表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
364/372

邪神の秘密と神獣㊸


ディアボロスの前脚が、氷結した大地を踏み砕いた。


その動きに、予兆はほとんどなかった。

ただそこに在った巨体が、次の瞬間には動いていた――それだけだ。


――轟音。


音は遅れてやってくる。

まず押し潰すような圧力が空間を歪め、次いでそれが爆発的な衝撃となって広がった。


まるで山が跳ねたかのような衝撃が走り、床一面を覆っていた氷が蜘蛛の巣状に砕け散る。

白い破片が宙を舞い、冷気と粉塵が視界を覆った。


氷の破片は刃のように鋭く、空気を裂きながら無数に飛び交う。

舞い上がった氷塵は光を乱反射し、視界を白く濁らせた。


その中心を――巨大な影が貫いてくる。


直線的な突進だった。

無駄がなく、迷いがない。


軌道は一切ぶれない。

狙いはただ一点――クトゥル。


速さと重さ、そのどちらもが理不尽なまでに極まっている。


速度だけならばまだいい。

だがそこに、質量という暴力が加わる。


それは攻撃ではない。

ただ存在が移動してくるだけで、世界が破壊される。


「(いや待って待って待って!!あれ、でかいとか強いとか以前に――避けられない速度なんだけど!?)」


クトゥルは、喉の奥で悲鳴を噛み殺した。


視界が埋まる。


黒曜石で構成された巨体が、視界を完全に覆う。


逃げ場はない。

横も、後ろも、すべてが遅い。


考える時間すら与えられない。


額から鼻梁にかけて刻まれた巨大な眼の紋様が、幾何学的な瞳孔をゆっくりと回転させていた。


円環が重なり、角度を変え、精密に噛み合いながら回り続ける。

その動きは滑らかすぎて、逆に不気味だった。


見られている、というより――魂の重量を測られている。


その存在に触れられた瞬間、何もかもが数値に変換され、裁定されるような感覚に陥る。


「来るかっ!」


鋭い声が、粉塵の向こうから響いた。


その一声が、凍りついた空間に亀裂を入れる。


ティファーが即座に判断する。


彼女の思考は、恐怖よりも速い。

状況把握、脅威分析、最適解の導出――すべてが一瞬で完了していた。


銀の軽装鎧がきらめき、彼女は後衛を切り捨てるように跳んだ。


迷いはない。

守るべき配置を維持するために、あえて距離を取る。


「ゼイグ、クビナシ、左右に散開しろ!サフィアは後方で支援魔法っ!」


その声に、クビナシとゼイグが反応する。


ほぼ同時。

声が発せられた瞬間には、すでに体が動いている。


「――了解だ」


クビナシは、長大な魔剣ブラッディ・ティアーズを引きずるように構え、闇を纏ったまま左へ跳躍する。


刃が氷を擦り、低い金属音を響かせる。

その軌跡には、濃密な闇が尾を引いた。


まるで空間そのものが削り取られるように、彼女の存在が移動する。


「おうっ!」


反対側では、二メートルを超える巨体――ゼイグ・バルグレイが地を踏み抜いた。


その踏み込み一つで、氷床が爆ぜる。

筋肉が唸り、巨体が弾丸のように加速する。


雷を纏った体が、氷床を焼き焦がしながら移動する。


白い世界の中に、焦げた軌跡が一直線に刻まれる。

青白い電光が、遅れてその跡をなぞった。


「は、はいっ!」


サフィアは、後方でいつでも水属性の支援魔法を使える位置に立つ。


足場を確認し、視界を確保し、詠唱に入る準備を整える。

震える指先を、ぎゅっと握りしめる。


恐怖はある。

だが、それ以上に役割が彼女を支えていた。


一瞬の判断で、隊列は保たれた。


それは熟練の証。

長く戦場を共にしてきた者たちの、無言の連携。


――ただ一人、クトゥルを除いて。


ディアボロスの影が、クトゥルを完全に覆った。


「(だから、何でこっちに攻撃するっ!?)」


氷の大地を踏み砕きながら迫る影を前に、クトゥルの思考が弾ける。


狙いは明確だった。

数ある標的の中で、ただ一つ――彼だけを正確に捉えている。


偶然ではない。

本能でもない。


選ばれている。


鋭利な前脚。


それは脚というよりも、武器だった。

関節は異様に長く、しなやかに折れ曲がり、しかし一切の無駄がない。


軍鶏の脚を思わせる異形の構造。


地を掴むための脚ではない。

獲物を引き裂くためだけに最適化された形状。


黒曜石の鱗に覆われ、短剣のような鉤爪が幾重にも重なっている。


一枚一枚が刃。

その全てが、振るわれるために存在している。


振り下ろされれば、肉体など存在しなかったかのように消し飛ぶだろう。


斬る、砕く、潰す――

そういった過程すら不要。


ただ消える。


