邪神の秘密と神獣㉟
緊張に張り詰めた空気の中で、ひとりの少女が前へ出た。
深海色の髪が、風に揺れる。
サフィアの瞳が、強く見開かれていた。
「僕……ようやく思い出したっ!」
張り詰めていた戦場に、その声が高く響く。
サフィアの目が見開くと一歩前に出る。
彼女の足が、岩盤の上を小さく踏みしめた。
つい先ほどまでの戦闘で荒くなっていた呼吸が、まだ完全には整っていない。
胸がわずかに上下し、濡れた髪が頬に張り付いている。
それでも、その表情は先ほどとはまるで違っていた。
恐怖ではない。
混乱でもない。
そこにあるのは――確信。
その声には、戦いの恐怖よりも、記憶が繋がった驚きの方が強く滲んでいた。
長い間引っかかっていた違和感。
見覚えのある姿。
それが今、頭の中で一本の線として結ばれたのだ。
サフィアは、まっすぐ前を見据える。
「あなた、どこかで見たことあると思ったら――」
言葉の途中で、彼女の視線が鋭く定まる。
狙いを定めるように。
彼女の視線が、まっすぐにゼイグを射抜く。
満身創痍のまま立つ巨体のリザードマン。
胸の傷を押さえながらも、主の前に立ち続けている男。
その背へ向けて、サフィアは確信を込めて言った。
「リュクサリア海域の、アイラル島にいたリザードマンだよね…?」
その名が告げられた瞬間、空気が、目に見えない刃のように張り詰めた。
風が止まる。
岩場に漂っていた空気が、ぴたりと静止したかのようだった。
誰も動かない。
誰も言葉を発しない。
ただ、その名前だけが戦場に残る。
アイラル島。
リュクサリアの外縁、海流の歪みが多く、沈没船と漂流者が絶えない海域。
複数のリザードマンたちが縄張りを争う島。
荒れた海流が漂流物を運び、壊れた船や流れ着いた人間が絶えない場所。
そして、その島は弱肉強食が、むき出しで支配する土地だった。
その名前を、サフィアははっきりと口にする。
迷いはない。
彼女の中では、もう確信に変わっていた。
サフィアは、さらに言葉を続ける。
「貴方は、背中を切り付けられて海に落とされた」
短い言葉だがゼイグの身体が、わずかに強張る。
ほんのわずかな変化だった。
だが、戦場にいる者には十分すぎるほど分かる。
筋肉が固まり、呼吸が止まり、巨体の背中が微かに揺れた。
眼帯の奥の視線が、初めて揺れた。
それまで沈黙を守っていたリザードマンが、ゆっくりと顔を向ける。
片目を覆う眼帯の影。
その奥で、見えないはずの視線が確かに動いた。
低く、抑えた声が落ちる。
「なぜ…それを知っている。」
サフィアは、ゼイグの困惑を真正面から受け止め、首をかしげる。
深海色の髪が、ふわりと揺れる。
その仕草はあまりにも無防備で、戦場に似つかわしくない。
つい先ほどまで命のやり取りをしていた場所とは思えないほど、その動きは自然で、素直だった。
まるで、海辺で誰かと話しているかのような仕草。
それが、かえって奇妙な違和感を生んでいた。
「……何でって」
サフィアは小さく呟く。
まるで、予想外の質問をされたかのように。
少しだけ考えるように、視線が横へ泳ぐ。
空を見上げ、それから岩盤の方へ落とし、記憶を辿るように一瞬だけ沈黙する。
そのあと、彼女は再びゼイグを見る。
そして、あまりにも自然な口調で続けた。
彼女は少し考えるように視線を泳がせ、それから当たり前のことを口にするように言った。
「だって。あの時、海に落ちた貴方を、僕が引き上げたんだけど…治癒魔法もかけて…?」
その言葉が落ちた瞬間、ゼイグの世界が、ぐらりと傾いた。
頭の中で、何かが軋む。
現実と記憶の歯車が、噛み合わない音を立てた。
理解できない。
意味が、繋がらない。
