邪神の秘密と神獣㊹
ディアボロスの動きが、止まった。
――ほんの一拍。
呼吸一つ分にも満たない、刹那の静止。
だがそのわずかは、この極限の戦場においては永遠にも等しい。
それまで世界を押し潰していた圧が、ほんの一瞬だけ緩む。
暴風のように吹き荒れていた気配が、唐突に途切れる。
凍てつく空間に、不自然な空白が生まれた。
だが、それは戦場において、致命的な隙だった。
黒曜石の巨体が、微細な軋み音を立てる。
ギチ……と、鈍く乾いた音。
それは外殻が鳴っているのか、それとも内部構造が軋んでいるのか判別がつかない。
額の巨大な眼の文様が、わずかに回転を鈍らせた、その瞬間。
幾何学の円環が、ほんのわずかにズレる。
完璧だったはずの回転に、微細な乱れが生じた。
それは誤差にも満たないズレ。
だが、精密であるがゆえに、その異常は致命的だった。
「今だ――!」
ティファーが、低く鋭く叫ぶ。
その声は、氷の世界を切り裂くように響いた。
躊躇はない。
その一瞬を機会として掴み取る判断。
彼女の足元で、風が渦を巻いた。
冷気に満ちた空間が、急激に収束する。
「裂けよ、旋風の刃――『テンペスト・ブレード』っ!」
解き放たれたのは、透明なはずの暴力。
音よりも先に、圧が走る。
風が空間を切り裂き、一直線に解き放たれる。
それはもはや風ではない。
質量を持たぬ刃。
だが確実に斬るという結果だけを伴う力。
視認する前に、衝撃が来る。
圧縮された風の刃が、神獣の側面を薙ぎ払った。
――ギィンッ、と金属を引き裂くような高音。
耳をつんざく硬質な音が、空間に反響する。
それは肉を裂く音ではない。
鉱物同士がぶつかり、削れ合うような異音。
巨大な翼、その黒曜石の羽根が数枚、根元から弾け飛ぶ。
刃は確かに届いた。
表層を削り取り、構造の一部を破壊する。
だが、切断には至らない。
砕けた破片が宙を舞い、火花のような光を散らしながら氷床へと降り注いだ。
黒い破片は光を反射し、白い世界の中で異様な輝きを放つ。
落下と同時に氷を打ち、乾いた音を響かせた。
その衝撃で、再び氷の表面に細かな亀裂が走る。
「……効いてる!」
ティファーは確信する。
その瞳は、わずかな変化も見逃さない。
確かに通った。
だが――浅い。
あまりにも浅すぎる。
切り傷を負っただけで、出血など皆無だった。
そもそも血が流れる構造なのかすら分からない。
傷はある。
だが、それは致命からは程遠い。
巨大な存在に対して、ほんの表面を撫でただけ。
その理解と同時に、別の影が動いた。
氷塵がまだ宙を漂い、視界が白く濁る中、その隙間を縫うように、一つの黒が滑り込む。
「――某が行く」
低く、愉悦を含んだ声のクビナシが、氷を蹴る。
踏み込みの瞬間、氷が砕ける音が鋭く弾けた。
だがその衝撃すら、彼の加速に追いつけない。
171cmの肢体が、異様な速度で間合いへと踏み込む。
重さを感じさせない動き。
それでいて、軌道は一切ぶれない。
漆黒の甲冑に刻まれた赤黒い紋様が、脈動するように輝いた。
それは装飾ではない。
生きているかのように、内側から光を滲ませている。
心臓の鼓動に呼応するかのように――いや、それ以上に禍々しく。
傷を欲するかのように、魔力が昂ぶる。
斬るためではない。
傷つけるという行為そのものに飢えた力。
空気が歪む。
周囲の温度が、わずかに下がる。
それは冷気ではない。
生命の熱を奪うような、異質な気配。
『邪哭・鎖断』
