邪神の秘密と神獣㊸
ディアボロスの前脚が、氷結した大地を踏み砕いた。
その動きに、予兆はほとんどなかった。
ただそこに在った巨体が、次の瞬間には動いていた――それだけだ。
――轟音。
音は遅れてやってくる。
まず押し潰すような圧力が空間を歪め、次いでそれが爆発的な衝撃となって広がった。
まるで山が跳ねたかのような衝撃が走り、床一面を覆っていた氷が蜘蛛の巣状に砕け散る。
白い破片が宙を舞い、冷気と粉塵が視界を覆った。
氷の破片は刃のように鋭く、空気を裂きながら無数に飛び交う。
舞い上がった氷塵は光を乱反射し、視界を白く濁らせた。
その中心を――巨大な影が貫いてくる。
直線的な突進だった。
無駄がなく、迷いがない。
軌道は一切ぶれない。
狙いはただ一点――クトゥル。
速さと重さ、そのどちらもが理不尽なまでに極まっている。
速度だけならばまだいい。
だがそこに、質量という暴力が加わる。
それは攻撃ではない。
ただ存在が移動してくるだけで、世界が破壊される。
「(いや待って待って待って!!あれ、でかいとか強いとか以前に――避けられない速度なんだけど!?)」
クトゥルは、喉の奥で悲鳴を噛み殺した。
視界が埋まる。
黒曜石で構成された巨体が、視界を完全に覆う。
逃げ場はない。
横も、後ろも、すべてが遅い。
考える時間すら与えられない。
額から鼻梁にかけて刻まれた巨大な眼の紋様が、幾何学的な瞳孔をゆっくりと回転させていた。
円環が重なり、角度を変え、精密に噛み合いながら回り続ける。
その動きは滑らかすぎて、逆に不気味だった。
見られている、というより――魂の重量を測られている。
その存在に触れられた瞬間、何もかもが数値に変換され、裁定されるような感覚に陥る。
「来るかっ!」
鋭い声が、粉塵の向こうから響いた。
その一声が、凍りついた空間に亀裂を入れる。
ティファーが即座に判断する。
彼女の思考は、恐怖よりも速い。
状況把握、脅威分析、最適解の導出――すべてが一瞬で完了していた。
銀の軽装鎧がきらめき、彼女は後衛を切り捨てるように跳んだ。
迷いはない。
守るべき配置を維持するために、あえて距離を取る。
「ゼイグ、クビナシ、左右に散開しろ!サフィアは後方で支援魔法っ!」
その声に、クビナシとゼイグが反応する。
ほぼ同時。
声が発せられた瞬間には、すでに体が動いている。
「――了解だ」
クビナシは、長大な魔剣ブラッディ・ティアーズを引きずるように構え、闇を纏ったまま左へ跳躍する。
刃が氷を擦り、低い金属音を響かせる。
その軌跡には、濃密な闇が尾を引いた。
まるで空間そのものが削り取られるように、彼女の存在が移動する。
「おうっ!」
反対側では、二メートルを超える巨体――ゼイグ・バルグレイが地を踏み抜いた。
その踏み込み一つで、氷床が爆ぜる。
筋肉が唸り、巨体が弾丸のように加速する。
雷を纏った体が、氷床を焼き焦がしながら移動する。
白い世界の中に、焦げた軌跡が一直線に刻まれる。
青白い電光が、遅れてその跡をなぞった。
「は、はいっ!」
サフィアは、後方でいつでも水属性の支援魔法を使える位置に立つ。
足場を確認し、視界を確保し、詠唱に入る準備を整える。
震える指先を、ぎゅっと握りしめる。
恐怖はある。
だが、それ以上に役割が彼女を支えていた。
一瞬の判断で、隊列は保たれた。
それは熟練の証。
長く戦場を共にしてきた者たちの、無言の連携。
――ただ一人、クトゥルを除いて。
ディアボロスの影が、クトゥルを完全に覆った。
「(だから、何でこっちに攻撃するっ!?)」
氷の大地を踏み砕きながら迫る影を前に、クトゥルの思考が弾ける。
狙いは明確だった。
数ある標的の中で、ただ一つ――彼だけを正確に捉えている。
偶然ではない。
本能でもない。
選ばれている。
鋭利な前脚。
それは脚というよりも、武器だった。
関節は異様に長く、しなやかに折れ曲がり、しかし一切の無駄がない。
軍鶏の脚を思わせる異形の構造。
地を掴むための脚ではない。
獲物を引き裂くためだけに最適化された形状。
黒曜石の鱗に覆われ、短剣のような鉤爪が幾重にも重なっている。
一枚一枚が刃。
その全てが、振るわれるために存在している。
振り下ろされれば、肉体など存在しなかったかのように消し飛ぶだろう。
斬る、砕く、潰す――
そういった過程すら不要。
ただ消える。