「(正面から受ける?無理無理無理無理無理!!邪神とか言ってるけど、中身ただの一般人だから!!)」


思考は完全に悲鳴だった。


目の前の現実と、自分自身の本質との乖離。

その差が、致命的すぎる。


神でも怪物でもない。

ただの人間が、この一撃を受ければどうなるかなど、考えるまでもない。


だが、クトゥルは逃げなかった。


足は動かないのではない。

動かさない。


逃げるという選択肢が、彼にはなかった。


背を向けた瞬間に終わる。


それは命ではない。

役割が終わる。


――逃げれば、邪神は終わる。


この場で築き上げてきた虚像。

恐怖と畏怖で塗り固めた存在。


それが一瞬で崩れれば――次に来るのは、疑念と崩壊。


そして全滅。


「(演じろ……!ここで格を落としたら、全員死ぬ……!!)」


歯を食いしばる。


恐怖を押し殺し、思考を一点に収束させる。


『トリックスター』


無言の宣言と共に、スキルが発動する。


声に出さない。

だが確かに、世界の側がそれを認識した。


空気が、わずかに歪む。


肉体の質量は、変わらない。

骨も、臓も、魔力の総量も、何一つ削れない。


存在そのものは、そのまま。


だが――形だけが、歪む。


現実の法則に、亀裂が入る。


人型だったはずのクトゥルの身体が、ぐにゃりと崩れた。


まず、輪郭が曖昧になる。

肩と腕の境界が溶け、首と胴の区別が失われる。


次いで、関節が意味を失う。


肘が折れるのではない。

折れる必要がなくなる。


骨格という制約が、存在ごと歪められる。


関節が溶け、輪郭が失われ、瞬時に球体へと変形する。


赤黒い肉塊。

それは氷の世界にあまりにも不釣り合いな存在だった。


純白に支配された空間の中で、ただ一つだけ異質に脈打つ色。

凍てつく空気の中でさえ、その塊からはじわりとした熱の気配が滲み出ている。


邪神の核のような、不定形の塊。


形は定まらない。

瞬きの間に輪郭が揺らぎ、膨張し、収縮し――まるで生きているかのように蠢く。

いや、生きているという表現すら生温い。


それは存在そのものが、安定を拒絶しているかのようだった。


次の瞬間、それは――消えた。


空間がわずかに歪む。

何かがそこにあったはずだという痕跡だけを残して、完全に。


ディアボロスの前脚が、空を裂く。


遅れて、轟音が走る。


音よりも先に、圧が来る。

大気が押し潰され、氷の粒子が爆ぜるように弾け飛ぶ。


その一撃は、回避などという概念を許さない速度だった。


本来そこにあったはずの存在を掴めぬまま、鉤爪は氷床を深々と抉った。


爪が触れた瞬間、氷は抵抗する暇もなく砕け散る。

まるで柔らかな土を掬い上げるかのように、厚い氷床が容易く裂けた。


衝撃で、地面が一段低く沈む。


凄まじい圧力が下方へと叩きつけられ、周囲の氷が連鎖的にひび割れる。

亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、白い大地を黒く染め上げていく。


「……外した?」


ゼイグが、眼帯の下で目を細める。


彼の声は低く、だが確実に警戒を孕んでいた。

あの一撃が外れる――その事実そのものが、常識の外にある。


彼の視線は、抉れた氷床と、その中心を交互に見据える。

何かを見落としていないか、わずかな違和感すら逃すまいとするように。


「……殿が、消えた?」


クビナシ・サディズムの低い声が、わずかに揺れた。


普段は感情の起伏を感じさせない声音。

その奥に、ほんの僅かな揺らぎが混じる。


蒼い双眸が即座に周囲を走査する。


氷柱の影。

砕けた氷片の隙間。

風に舞う氷塵の向こう側。


あらゆる死角を、一瞬でなぞるように視線が駆け抜ける。


だが、どこにも――崇拝する主の存在は見当たらない。


消えた。

そう見えた。


空間から完全に抹消されたかのように。

存在の気配すら、感じ取ることができない。


だが実際には。クトゥルは、消えてなどいなかった。

彼はただ、形を変えただけだった。


ディアボロスの脚が振り抜かれた、その刹那。


衝撃が氷床へと叩き込まれる、ほんの一瞬前。

その時間の隙間を縫うように氷床の裂け目を、黒い影が走っていた。


それは、あまりにも小さい。


広大な氷原と、神獣の巨体。

その中に紛れれば、塵にも等しい存在。


掌に収まるほどの一匹のネズミ。


灰色がかった黒毛。


その毛並みは光を吸い込み、氷の反射の中で輪郭を曖昧にする。

足はほとんど音を立てない。


氷上を滑るように、いや、氷と同化するかのように、低く、速く。


