邪神の秘密と神獣㊼
倒れ伏したサフィアを一瞥もせず、クビナシは、ゆっくりと舌で唇をなぞった。
視界の端で少女が崩れ落ちたことなど、最初から認識の外にあるかのように。
その動作は、あまりにも自然だった。
乾いた空気の中で、わずかに湿った音が響く。
凍てつく世界の中で、その仕草だけが異様に生々しい。
「……くく」
喉の奥で、小さく笑う。
押し殺したような声音。
だが、その奥には抑えきれない愉悦が滲んでいる。
刃を握る腕に、わずかに力がこもる。
甲冑が軋む。
神獣の前脚と拮抗する中で、なお余裕がある。
口の隙間から漏れる吐息は、熱を帯びていた。
呼吸は乱れていない。
むしろ、整っている。
一定の間隔で、規則正しく。
戦闘の最中であるにも関わらず、彼女の呼吸は異様なほど安定していた。
「この……高ぶり……」
低く、噛みしめるような声。
言葉の一つ一つに、重みがある。
記憶と、執着と、渇望が混ざり合った響き。
「姉との……死闘以来だ……」
その言葉と同時に、彼女の脳裏に、忌まわしくも高き影が浮かび上がる。
姉の持つ鎌。
長柄の大鎌を、まるで自分の四肢のように操る女。
その姿は、記憶の中にあってなお鮮明だった。
振るう、という動作ではない。
在るだけで、刃が空間を侵食する。
鎌は伸び、曲がり、消え、再び現れる。
物理的な軌道を持たない。
存在そのものが、切断の概念と化している。
空間そのものを刈り取るような軌跡。
何もないはずの場所が裂け、遅れて、血が噴き出す。
防御も、回避も、意味を持たない。
何度、挑んだかは覚えていない。
日が沈み、また昇り、血が乾き、また流れる。
その繰り返しの中で、回数という概念は消えた。
何度、地に伏したかも、数える意味を失っている。
叩きつけられ、斬り裂かれ、骨を砕かれ、臓腑を抉られ。
そのたびに、視界は赤に染まり、闇に沈む。
勝てない。
どう足掻いても、届かない。
刃は触れる前に消え、反撃は届く前に断たれる。
距離も、速度も、技量も、
すべてが一段、いや二段以上上にあった。
それでも、挑まずにはいられなかった。
膝が砕けようと、腕が裂けようと。
立てば、また刃を取る。
敗北は確定している。
それでも、踏み出す。
刃が肉を裂く痛み。
焼けるような、鋭い感覚。
骨にまで届く衝撃。
鈍く、深く、身体の芯を揺らす圧。
死の縁に立たされる恐怖。
次の一撃で終わる、という確信。
――それらすべてが、快楽だった。
痛みが、存在を証明する。
恐怖が、生を研ぎ澄ます。
死の淵に立つことでしか得られない、純粋な感覚。
それに魅せられていた。
「(……そうだ)」
意識が、現在へと引き戻される。
冷たい空気。
白い大地。
そして、目の前にある圧倒的な存在。
目の前の神獣を、見据える。
黒曜石の肉体。
光を拒絶するかのような漆黒の装甲。
魂を覗き込むように回転する眼の紋様。
火と氷、相反する力を同時に従える、神の獣。
灼熱と絶対零度。
本来は共存し得ないはずの力が、矛盾なくそこにある。
「(同じだ……)」
胸の奥で、確信が形になる。
いや、同じ格だ。
あの女と。
何度も刃を交え、何度も殺されかけた存在。
姉と。
あるいは――それ以上。
比較すら意味をなさない可能性。
それでも、構わない。
むしろ、望むところだ。
クビナシの蒼い双眸が、妖しく細まる。
恐怖はない。
この白く凍りついた世界の中で、凍えるべき感情は、すでに彼女の内には存在しなかった。
退却の選択肢もない。
背後には、ただ砕けた氷と、倒れ伏した少女。
逃げ場など、初めから用意されていない。