サフィアの言葉は、はっきり聞こえた。
聞き間違いではない。
だが、その内容が、どうしても自分の記憶と結びつかなかった。
ゼイグの呼吸が、一瞬止まる。
胸の傷口から血が滲み、指の間を伝って落ちる。
だが、それすら感じていないようだった。
脳裏に浮かぶのは過去の光景。
背中に走った衝撃と、暗転する視界。
刃。
視界の端で揺れる空。
重力に引かれるように、身体が後ろへ落ちていく、やがて海に落ちる。
荒れた海流の音。
冷たい水が、身体を包む。
視界は暗く、波の中で上下が分からなくなる。
沈む。
ただ、沈んでいく。
あのとき、確かに自分は沈んだ。
肺の空気が消え、意識が遠のき、世界が黒く閉じていく。
だがその先の記憶は、ない。
海の中で意識を失い、次に目を覚ました時には、もう地上にいた。
それが、彼の記憶の終点だった。
にもかかわらず、今目の前の少女は言った。
――自分が引き上げた、と。
思考が止まる。
ゼイグの身体が、わずかに揺れた。
信じられないものを見るように、彼の視線がサフィアへ固定される。
やがて、かすれた声が漏れた。
「……は……?」
喉から漏れた声は、掠れていた。
困惑しているのは、サフィアだけではない。
むしろ、彼女以上に、ゼイグ自身が混乱していた。
巨体のリザードマンは、その場に立ったまま動けずにいた。
胸の裂傷から血が滲み、押さえている指の隙間から滴り落ちる。
だが、今の彼はその痛みをほとんど感じていない。
視線はただ、目の前の少女に向けられていた。
深海色の髪。
真っ直ぐな瞳。
そして自分を助けたと言い切った少女。
頭の中で、何かが噛み合わない。
記憶と現実が、歪に衝突している。
そんな彼を見て、サフィアはさらに追い打ちをかけるように、ぽつりと続ける。
「それに……」
小さな声だった。
だが、この沈黙の中では、はっきりと響いた。
サフィアの表情が、ほんの少しだけ変わる。
ほんの少しだけ、眉をひそめる。
さっきまでの驚きとは違う。
今そこに浮かんでいるのは――純粋な疑問だった。
彼女はゼイグを見つめたまま、言葉を続ける。
「何で……切り付けて、海に突き落としたヤツに……付き従ってるの…?」
その問いは、あまりにも真っ直ぐだった。
遠回しでもない。
皮肉でもない。
ただただ、純粋な疑問そのもの。
――理解できない。
その言葉が、彼女の表情にありありと浮かんでいた。
責めているわけでもない。
怒っているわけでもない。
ただ、純粋に、意味が分からないのだ。
サフィアにとって、それは本当に理解不能だった。
助けた相手。助けた相手を海に突き落とした存在。
そんな2人が、今こうして目の前にいる。
だが、さらに奇妙なのは、その相手が落とした本人に忠誠を誓っていることだった。
彼女の中では、その構図がどうしても成立しない。
ゼイグの喉が、ひくりと鳴った。
彼の巨体が、わずかに揺れ、胸の奥で、何かが軋む。
思考がまとまらず、記憶が混乱している。
今、さらに別の疑問が叩き込まれた。
切り付けて、海に突き落とした。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
ゆっくりと、ゼイグの視線が動いた。
サフィアから、そして自分の背後にいる忠誠を誓った相手へ。
船長グラヴァ。自分が忠誠を誓う船長。
ゼイグの口から掠れた声が落ちる。
「……な……何、だと……?」
問い返す声は、明らかに動揺していた。
低く太い声が、今はわずかに震えている。
分厚い胸板の奥で、軋んだ。
長い間、揺らぐことのなかった信念の奥で、小さなひびが入ったかのようだった。
その瞬間、空気が弾けた。