体を極限まで地面に近づけ、重心を落とし、滑走する。

爪先がわずかに氷を掴み、その反動でさらに加速する。


ただ逃げるためだけの動き。

無駄を一切排した、生存本能の極致。


「(無理無理無理無理無理!!死ぬ!今の当たったら絶対ミンチ!!)」


内心では、完全に悲鳴を上げていた。


思考は半ばパニックに陥りながらも、体だけは冷静に動いている。

矛盾した状態。


恐怖が判断を鈍らせるどころか、逆に研ぎ澄ましている。


だが、その姿は誰にも見えない。


ネズミは、砕けた氷の破片を縫うように走る。


滑る氷上を、まるで計算し尽くした軌道で移動し、ディアボロスの巨大な影の死角へと潜り込む。


ディアボロスは、首を左右に振り、クトゥルを探す。


けど、黒曜石の獣は気づかない。

その巨大さゆえに、あまりにも小さな存在を感知できなかった。


魂を覗くはずの眼紋でさえ、今は獲物を探してゆっくりと回転している。


数拍。


ほんの、数呼吸の猶予。


その間に、ネズミは氷上で跳ねるように方向を変え歪んだ。


空間が、ぐにゃりと軋む。


質量は、変わらない。

だが形だけが、押し広げられる。


骨格が軋み、肉が戻り、影が立ち上がる。


一匹の小動物だったものが、瞬く間に人の形へと引き延ばされる。


灰色の肌。

黒髪。

160cm台の青年の姿。


――クトゥル=ノワール・ル=ファルザスが、そこに立っていた。


氷の上に、足を踏みしめて。


靴底が、硬質な氷を確かに捉える。

きし、とわずかな音が鳴り、その振動が足裏から体の奥へと伝わった。


冷気が、遅れて肌を刺す。

先ほどまでの変化によって曖昧になっていた身体感覚が、一気に現実へと引き戻される。


そこに立っているのは――紛れもなく、クトゥルだった。


傍から見れば、それは完全に敵の必殺の突進を、瞬間移動で回避したようにしか見えなかった。


ディアボロスの一撃は、回避不能に等しい速度だった。

その軌道、その圧、その規模。


あれを避けるなど、本来あり得ない。


だが現実として、クトゥルは無傷でそこに立っている。


誰も、ネズミを見ていない。

誰も、変化の過程を捉えていない。


氷床を走った小さな影も。

存在を極限まで希薄化させた一瞬も。


すべては、知覚の外にあった。


ただ結果だけが、そこにある。


――回避した。


その事実だけが、氷の世界に突き刺さる。


「……っ」


サフィア、ティファーが息を呑む。


白い吐息が、同時に漏れ出る。

それは寒さによるものではない。


理解が追いつかない現象を前にした、純粋な驚愕。


サフィアの瞳は揺れ、ティファーの視線は鋭く細められる。

だがどちらも、その結果から目を逸らすことができない。


ゼイグの単眼が、わずかに見開かれる。


彼ほどの戦士でさえ、その一瞬を捉えられなかった。

それが意味するものを、直感的に理解している。


――見えなかったのではない。


――存在しなかったかのようだった。


クビナシは、喉の奥で低く笑った。


氷を擦るような、不気味に乾いた音。

だがそこには、確かな愉悦が混じっている。


その視線の先で、クトゥルはゆっくりと顔を上げる。


氷の大地を踏みしめたまま、首だけを持ち上げる。

視線が、巨大な神獣へと向けられる。


黒曜石のような外殻。

幾何学の眼紋。


圧倒的な上位存在。


内心は、まだ心臓がバクバクだ。


鼓動がやけに大きく響く。

耳の奥で、どくん、どくんと音が反響する。


脚も若干、震えている。


氷の冷たさのせいではない。

あの一撃を紙一重で回避したという事実が、今になって全身を支配し始めていた。


「(助かった……マジで……ネズミサイズ最強……!)」


思考は完全に生存者のそれだった。

誇りも威厳も関係ない。


ただ、生き延びたという安堵。


だが、そんなことは一切、表に出さない。


呼吸を整える。

震えを押し殺す。


感情を、意志で押し潰す。


彼はただ、氷の世界に立ち、黒曜石の神獣を見上げて、

口元に――薄く、余裕めいた笑みを刻んだ。


それは虚勢。


だが同時に、演技としては完璧だった。

恐怖を一切感じさせない、上位者の微笑。


「ククク……貴様のような獣が我に触れられると思うな…?」


低く、意味深な笑いを見せる。


その声は氷の大地に静かに響き、冷たい空気に溶けていく。


挑発。


しかしそれ以上に――格の誇示。


たとえ内心がどうであろうと。

その場に立つ者すべてに、ただ一つの事実を突きつける。


――触れられない存在が、そこにいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