否、仮にあったとしても、選ぶことはなかっただろう。
あるのは、ただ一つ。
――昂揚。
静まり返った地に、確かに何かが目覚める。
血。
サディズム家に流れるそれが、長い、長い沈黙を破り、軋むように動き出す。
「ふふ……」
漏れた笑みは、小さく、だが確かに歪んでいた。
吐息が白く凍る。
だが、その奥にある熱は、氷の世界にあってなお消えない。
甲冑に刻まれた赤黒い紋様が、脈動を始める。
どくん――どくん――
まるで心臓のように。
鎧そのものが生きているかのように、規則正しく、だが確実に鼓動を刻む。
「行くぞ…」
静かに、だが確実に響く声。
クビナシは、静かに魔剣を構えた。
無駄のない動作。
足は氷を踏みしめ、重心は一切揺らがない。
刃はわずかに傾き、いつでも振り抜ける位置に置かれる。
その構えは、静止しているのに、次の瞬間にはすべてを断ち切る予感を孕んでいた。
ブラッディ・ティアーズに、濃密な闇が纏わりついた。
ディアボロスが、完全に動き出すその前。
空気が鳴くよりも早く、クビナシは地を蹴っていた。
踏み込んだ瞬間、氷が砕け散る。
足元から放射状に亀裂が走り、白い粉雪が爆ぜる。
その動きは、視認するよりも速く、彼女の姿が前方へと滑り込んでいた。
防御姿勢は存在しない。
構えはすでに攻撃そのもの。
守るという概念は、最初から切り捨てられている。
踏み込むたびに氷が砕け、その破片が後方へと弾け飛ぶ。
冷気が肌を裂く。だが、その感覚すら彼女の意識には入らない。
長大な魔剣ブラッディ・ティアーズが、彼女の片手で軽々と振り上げられる。
常人なら両手でも扱いきれぬ質量。
それを、まるで木の枝でも振るうかのように、
自然な動作で持ち上げる。
刃渡り百八十センチの刀身に、闇が絡みつく。
「来いっ…獣っ!」
低く、楽しげな声。
挑発であり、歓喜であり、何より純粋な期待が込められている。
それに応じるかのように。
黒曜石のごとき神獣の前脚が、大地を砕きながら振り下ろされる。
一歩、踏み込むだけで地面が陥没する。
その質量、その速度、回避を許さない一撃。
それと同じタイミングでクビナシは魔剣を振り抜いた。
ディアボロスの爪と、ブラッディ・ティアーズの刃が、真正面から噛みあい、甲高い金属音を響かせる。
衝撃波が円状に広がり、氷の大地が一斉にひび割れる。
砕けた氷片が宙を舞い、遅れて、乾いた破砕音が連鎖する。
洞窟の天井に垂れ下がっていた氷柱すら、その余波に耐えきれず、次々と崩れ落ちた。
拮抗。
激突した力は、均衡を保っているかに見えた。
闇と氷。
力が、一点で噛み合い、互いを押し潰そうとしている。
否――ほんのわずか、ほんの紙一枚分。
神獣の圧が勝った。
均衡は、存在していなかった。
見えないほどの差が、しかし確実に、勝敗を分ける。
クビナシの足元が、ずるりと滑る。
刃を押し返されると同時に、踏みしめていた氷が削れた。
ぎり、と鈍い音を立て、足場そのものが後方へと抉れていく。
氷を削りながら、半歩、さらに半歩と後退させられていく。
踏みとどまろうとする力と、押し潰そうとする圧。
その拮抗が、足元を破壊しながら続いていた。
腕に走る衝撃。
骨を直接叩かれたかのような重圧。
振動は刃から腕へ、肩へ、そして全身へと伝播していく。
肩の関節が悲鳴を上げ、内部で軋む音がはっきりと知覚できるほどだった。
だが、彼女の顔から、焦りは消え失せていた。
押されている。
それは事実。
だが、その事実が、恐怖へと繋がることはなかった。
むしろ唇が、ゆっくりと吊り上がる。
痛みを味わうように。
圧を楽しむように。
