邪神の秘密と神獣㊷
神獣ディアボロスの尾が、ゆっくりと持ち上がった。
その動きは緩慢に見えて、実際には異様な圧を伴っている。
空気が押し退けられ、氷の大地に低い軋みが走る。
黒曜石で形成された巨大な尾の先端――竜の頭部を模したその口が開く。
ぎちり、と。
顎が開くたび、石同士が擦れ合うような不快な音が響いた。
内側には歯ではなく、燃え盛る紋様が刻まれていた。
それは単なる装飾ではない。
黄色の幾何学文様が回転し、収束し、まるで何かを圧縮するように、中心へと凝縮していく。
光が増す。
回転が速まる。
「何か仕掛けるか…」
ティファーの額に汗が滲む。
大粒の汗が彼女の額から頬に伝う。
それぞれが警戒したその刹那、灼熱の炎が放たれた。
轟音すら置き去りにする速度で、それは一直線に空間を貫いた。
空気そのものを燃やし、氷の地下世界を一瞬で歪ませる、破壊の奔流。
白く輝いていた氷壁が、赤に染まる。
氷柱が蒸発し、空間に白い蒸気が爆ぜるように広がる。
熱と冷気が衝突し、世界が軋む。
視界が揺らぐ。
空間そのものが、歪んでいる。
その直線上にクトゥルがいた。
灰色の肌に、赤い光が映り込む。
まるで血に染まったかのように、色が変わる。
黒髪が熱風に煽られ、激しく逆立つ。
衣服がばたつき、皮膚の表面が焼ける前触れのようにひりつく。
足が、動かなかった。
逃げろ。
避けろ。
そんな単純な命令が、脳内で何度も何度も反響する。
だが身体が、それを拒絶している。
凍りついたように。
あるいは、本能が理解してしまったがゆえに。
――無駄だ、と。
「(……あ)」
喉が、ひくりと鳴る。
自分のものとは思えないほど、乾いた音だった。
「(あ、これ――)」
思考が、奇妙なほど冷静になる。
時間が引き伸ばされたように、すべてがゆっくりと見える。
迫り来る炎。
焼け落ちていく氷。
揺らめく光。
仲間たちの姿すら、視界の端でぼやけている。
転生してからの走馬灯が彼の脳内に駆け巡る。
「(……死んだかも)」
炎が、迫る。
直線的な破壊の奔流。
空気を焼き裂き、氷を蒸発させながら、逃げ場のない速度で押し寄せてくる。
視界の端で、氷柱が一瞬で蒸発した。
鋭く尖っていたはずのそれは、形を保つ暇すらなく白煙へと変わり、消え失せる。
床の氷が溶け、次の瞬間には爆ぜて砕け散る。
――バァンッ!!
圧に耐えきれず、内側から弾け飛ぶような破砕。
砕けた氷片が宙を舞い、熱風に巻き上げられて散乱する。
冷気と熱がぶつかり合い、空間が歪む。
クトゥルが内心、死を覚悟した時、二つの影が、前に出た。
躊躇はない。
恐怖もない。ただ、当然のように。
「行くぞ」
低く、短い声。
それは確認ではない。
命令でもない。
ただ、意志の共有。
戦場において、最も無駄のない言葉。
「おうっ」
応じる声もまた、迷いがない。
返答は短く、しかし力強い。
その一音に、覚悟のすべてが込められていた。
クビナシとゼイグ。騎士と戦士が、クトゥルの前に立っていた。
彼女の漆黒の甲冑に、赤黒い魔力の紋様が走る。
それはまるで血管のように脈打ち、鎧の隙間という隙間を這い巡っていく。
氷の世界の青白い光を押し退けるように、その禍々しい輝きは濃度を増していった。
銀髪のロングが、魔力に揺らめき、空中で舞う。
一本一本が生き物のようにうねり、冷気を裂いて広がる。
彼女が担ぐ首――透き通る蒼の瞳が、狂気と歓喜を宿して細められた。
焦点はただ一つ。
迫り来る、神獣の炎。
「ほう……某らを差し置いて、殿を狙うか」
その声音には、怒りはない。
むしろ、愉悦すら滲んでいる。
唇が、歪む。
刃のように鋭く、そしてどこか歪んだ笑み。
「――良い選択だ。実に、愉快だ。だが…」
その言葉と同時に、空気が軋んだ。
魔剣ブラッディ・ティアーズが、鳴動する。
どくん、どくん、と。
まるで心臓のように脈打ちながら、刀身が脈動する。
「不愉快でもある。殿に牙を向ける前に、某たちを倒してみろっ!」
漆黒の刀身の上から、さらに闇が纏わりついた。
液体のように粘つき、煙のように揺らぎながら、刃全体を覆い尽くしていく。
「闇よ、我が血に応えよ――」
低く、祈るような詠唱と共に闇の色が濃くなる。
「喰らえっ『冥斬・断罪』っ!」
言葉が落ちた瞬間、闇が爆ぜた。
刃が振るわれるよりも先に、空間が切り裂かれる。
黒い斬撃が、炎へと叩きつけられるように放たれた。
同時に、ゼイグが一歩踏み出す。
――ドンッ!!