魔剣ブラッディ・ティアーズが、闇を纏う。
刃渡り180cmの日本刀が、まるで生き物のように唸りを上げた。
闇が刃に絡みつき、粘つくように収束する。
それは光を拒絶し、存在を飲み込む色だった。
――斬。
動作は、あまりにも短い。
振りかぶる動きすら、ほとんどない。
ただ一閃。
だがその軌跡には、確かな重みがあった。
刃はウロボロスの胴へと食い込み、黒曜石の表面に確かな亀裂を刻む。
硬質な抵抗が、腕へと伝わる。
まるで岩盤を削るかのような手応え。
それでも刃は止まらない。
闇を纏った斬撃が、外殻を押し裂く。
だが、深くはない。
表層を削り、亀裂を走らせる。
しかし内部へと至るには、あまりにも足りない。
絶対的な厚み。
それが、すべてを拒む。
「……浅い」
クビナシの口元が、わずかに歪む。
その表情は曖昧だった。
不満か、それとも快感か――判別はつかない。
だが、その瞳の奥には確かな熱が宿っている。
通用する。
だが足りない。
その中途半こそが、彼女の闘争心を刺激する。
斬撃の余韻が消える前にウロボロスが、咆哮した。
それは音ではなかった。
空気が震え、氷が軋み、空間そのものが悲鳴を上げる。
凍てつく冷気が爆発的に広がったかと思えば、同時に灼熱が噴き上がる。
その現象は、あまりにも唐突だった。
白い世界を満たしていた静謐な冷気が、一瞬で暴力へと転じる。
空気そのものが凍りつき、鋭い刃となって四方へと拡散したかと思えば――
次の瞬間、真逆の熱が押し寄せる。
火と氷――相反する二つの属性が、理を無視して洞窟内に解き放たれた。
氷晶が空を舞い、炎が壁を焼き、岩盤が悲鳴を上げる。
無数の氷の結晶が、刃のように回転しながら飛び交う。
触れれば裂ける。
その合間を縫うように、炎が奔流となって走る。
熱風が渦を巻き、氷を溶かしながらさらに膨張する。
岩盤は急激な温度変化に耐えきれず、ひび割れ、軋み、崩れ始めていた。
白と赤、冷と熱が交錯し、世界そのものが悲鳴を上げている。
「サフィア!」
ティファーの声が、混沌の中を貫く。
爆ぜる音、砕ける音、唸る風――
あらゆる騒音を押しのけて、その一声だけがはっきりと届く。
迷いを許さない、指示。
「は、はいっ!」
震えを必死に抑えながら、サフィアが前に出る。
足元の氷はすでに安定を失っている。
熱で溶け、冷気で再び凍り、滑りやすく、崩れやすい。
それでも彼女は踏み出す。
青緑の髪が、熱と冷気に煽られて揺れた。
一瞬で乾き、次の瞬間には凍りつきかける。
その過酷な環境が、彼女の身体を容赦なく削っていく。
だが止まらない。
彼女は両手で、大型の貝殻を握りしめる。
指先は白くなるほど力が入っていた。
恐怖で震える手を、無理やり押さえつけるように。
「我が身を包め、水の守り――」
声が、かすかに震える。
詠唱の一音一音が、揺らぐ。
だが、途切れない。
恐怖に飲み込まれそうになりながらも、言葉を紡ぐ。
「『アクア・ヴェール』っ!」
その瞬間、彼女の前に水が生まれる。
薄く、柔らかな水の幕が立ち上がる。
それは硬い壁ではない。流動し、揺らぎ、形を持たない。
だが確かに、そこにある。
それは壁というより、包み込む膜だった。
外界と内側を隔てる、柔らかな境界。
触れればたゆたい、しかし決して破れない意志を持つ。
炎が触れ、氷が叩きつけられる。
灼熱が水面を焼き、冷気が凍結させようとする。
相反する力が、同時に襲いかかる。
――ジュウゥゥッ!