「(正面から受ける?無理無理無理無理無理!!邪神とか言ってるけど、中身ただの一般人だから!!)」
思考は完全に悲鳴だった。
目の前の現実と、自分自身の本質との乖離。
その差が、致命的すぎる。
神でも怪物でもない。
ただの人間が、この一撃を受ければどうなるかなど、考えるまでもない。
だが、クトゥルは逃げなかった。
足は動かないのではない。
動かさない。
逃げるという選択肢が、彼にはなかった。
背を向けた瞬間に終わる。
それは命ではない。
役割が終わる。
――逃げれば、邪神は終わる。
この場で築き上げてきた虚像。
恐怖と畏怖で塗り固めた存在。
それが一瞬で崩れれば――次に来るのは、疑念と崩壊。
そして全滅。
「(演じろ……!ここで格を落としたら、全員死ぬ……!!)」
歯を食いしばる。
恐怖を押し殺し、思考を一点に収束させる。
『トリックスター』
無言の宣言と共に、スキルが発動する。
声に出さない。
だが確かに、世界の側がそれを認識した。
空気が、わずかに歪む。
肉体の質量は、変わらない。
骨も、臓も、魔力の総量も、何一つ削れない。
存在そのものは、そのまま。
だが――形だけが、歪む。
現実の法則に、亀裂が入る。
人型だったはずのクトゥルの身体が、ぐにゃりと崩れた。
まず、輪郭が曖昧になる。
肩と腕の境界が溶け、首と胴の区別が失われる。
次いで、関節が意味を失う。
肘が折れるのではない。
折れる必要がなくなる。
骨格という制約が、存在ごと歪められる。
関節が溶け、輪郭が失われ、瞬時に球体へと変形する。
赤黒い肉塊。
それは氷の世界にあまりにも不釣り合いな存在だった。
純白に支配された空間の中で、ただ一つだけ異質に脈打つ色。
凍てつく空気の中でさえ、その塊からはじわりとした熱の気配が滲み出ている。
邪神の核のような、不定形の塊。
形は定まらない。
瞬きの間に輪郭が揺らぎ、膨張し、収縮し――まるで生きているかのように蠢く。
いや、生きているという表現すら生温い。
それは存在そのものが、安定を拒絶しているかのようだった。
次の瞬間、それは――消えた。
空間がわずかに歪む。
何かがそこにあったはずだという痕跡だけを残して、完全に。
ディアボロスの前脚が、空を裂く。
遅れて、轟音が走る。
音よりも先に、圧が来る。
大気が押し潰され、氷の粒子が爆ぜるように弾け飛ぶ。
その一撃は、回避などという概念を許さない速度だった。
本来そこにあったはずの存在を掴めぬまま、鉤爪は氷床を深々と抉った。
爪が触れた瞬間、氷は抵抗する暇もなく砕け散る。
まるで柔らかな土を掬い上げるかのように、厚い氷床が容易く裂けた。
衝撃で、地面が一段低く沈む。
凄まじい圧力が下方へと叩きつけられ、周囲の氷が連鎖的にひび割れる。
亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、白い大地を黒く染め上げていく。
「……外した?」
ゼイグが、眼帯の下で目を細める。
彼の声は低く、だが確実に警戒を孕んでいた。
あの一撃が外れる――その事実そのものが、常識の外にある。
彼の視線は、抉れた氷床と、その中心を交互に見据える。
何かを見落としていないか、わずかな違和感すら逃すまいとするように。
「……殿が、消えた?」
クビナシ・サディズムの低い声が、わずかに揺れた。
普段は感情の起伏を感じさせない声音。
その奥に、ほんの僅かな揺らぎが混じる。
蒼い双眸が即座に周囲を走査する。
氷柱の影。
砕けた氷片の隙間。
風に舞う氷塵の向こう側。
あらゆる死角を、一瞬でなぞるように視線が駆け抜ける。
だが、どこにも――崇拝する主の存在は見当たらない。
消えた。
そう見えた。
空間から完全に抹消されたかのように。
存在の気配すら、感じ取ることができない。
だが実際には。クトゥルは、消えてなどいなかった。
彼はただ、形を変えただけだった。
ディアボロスの脚が振り抜かれた、その刹那。
衝撃が氷床へと叩き込まれる、ほんの一瞬前。
その時間の隙間を縫うように氷床の裂け目を、黒い影が走っていた。
それは、あまりにも小さい。
広大な氷原と、神獣の巨体。
その中に紛れれば、塵にも等しい存在。
掌に収まるほどの一匹のネズミ。
灰色がかった黒毛。
その毛並みは光を吸い込み、氷の反射の中で輪郭を曖昧にする。
足はほとんど音を立てない。
氷上を滑るように、いや、氷と同化するかのように、低く、速く。