その笑みは、戦いの中でしか現れない歪みだった。
透き通る蒼の双眸が、狂気と愉悦を孕んだ光を宿す。
「……いいぞ」
噛み締めるような声だった。
だがそれは、痛みに耐えるためのものではない。
刃と爪が噛み合うその中心で、クビナシの心臓の奥から、抑えきれない熱が滲み出る。
歯を食いしばるどころか、笑いが漏れる。
圧し潰されかけているはずの状況。
腕は震え、骨は軋み、今この瞬間にも崩壊しかねない。
それでもなお、彼女の声は、震えていなかった。
むしろ、歓びに満ちている。
「いいぞっ!獣が――某と、対等に渡り合うかっ!!」
氷の世界に、声が叩きつけられる。
叫びは反響し、砕けた氷片の間を駆け抜けていく。
歓喜の叫び。
それは挑発であり、賛美であり、そして何より、心からの承認だった。
腕が軋み、足が押し戻され、身体が壊れかけているという事実すら、彼女にとっては甘美な刺激でしかなかった。
力が拮抗する一点。
その中心で、肉体は悲鳴を上げ続けている。
筋繊維が裂け、骨が軋み、関節が限界を訴える。
だが、そのすべてが、彼女の感覚を研ぎ澄ませていく。
生きている。
壊れかけているからこそ、より鮮明にそれを実感できる。
神獣の爪が、さらに力を込める。
黒曜石の質量が、わずかに沈み込む。
その一押しで、均衡はさらに神獣側へと傾いた。
氷の圧が、刀身を伝って侵食しようとする。
白い霜が、刃の根元からじわりと広がる。
冷気はただの温度ではない。
存在を凍結させる力。
闇に包まれたはずの刀身が、その侵食に抗いきれず、軋む。
ぱきり、と。
微細な氷結音が、確かに響いた。
だが、クビナシは刃を引かない。
一歩も退かない。
押されている。
それでも、なお。
退くという選択肢は存在しない。
むしろ、さらに踏み込む。
闇を、さらに深く纏わせる。
呼応するように、刀身の闇が膨れ上がる。
濃度が増す。密度が増す。
それは、もはや纏うという次元を超え、刃そのものを侵食し、飲み込むように広がっていく。
刀身に集束した闇が、まるで生き物のように蠢き、唸りを上げた。
黒曜石の巨躯が、低く唸る。
それは音というより、大気そのものを震わせる振動だった。
氷に覆われた大地が微かに軋み、洞窟の奥深くまでその低音が染み渡る。
ディアボロスの尾が、ゆっくりと弧を描いた瞬間、その先端に刻まれた竜の顎が開いた。
ぎちり、と。
生物の顎とは異なる、
石と金属が擦れ合うような不気味な音。
顎の内側、暗黒の奥底で、何かが脈動し、膨れ上がる。
轟っと音を立て、炎が、世界を舐め尽くすように噴き出す。
奔り、うねり、膨張しながら空間そのものを呑み込む。
それは単なる火ではない。
色が違う。
赤ではない。橙でもない。
黒に近い、しかしどこか蒼を帯びた異質な炎。
氷点下の空気を一瞬で蒸発させ、大地の氷を逆に焼き割る、神獣の吐息。
銀髪が、風を裂いて舞った。
視界の端で、一閃の光が走る。
クビナシは、身を捻る。
それは回避というより、攻撃の延長線上にある自然な動作。
甲冑が火光を反射し、
赤と黒が混じった光が、漆黒の装甲の曲面を滑るように流れていく。
絹のような銀髪が揺らめく。
炎の熱が、頬を掠める。
皮膚が焼ける寸前の距離。
氷を砕く音とともに、足が滑り込む。
重心がずれ、身体が紙のようにしなる。
炎の奔流を、紙一枚で躱す。
灼熱が頬を撫で、鎧が赤く焼けるが、彼女は、止まらない。
蒼の双眸が、獣を射抜いた。
「――捕まえたぞ」
低く、愉悦を含んだ声。
クビナシは、空いた左手を突き出す。その足元に、黒い魔法陣が展開した。