激しい蒸気が爆ぜ、視界が白に染まる。
水が一瞬で沸騰し、白煙となって弾け飛ぶ。
同時に凍結し、砕け、また溶ける。
その繰り返し。
絶え間ない消耗。
水の幕は削られながらも、確かに火と氷を相殺していた。
完全には防げない。
だが、致命を防ぐには十分、それを証明するようにゼイグが動いた。
「――オレの番だ」
低く、腹の底から響く声。
それは、轟く雷鳴の前触れのようだった。
混沌とした氷の世界の中で、その一言だけが妙に重く、確かな質量を持って響く。
ゼイグが跳んだ。
踏み込みの瞬間、氷床が爆ぜる。
亀裂が放射状に走り、その中心から巨体が弾丸のように射出される。
205cmの巨体が、信じられない軽さで宙を舞う。
重さという概念を裏切る動き。
空気抵抗すら無視するかのように、一直線に加速する。
全身の筋肉に、雷光が走る。
筋繊維一本一本が発光しているかのように、青白い閃光が皮膚の下を駆け巡る。
それは単なる魔力ではない。
肉体そのものが、雷へと変質している。
『ケージ・ヴォルテージ』
ユ=ツ・スエ・ビル式。
魔法を、肉体そのものに纏わせる戦闘様式。
外に放つのではない。
内に取り込み、己の肉体を武器そのものへと昇華させる。
雷が、彼の四肢を覆い尽くす。
腕が振るわれるたびに、電光が尾を引く。
脚が空を蹴るたびに、火花が散る。
その全てが、破壊の前兆。
鉄塊のような大剣が、轟音と共に振り下ろされた。
刃は重い。
だが、その重さすら速度へと変換されている。
振り下ろされる軌道に、迷いは一切ない。
ただ叩き潰すという意思だけが込められている。
――雷鳴。
刃が振るわれた瞬間、空間が弾けた。
轟音が洞窟を揺らす。
雷光が炸裂し、氷壁に無数の影を刻む。
白い世界が、一瞬だけ青白く染まる。
洞窟が揺れる。
天井の氷柱が軋み、細かな破片が降り注ぐ。
足元の氷床が振動し、亀裂がさらに広がっていく。
それは確かに、当たれば終わる一撃だった。
だが、刃は弾かれた。
手応えが、途中で途切れる。
確かに触れた。
だが、そこから先に進まない。
黒曜石の装甲に触れた瞬間、雷光が散り、剣が軌道を逸らされる。
電撃が外殻を走り、四方へと弾け飛ぶ。
だがその中心――装甲そのものには、決定的な変化がない。
硬い。
ただそれだけが、圧倒的に現実を突きつける。
「チッ……!」
ゼイグは即座に後退する。
踏み込んだ勢いをそのまま反転させ、強引に距離を引き剥がす。
氷を削りながら滑走し、間合いを離脱する。
氷床に、長い軌跡が刻まれる。
そのまま膝を軽く落とし、体勢を立て直す。
肩で荒く息をついた。
肺が焼けるように熱い。
雷を纏った反動が、内部に負荷を与えている。
「(……やはり…硬い)」
短い思考。
だが、結論は明確だった。
致命傷には、程遠い。
通じていないわけではない。
だが、足りない。
その差が、あまりにも大きい。
その時だった。
空気が、わずかに変わる。
ウロボロスの額――巨大な眼の文様が、再び激しく回転を始めると黒い翼が、ゆっくりと広がった。
その動作は緩慢に見えた。
だが実際には、一切の無駄がない。
漆黒の黒曜石で構成された羽根が、一枚、また一枚と展開されるたび、刃鳴りにも似た金属音が洞窟内に反響する。
キィン――と、鋭く乾いた音。
それは羽ばたきの音ではない。
刃と刃が擦れ合い、研ぎ澄まされていくような音。
空気そのものが削り取られ、悲鳴を上げているかのようだった。
黒曜石の結晶繊維でできた鬣が逆立ち、微細な破片が光を反射しながら宙を舞う。
鬣一本一本が、鋭利な結晶の束。
それが総毛立つことで、周囲に無数の刃が浮かび上がる。
舞い散る破片は、氷晶とは異なる冷たい光を放つ。
白の世界に、黒い煌めきが混ざる。
――来る。
その直感が、ティファーの背筋を貫いた。
理屈ではない。
経験と本能が、同時に警鐘を鳴らす。
次の一撃は、今までとは違う。
「来る……!」
叫びは、しかし、遅すぎた。
声が空間に届くよりも先に、事象が進む。
ウロボロスは消えた。
視界から消えた。けれど、消失した訳ではない。
動きが速すぎた。
知覚が追いつく前に、存在が移動しただけ。
次の瞬間。
サフィアの背後に冷気と熱気が来た。
「――っ!?」
振り返る暇すらない。
反応は間に合わない。