体を極限まで地面に近づけ、重心を落とし、滑走する。
爪先がわずかに氷を掴み、その反動でさらに加速する。
ただ逃げるためだけの動き。
無駄を一切排した、生存本能の極致。
「(無理無理無理無理無理!!死ぬ!今の当たったら絶対ミンチ!!)」
内心では、完全に悲鳴を上げていた。
思考は半ばパニックに陥りながらも、体だけは冷静に動いている。
矛盾した状態。
恐怖が判断を鈍らせるどころか、逆に研ぎ澄ましている。
だが、その姿は誰にも見えない。
ネズミは、砕けた氷の破片を縫うように走る。
滑る氷上を、まるで計算し尽くした軌道で移動し、ディアボロスの巨大な影の死角へと潜り込む。
ディアボロスは、首を左右に振り、クトゥルを探す。
けど、黒曜石の獣は気づかない。
その巨大さゆえに、あまりにも小さな存在を感知できなかった。
魂を覗くはずの眼紋でさえ、今は獲物を探してゆっくりと回転している。
数拍。
ほんの、数呼吸の猶予。
その間に、ネズミは氷上で跳ねるように方向を変え歪んだ。
空間が、ぐにゃりと軋む。
質量は、変わらない。
だが形だけが、押し広げられる。
骨格が軋み、肉が戻り、影が立ち上がる。
一匹の小動物だったものが、瞬く間に人の形へと引き延ばされる。
灰色の肌。
黒髪。
160cm台の青年の姿。
――クトゥル=ノワール・ル=ファルザスが、そこに立っていた。
氷の上に、足を踏みしめて。
靴底が、硬質な氷を確かに捉える。
きし、とわずかな音が鳴り、その振動が足裏から体の奥へと伝わった。
冷気が、遅れて肌を刺す。
先ほどまでの変化によって曖昧になっていた身体感覚が、一気に現実へと引き戻される。
そこに立っているのは――紛れもなく、クトゥルだった。
傍から見れば、それは完全に敵の必殺の突進を、瞬間移動で回避したようにしか見えなかった。
ディアボロスの一撃は、回避不能に等しい速度だった。
その軌道、その圧、その規模。
あれを避けるなど、本来あり得ない。
だが現実として、クトゥルは無傷でそこに立っている。
誰も、ネズミを見ていない。
誰も、変化の過程を捉えていない。
氷床を走った小さな影も。
存在を極限まで希薄化させた一瞬も。
すべては、知覚の外にあった。
ただ結果だけが、そこにある。
――回避した。
その事実だけが、氷の世界に突き刺さる。
「……っ」
サフィア、ティファーが息を呑む。
白い吐息が、同時に漏れ出る。
それは寒さによるものではない。
理解が追いつかない現象を前にした、純粋な驚愕。
サフィアの瞳は揺れ、ティファーの視線は鋭く細められる。
だがどちらも、その結果から目を逸らすことができない。
ゼイグの単眼が、わずかに見開かれる。
彼ほどの戦士でさえ、その一瞬を捉えられなかった。
それが意味するものを、直感的に理解している。
――見えなかったのではない。
――存在しなかったかのようだった。
クビナシは、喉の奥で低く笑った。
氷を擦るような、不気味に乾いた音。
だがそこには、確かな愉悦が混じっている。
その視線の先で、クトゥルはゆっくりと顔を上げる。
氷の大地を踏みしめたまま、首だけを持ち上げる。
視線が、巨大な神獣へと向けられる。
黒曜石のような外殻。
幾何学の眼紋。
圧倒的な上位存在。
内心は、まだ心臓がバクバクだ。
鼓動がやけに大きく響く。
耳の奥で、どくん、どくんと音が反響する。
脚も若干、震えている。
氷の冷たさのせいではない。
あの一撃を紙一重で回避したという事実が、今になって全身を支配し始めていた。
「(助かった……マジで……ネズミサイズ最強……!)」
思考は完全に生存者のそれだった。
誇りも威厳も関係ない。
ただ、生き延びたという安堵。
だが、そんなことは一切、表に出さない。
呼吸を整える。
震えを押し殺す。
感情を、意志で押し潰す。
彼はただ、氷の世界に立ち、黒曜石の神獣を見上げて、
口元に――薄く、余裕めいた笑みを刻んだ。
それは虚勢。
だが同時に、演技としては完璧だった。
恐怖を一切感じさせない、上位者の微笑。
「ククク……貴様のような獣が我に触れられると思うな…?」
低く、意味深な笑いを見せる。
その声は氷の大地に静かに響き、冷たい空気に溶けていく。
挑発。
しかしそれ以上に――格の誇示。
たとえ内心がどうであろうと。
その場に立つ者すべてに、ただ一つの事実を突きつける。
――触れられない存在が、そこにいた。




