをきかない。
力を入れようとしても、反応が返ってこない。
動かそうとしても、四肢が言うことをきかない。
指先が動かない。
脚に感覚がない。
「――ぐっ……!」
短く、押し殺された声。
それは苦痛の叫びではない。
ただ、身体が耐えきれず漏れた音。
直撃ではない。それでも、この威力。
サフィアの盾によって威力は削がれている。
本来ならば、その一撃で存在ごと消し飛んでいた。
サフィアの盾がなければ、即死していた。
起き上がる余力のないティファーだが、荒れた呼吸を、意識的に均す。
吸って、吐いて。
それだけの行為に、すでに全力が必要だった。
乱れた呼吸を、意識的に整える。
視界の揺れを、無理やり固定する。
焦点を合わせる。
ぼやける世界を、強引に引き戻す。
恐怖はない。
目前にあるのが死であっても。
死を目前にしても、感情は揺れない。
後悔もない。
これまでの判断に誤りはない。
最善を尽くした結果が、これだ。
選択は常に最適だった。
ただ一つ、浮かんだ思考は――
「……私が……足りなかったか……」
かすれた声。
吐息に混じるように、かろうじて形を成す。
だがその言葉に、揺らぎはない。
誰かを責める言葉ではない。
世界を呪う言葉でもない。
純粋な、合理主義者としての自己評価。
――戦力が足りなかった。
――判断が一歩、遅れた。
その事実を、受け入れる。
視界の端に、灰色の青年の姿が映る。
クトゥル=ノワール・ル=ファルザス。
氷の世界の中で、ただ一人、異質な存在であり、ティファーが神として崇拝する存在。
周囲の混沌と切り離されたように、そこに立っている。
「……申し訳ございません…」
最後に絞り出された言葉。
それは謝罪であり、報告であり、終わりの宣言。
「クトゥルさま――」
クトゥルに対して、信仰心が足りて居れば、神獣にだって勝てたのに。
そのすべてを、一言に込めて。
彼女の意識は、闇に沈んで行った。