理解も、認識も、すべてが遅い。
視界の端に映ったのは、落ちてくる影。
巨大な虎の後脚。
それは脚というより、質量の塊だった。
筋肉の束が幾重にも重なり、黒曜石の外殻に覆われた構造。
その一つ一つが、圧倒的な破壊を内包している。
筋肉の塊のような造形が、重力を伴って真上から振り下ろされる。
直撃すれば、肉体は潰れ、魂ごと粉砕される。
それは比喩ではない。
存在そのものが消失する一撃。
理解より先に、身体が動いた。
サフィアは反射的に、扇子に見立てた大型の貝殻を掲げる。
攻撃ではない防御の形。
だが、間に合わない。間に合ったとしても無意味だ。
たとえ防御をしたとしても、速度も、質量も、桁が違う。
その事実が、絶望的なほど明確だった。
「姫!!」
ゼイグが、地を蹴った。
踏み込んだ瞬間、氷床が耐えきれず砕け散る。
足元から放射状に亀裂が走り、その中心から巨体が弾き出される。
氷床が砕け、雷が爆ぜる。
ユ=ツ・スエ・ビル式――肉体強化を限界まで引き上げ、
全身に雷属性魔力を纏わせる。
筋肉が膨張し、血流が加速する。
皮膚の下を雷光が奔り、肉体そのものが閃光へと変わる。
205cmの巨体が、弾丸のように飛び込む。
重さは消え、ただ速度だけが残る。
一直線に、迷いなく。
鉄塊の大剣を盾代わりに突き出し、
サフィアの前に割り込んだ。
その動きに、躊躇は一切なかった。
守るための一手。
それだけが、すべてだった。
――衝突。
時間が、歪む。
ゼイグとディアボロスが激突する。
耳を引き裂くような爆音が、鼓膜を叩き潰す。
衝撃波が壁を走り、天井から岩片が降り注ぐ。
空気が押し出され、暴風となって洞窟内を駆け抜ける。
氷壁が軋み、ひび割れ、崩れ落ちる。
ティファーとクビナシは、為す術なく吹き飛ばされた。
踏ん張る暇すらない。
圧倒的な衝撃に、身体が宙を舞う。
身体が岩肌に叩きつけられ、呼吸が奪われる。
背中に走る激痛。
肺から空気が強制的に吐き出される。
声すら出ない。
サフィアは、何が起きたのか理解できなかった。
見えたのは膝をつき、前屈みになったゼイグの背中だった。
巨大な背中。
だが今は、その姿が異様に小さく見える。
「……ゼ、ゼイグさん……?」
呼びかけは、かすれた声になる。
喉が震え、うまく音にならない。
返事は、ない。
雷は、すでに消えていた。
先ほどまで彼を覆っていた光は、跡形もなく失われている。
あれほど強烈だった輝きが、嘘のように。
残っているのは、静寂と破壊の痕跡だけ。
鉄塊の大剣は、根元から歪み、
刃の半分が無残に砕け散って氷の上に転がっていた。
あり得ない光景。
壊れることがない形状の剣が、砕かれる。
それだけで、事態の深刻さが理解できる。
ゼイグの右肩から胸元にかけて、
深く、鋭い黒曜石の爪痕。
それは傷ではない。
抉り取られている。
筋肉も、骨さえも抉られ、
血が、噴き出すように溢れ出す。
赤が、氷の上に広がっていく。
白い世界に、鮮烈な色。その対比が、あまりにも残酷だった。
「……っ、は……」
ゼイグは、喉を鳴らすように息を吐いた。
それは呼吸というより、命が漏れる音だった。
肺が機能していない。
空気が入らない。
ただ、残りの生命がこぼれ落ちていく。
その場に崩れ落ちそうになる身体を、折れた剣に縋って、必死に支える。
腕が震える。
力が入らない。
それでも、倒れないように。
だが、力は続かない。
限界は、すぐそこにあった。
やがて、彼の眼帯の下――
唯一見えていた左目が、虚ろに見開かれる。
焦点が、合っていない。
意識が、遠のいている。
白目を剥き、ゼイグは、前のめりに倒れ伏した。
重い音が、氷の上に響く。
――一人目の脱落者。
その事実が、冷たく場を支配する。
サフィアは、声を失ったまま立ち尽くす。
何もできなかった。
守られただけ。
その現実が、胸を締め付ける。
ディアボロスは、翼をゆっくりと畳む。
戦いが終わったかのような、静かな動作。
黒曜石の刃羽が重なり合い、金属音が低く響いた。
キィン……と、余韻のように長く。
額に刻まれた巨大な眼紋が、再び回転を始める。
先ほどよりも、明確に。
意志を持ったかのように。
黄色の光が、強く、鋭く脈動する。
それは、次を示していた。