『――ダスク・チェーン』
詠唱と同時に、闇が音を立てて溢れ出す。
――じゃらり。
魔法陣の中心から、
影そのものを鍛え上げたかのような鎖が噴き上がった。
一本ではない。二本、三本、四本……闇の鎖は意思を持つかのように分岐し、獲物を定めて宙を走る。
狙いは一点。
ディアボロスの――前脚。後脚。翼。そして、炎を吐いたばかりの尾。
異形の四肢へ、
闇の鎖が同時に絡みつく。
黒曜石の装甲に、鎖が食い込み、金属でも石でもない、鈍い悲鳴が鳴った。
神獣の動きが、止まる。
「……ふふ」
クビナシの唇が、微かに歪む。
だが。拘束は、一瞬だった。
ディアボロスの額の巨大な眼の紋様が、回転速度を上げ――
空間そのものを、凝視した。
氷気が、爆発する。
絶対零度に近い冷気が、神獣の内部から外へと噴き出し、闇の鎖を包み込んだ。
鎖の表面に、白霜が走る。
軋み。
悲鳴。
そして――砕裂。
闇の鎖は、氷結と同時に脆くなり、
次の瞬間、無数の黒い破片となって宙に散った。
拘束、解除。
だがクビナシは、微動だにしない。
蒼い瞳に映るのは、想定通りの光景。
「……当然だな」
鎖が砕け散る中、彼女は、魔剣ブラッディ・ティアーズを構え直す。
闇が、再び刃に絡みつく。
「だが――」
足を踏み込み、氷を砕き、距離を詰める。
「――一瞬で、十分だ」
闇が、彼女の刀に応える。
砕け散った闇の鎖。その破片が宙を漂う刹那。
クビナシは、既に踏み込んでいた。
氷結した闇の残滓を蹴り、地を抉る一歩で距離を潰す。
突進。
黒曜石の前脚が、軍鶏の鉤爪を閃かせて振り下ろされる。
続けざまに、翼が展開――
羽根一枚一枚が刃となり、空間を削ぎ落とす。
だが、彼女は紙一重でそこを抜けた。
前脚の影を潜り、
翼の刃の内側へと身体を滑り込ませる。
――神獣の懐。
ここは、安全地帯などではない。
最も危険で、最も柔らかい場所。
刃が掠る。
ガリッ――
漆黒の甲冑に、深い裂け目が走り、血が静かに流れ落ちた。
「……く、くく」
クビナシは、笑った。
蒼の双眸が、愉悦に歪む。
「その程度か、神の獣よ」
ブラッディ・ティアーズを、片手で引き絞る。
刃渡り一八〇センチの長刀が、重力を無視したように軽い。
闇が、刀身へと流れ込む。
「――『邪哭・鎖断』」
振るわれた刃から、質量を持った闇が解き放たれた。
それは斬撃であり、同時に投擲された闇そのもの。
空間を歪めながら、黒曜石の装甲を叩き斬る。
ズンッ――!!
衝撃。
闇の斬撃が命中した瞬間、遅れて、闇の鎖が追撃として噴き出す。
斬られた箇所へ、鎖が喰らいつき、引き裂く。
黒曜石の肉体に、初めて明確な裂傷が刻まれた。
黄色の命令回路が、一瞬乱れる。
だが、クビナシは止まらない。
さらに深く、神獣の中へ踏み込む。
「闇よ、某が血に応えよ――『冥斬・断罪』」
刀が振るわれた瞬間、闇が刃の形を保ったまま――空間を断つ。
ズバァァァ……
黒曜石の肉体に、深く、深く、闇が喰い込んだ。
肉体の一部が、確かに斬り裂かれる。
神獣の血が、地面に滴り落ちる。
その瞬間。ディアボロスの動きが、止まった。
額の巨大な眼の紋様が、これまでとは異なる光を放つ。
回転が、速まる。
黄色の幾何学文様が、明確に――クビナシだけを捉える。
空気が、変わる。
神獣が、初めて――殺す意思を、向けてきた。
クビナシは、血に濡れた刃を下げ、その視線を正面から受け止める。
「……ようやくか」
嗤う声は、静かで、愉しげだった。
「神に近い獣よ。某を――楽しませてみせよ」
その言葉を合図に、戦いは、次の段階へと踏み込む。




