邪神の秘密と神獣㊱
ゼイグは、視線を落とし、己を恥じた。
鱗に覆われた体が僅かに震える。
彼は剣を握ることを誇りとしてきた。
力は守るためにあると、そう信じてきた。
――だが、違った。
「……オレは……」
ゼイグの声が、震える。
「……忠義を尽くした……」
眼帯の奥が、焼けるように疼く。
それは古傷の痛みではない。
己自身への嫌悪だった。
略奪に手を貸した。
泣き叫ぶ者を、見て見ぬふりをした。
斬らずに済む命を、斬った。
すべて――「恩義」の名の下に。
ゼイグの肩が、わずかに落ちる。
「……誇り高き、戦士として――」
その瞬間だった。
「――はっ」
乾いた笑い声が、空気を切り裂いた。
グラヴァ・ドレイクが、肩を揺らして笑っていた。
「くだらねぇ…」
彼は一歩、前に出る。
威圧感が、空気を押し潰す。
「バカを俺が支配して、何が悪い?」
言い切った。
一片の迷いもなく。
「お前は強かった。だから使った。それだけだ」
グラヴァの視線が、ゼイグを貫く。
「忠義?誇り?笑わせんな」
吐き捨てるように言う。
一歩、また一歩。
まるで獲物を追い詰める肉食獣。
「嫌いな略奪も?一方的な殺しも?全部、俺のためだったぁ?」
にやりと、口角が吊り上がる。
「違うな。――お前は考えないことを選んだんだ」
その言葉は、刃だった。
「楽だったろ?命令に従ってりゃ、責任は俺のせいにできる。リザードマンたちを統率する必要もないもんなぁっ!」
グラヴァは胸を張る。
「俺は悪だ。だがな、お前はそれに剣を貸した」
重い沈黙が支配する。
ゼイグの拳が、震えた。
怒りではない。
悲しみでもない。
――理解してしまったのだ。
自分が、どれほど都合よく使われ、どれほど無自覚に加担していたかを。
グラヴァは、最後に吐き捨てる。
「バカは黙って従ってればいいんだよ。」
彼の言葉にゼイグの目つきが、変わった。
それは怒りでも憎悪でもない。
――覚悟だった。
刃を振るう者が、振るう理由を決めた時の眼。
その瞬間、グラヴァの背筋を、氷水が伝い落ちた。
今まで幾度となく死線を潜り抜けてきた。
数えきれぬ命乞いを踏み潰してきた。
だが――これは違う。
「(……マズい)」
遅れて、現実が追いつく。
アドレナリンに支配され、忘れていた事実。
右腕の重量が、存在しない。
――フックが付いた手は、すでに切断されていた。
焼けた痛み。
血の匂い。
そして、空を掴む感覚。
魔法は使える。
だが、相手はゼイグだ。
リザードマンを統一していたリーダーであり、屈指の武人。
戦場を知り尽くした殺しの専門家。
片手を失った自分が勝てる相手ではない。
理解した瞬間、グラヴァの喉が鳴った。
「ちょ、ちょっと…ま、待てよ……ゼイグ」
声が、掠れる。
さっきまでの傲慢さは、跡形もない。
「……今のは、冗談だって…たまには冗談もいいだろ…?」
一歩、後ずさる。
それに合わせるように、ゼイグは一歩前に歩を進める。
「冷静になろうぜ…?俺とお前は……同じリザードマンだろ?」
必死に、言葉を繋ぐ。
「仲良くしようぜ……そうだっ…これからは、お前が船長やっていい。だから、ここはいっしょに――」
その時、空気が止まった。
グラヴァの視界が揺れる。
「……ぐっ……ぁ……?」
胸の奥が、熱い。
理解する前に、感覚が先に答えを出していた。
視線を落とす。
そこにはゼイグの腕があった。
拳は、グラヴァの胸を貫いている。
雷の魔力すら纏っていない。
ただの、力と意志だけの一撃。
武人が選んだ、最も確実な殺し。
ゼイグの表情は、静かだった。
怒りも、哀しみも、もうそこにはない。
「…安心しろ…」
低く、淡々と告げる。
「オレも後でお前の元に行く。」
グラヴァの膝が、崩れた。
抵抗は、なかった。
掴みかかる力も、呪詛を吐く余裕も。
巨体が、地上から海へと傾く。
――どぼん。
鈍い音。
泡が、ぶくぶくと浮かび上がる。
暗紅色の鱗が、海の中に溶けていく。
やがて、グラヴァ・ドレイクは、海底へと沈んでいった。
支配者でも、船長でもなく。
ただの――裁かれた獣として。
ゼイグは、しばらく海を見つめていた。
しばらくすると、彼は深く息を吐いた。
肺に溜まっていた熱と血の匂いを、無理やり吐き出すように。
そして――
ゆっくりと、振り返る。
そこにいたのは、四人。
サフィア。ティファー。
クビナシ。
そして、クトゥル。
誰も、言葉を発さない。
ゼイグは数歩進み、やがて――その場に膝をついた。
巨体が沈む音が、やけに大きく響いた。
そして、自らの首を、前へと差し出す。
「……オレの命を助けてくれたのは」
低く、掠れた声。
「……貴方だ…」
視線は、サフィアへ向けられていた。
「その恩人に、オレは牙を向いた。理由がどうあれ……それは、事実だ」
迷いは、もうない。
「……殺してくれ。貴方には、その資格がある…」
一瞬。
「え、えぇ……?」
サフィアの声が、震えた。
大きな瞳が揺れ、貝殻を握る指が強張る。
「ど、どうしよう……」
騙されていた。
操られていただけだった。
そう思えば、胸の奥が締め付けられる。
彼女の中で、助けた命を奪うという選択は、どうしても結びつかなかった。
「ぼ、僕…殺すつもり――」