二メートルを超える巨体が、地面を踏み砕いた。
氷床が耐えきれずに陥没し、亀裂が蜘蛛の巣のように広がる。
鈍い黒緑の鱗に、雷光が走る。
ばちばちと弾ける電流が、筋肉の隆起に沿って這い上がり、全身を駆け巡る。
右眼の眼帯の奥で、獣のような集中が燃え上がる。
一時、呼吸が止まり、思考が、研ぎ澄まされる。
ただ一撃のために、すべてが収束していく。
鉄塊のような大剣を、両手で握り締める。
柄が軋み、上の筋肉が膨らみ血管が浮き出る。
その刃に宿るのは、力ではない。
意志だ。
「クビナシ殿の言う通り。――邪神様に、触れるならオレを倒せっ!おおおぉっ!」
咆哮。
それは宣言であり、誓いだった。
次の瞬間。
雷が、爆ぜる。
巨体が弾丸のように前へと射出される。
闇の斬撃と、雷を纏った大剣。
二つの力、炎、闇、雷が、同時に炎へとぶつかった。
クビナシの斬撃が、炎を切り裂く。
闇を纏った刀身が、灼熱へと真正面から食い込んだ。
焼け付くような高熱が刃を包み込み、空間そのものが歪む。
だが、その闇は揺るがない。
黒は、燃えない。
むしろ、炎を侵食するように喰らう。
闇を纏った刀身が、灼熱を断ち、黒い裂け目を空間に刻む。
炎の流れが、分断される。
左右へと押し広げられ、中心にぽっかりと空白が生まれる。
そこへ同時に、ゼイグの大剣が振り下ろされる。
雷属性を纏った一撃が、炎の奔流を叩き潰す。
轟音とともに、大剣が空間を叩き割った。
雷が炸裂し、白い閃光が視界を塗り潰す。
圧縮された電撃が爆ぜ、炎の核を内部から破壊する。
押し潰す。
ねじ伏せる。
叩き割る。
力の塊のような一撃だった。
遅れて爆音が響き渡った。
空気が震え、氷壁が軋み、天井の氷柱が連鎖的に砕け落ちる。
衝撃波が周囲へと広がり、砕けた氷片を弾き飛ばし、空間そのものを揺さぶる。
――熱風。
切り裂かれたはずの炎が、暴風となって逆巻いた。
残滓が荒れ狂い、二人の身体を包み込む。
甲冑が焼け、鱗が焦げる。
金属が赤熱し、鱗の隙間から白煙が上がる。
皮膚が焼ける匂いが、冷たい空気に混じる。
だが、それでも、二人は一歩も退かない。
足は氷床に食い込み、全身で衝撃を受け止めながら、なお前を向き続ける。
クビナシの刃は、最後まで振り抜かれ、ゼイグの大剣は、地を叩き割る勢いで押し込まれる。
炎は、確かに両断された。
しかし、炎の向こう。
灼熱によって歪んだ空間の奥、揺らめく熱の膜の向こう側で、なおはっきりと存在を主張するものがあった。
神獣ディアボロスの巨大な眼紋。
黒曜石の体躯に刻まれたそれは、炎の残滓すら意に介さず、
ただ静かに、ゆっくりと回転している。
まるで世界そのものを観測する機械のように。
二人ではなく、その背後を見ている。
クビナシの闇も、ゼイグの雷も、確かに直撃しているはずだった。
しかし、それらは、ディアボロスにとって、障害物に過ぎないとでも言うように。
回転する幾何学の瞳孔が、ただ一点を捉えている。
――クトゥル。
氷の大地に立つ、灰色の青年。
その存在だけを、選び抜くように。
魂を、覗き込むように。
視線ではない。もっと直接的な認識。
皮膚の上ではなく、骨でもなく、心臓ですらなく――
その奥、魂の核へと、何かが触れてくる。
炎を切り裂かれ、闇と雷を受けてもなお、神獣の注意は、一切逸れていない。
世界がどう変わろうと関係ない。
最初から決められているかのように。
標的は、ただ一つ。クトゥルを見ていた。
「……」
彼は、唇を引き結ぶ。
表情は、崩さない。
背筋も、姿勢も、微動だにしない。
だが、氷の世界の静寂の中で、彼の喉だけが、わずかに上下した。
「(いや、こっち見るなよ……)」
内心で、全力のツッコミが飛ぶ。
その思考は、もはや悲鳴に近い。
「(俺、戦えないんだけど!?攻撃手段ほぼゼロなんだけど!?今、前に立ってる二人の方が、どう考えても強いだろ!?)」
理不尽だった。
圧倒的に。
目の前では、闇と雷が神獣の炎を打ち破っている。
誰がどう見ても、最前線に立つべきはあの二人だ。
それなのに。
なぜか、神獣の視線はクトゥルから外れない。
逃げ場はない。
クトゥルの背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がる。
氷の冷気とは違う。
もっと根源的な、理解してはいけない何かに触れた時の寒気。
それでも彼は、動かない。
動けないのではない。
動かない。
そう見せることだけは、最後まで貫く。
その沈黙は、外から見れば。
まるで――神獣すら見下ろす、余裕のように映っていた。