その時だった。
「――甘い」
クビナシの冷ややかな声が、割って入る。
蒼い双眸が、ゼイグを見下ろす。
「コイツは、某の主である殿に牙を向けた」
魔剣ブラッディ・ティアーズが、低く脈動する。
「理由など関係ない。主に刃を向けた時点で、処断すべき存在だ」
感情はない。
それは、忠誠という絶対の論理。
「あぁ。私も同感だ」
続いたのは、ティファーだった。
剣は構えず、ただ静かに告げる。
「結果として、彼は敵だった。そして今後、再び敵になる可能性がある」
青い瞳が、冷静に状況を切り分ける。
「情で判断する場面じゃない。ここで殺すのが、最も合理的だ」
それぞれの正義。
それぞれの価値基準。
サフィアは、二人の言葉に挟まれ、言葉を失った。
ゼイグは、ただ目を閉じていた。
裁きを、受け入れる覚悟で。
サフィアは、胸元で大きな貝殻を抱きしめるようにしていた。
深海色の髪が風に揺れ、彼女の瞳には迷いと不安がありありと浮かんでいる。
命を左右する選択が、自分の手に委ねられている――その重さに、少女の心は耐えかねていた。
「クトゥル様……」
――どうしたらいいのか。彼女の震えを含んだ声がクトゥルへと向けられる。
彼はわずかに顎を引き、意味ありげに喉を鳴らす。
深淵を覗く者のような沈黙――外から見れば、まさしく神の熟考。
だが、その内側では別の思考が渦巻いていた。
「(仲間になりそうなんだよな……。この先、戦闘がある可能性もあるし。戦力は、多いに越したことはない)
本音を悟らせぬよう、彼は口角をわずかに歪め、禍々しさを演出する。
「ククク…我が意思に縛られるな。――お前の運命はお前で決めろ。」
威厳ある邪神らしいセリフ。
運命を授けるのではなく、選ばせるという残酷な慈悲。
サフィアはその言葉を噛みしめるように目を伏せ、やがて小さく頷いた。
逃げずに決めろ、と言われたのだと――彼女は、まっすぐに受け取った。
その様子を、ティファーは無言で見守る。
白銀の鎧の奥で、冷静な瞳が一瞬だけ細められたが、彼女は何も言わなかった。
クトゥルの言葉は常に最適解。疑う余地はない。
クビナシもまた、漆黒の甲冑を微かに鳴らし、黙って肯定する。
主の意思に従うこと――それが彼女の存在理由だった。
サフィアは一歩前へ出る。
その視線の先には、片膝をつき、血にまみれたリザードマン――ゼイグ・バルグレイ。
彼に対して治癒魔法をかけつつ、彼女ははっきりと告げた。
「僕は、あなたを殺さない。故郷へ帰って良いよ。」
その言葉は、裁きではなく、救いだった。
ゼイグはしばらく沈黙したまま、やがて深く頭を垂れる。
助かったという事実よりも、その判断を下した存在の在り方に、彼は胸を打たれていた。
命を見逃されたのではない。
信じられたのだ、と。
彼は顔を上げ、低く、しかし揺るぎない声で告げる。
「いや、故郷には帰らない。オレの名は、ゼイグ・バルグレイ…姫を守り忠誠を誓いましょう。」
その言葉は、揺らがなかった。
決意の声だった。
戦場を幾度も越えてきた戦士の声。
だが、その言葉を受けた当人は完全に固まっていた。
「えっ…えぇ…!?いや、良いよ…姫って僕、そんな格高くないし…」
サフィアは目を見開き、頬を朱に染めて首を横に振る。
突然の忠誠宣言。
しかも相手は、ついさっきまで戦っていた相手だ。
しかも、身長差は倍近い。
巨大なリザードマンが片膝をついて頭を下げている光景は、どう見ても異様だった。
姫などという呼び名は、自分には重すぎる。
サフィアの両手が慌てて宙を泳ぐ。
否定しようとしているのに、言葉が追いつかない。
恥ずかしさと戸惑いが、ありありと表情に浮かぶ。
頬は真っ赤になり、視線はあちこちへ泳いでいた。
だが、ゼイグは効く耳を持たなかった。
頭を下げたまま、微動だにしない。
その背中は、岩のように動かない。
それは頑固さではない。彼の決意だった。
武人として、生き残った者として、そして救われた者として。
彼は一度決めた忠義を、覆すつもりなどなかった。
命を2度も救われた。それは戦士にとって、何より重い恩義だ。
そして今、彼は知った。
自分が信じていた恩義が、偽りだったことを。
だからこそ。今度こそ、間違えない。
本当に命を救ってくれた者へ、忠義を誓う。
それが、ゼイグ・バルグレイという戦士の選んだ道だった。
新たな仲間の誕生。
その様子を眺めながら、クトゥルは表情を変えず、ただその場に立つ。
灰色の肌をした青年。
戦場の中でも、まるで別の空気を纏っているかのように静かだった。
腕を組むでもなく、武器を構えるでもない。
ただそこに立ち、すべてを見下ろすような視線を向けている。
その姿は、傍から見ればまるですべてを見通している存在のようだった。
邪神。
混沌を司る存在。
人の理など超越した、得体の知れない存在。
少なくとも、この場にいる者たちにはそう見えていた。
サフィア、ゼイグ、ティファー、クビナシ。
誰一人として、その沈黙の裏側を知る者はいない。
邪神としての威厳を崩さぬまま、内心では小さく安堵していた。
「(……よしっ。戦力、確保!)」
混沌の神を演じる青年の胸中で、人間らしい打算が、ひっそりと成功を告げていた。