「っ!?で、出鱈目に決まってんだろっ!?」
荒々しいグラヴァの怒声が叩きつけられた。
「ゼイグっ!そんな戯言に耳を貸すなっ!」
声が、裏返っている。
岩場に叩きつけられた怒声は、荒々しく響いた。
だが、その響きには、これまでの船長のそれとは違うものが混じっていた。
焦り。苛立ち。そして、わずかな恐れ。それらを隠しきれない声音。
グラヴァの胸が大きく上下する。
血を失った身体は、明らかに限界に近い。
それでも彼は、怒声を叩きつけた。
自分の船を支えてきた副船長へ向けて。
「船長命令だっ!!」
その言葉は、鋭く戦場を裂いた。
命令。
絶対の言葉。
それは、ゼイグにとって特別な意味を持つ。
それは、いつもの言葉だった。
いつもの――絶対の命令。
海賊船の中で、その言葉に逆らう者はいない。
船長の命令は、絶対。
それが海賊の掟であり、恩義があるゼイグにとっての法だった。
ゼイグは、これまで幾度となく、その一言に従ってきた。
荒れ狂う戦場でも、嵐の海でも、ただその言葉を聞けば、迷いなく剣を振るった。
疑問を挟まず、理由を問わず、剣を振るい続けてきた。
それが彼の役割だった。
それが、彼の忠誠だった。
しかし、彼の口は、開かなかった。
沈黙。ゼイグは微動だにしなかった。
巨体はまっすぐ前を向いたまま、わずかに呼吸を繰り返している。
胸の傷から血が滴り落ち、岩盤に赤い染みを作っていく。
だが、その視線は動かない。
どこか遠くを見ているようだった。
サフィアの言葉が、耳に残っている。
自分が引き上げた
グラヴァが切り付けて、海に突き落とした
その二つの言葉が、頭の中で何度も反響していた。
海の底へ沈んでいく記憶。
暗く閉じていく視界。
冷たい水。そして、˝助けられた˝という言葉。
それは、自分の記憶には存在しない。
だが。あの少女の目は、嘘をついているようには見えなかった。
相反する二つの記憶が、胸の奥で衝突する。
忠誠。
疑念。
信じてきたものと、今聞かされた事実。
それらが激しくぶつかり合い、ゼイグの胸の奥で、鈍い音を立てていた。
「おいっ。ゼイ――」
「……どういう、事だ……」
船長であるグラヴァの声を遮るようにゼイグの低い声が重く響く。
問いはサフィアに向けられていたが、その実、彼自身の胸に突き刺さる問いでもあった。
「説明しろ」
嘘偽りは許さないと言ったゼイグの視線。サフィアは、少しだけ視線を伏せる。
困ったように、けれど逃げずに――ゆっくりと口を開いた。
「……うん。じゃあ、話すね」
その瞬間、潮の匂いを含んだ風が吹き抜け、世界は――過去へと沈んでいった。
―――
リュクサリア海域。
アイラル島の沖合は、その日、静かな夜の光に満ちていた。
月明かりは水面で砕け、浅瀬の海を銀色の宝石のように煌めかせている。
無数の星が空に散らばり、その光がゆらめく海面に映り込んでいた。
色とりどりの魚たちが群れをなし、星の反射に紛れながら、戯れるようにサフィアの周囲を泳いでいる。
「うーん♪ 今日もいっぱい遊んだぁ~」
サフィアは満足そうに伸びをすると、尾をくるりと返し、
背泳ぎのまま空を見上げた。
夜の空は深く澄み、丸い月が静かに海を照らしている。
その周囲には無数の星々。
波がゆっくりと揺れるたび、月の光が砕け、海面に細かな銀のきらめきが広がった。
波音は子守歌のように優しい。
――だが。
「……ん?」
ふと、視界の端に違和感が映った。
サフィアは首を傾け、島の崖の方を見る。
そこに、一人の影が立っていた。
黒緑色の鱗に覆われた、巨躯。
静かに佇むリザードマン――ゼイグ・バルグレイ。
「リザードマン…?…あぁ…」
サフィアは思い出す。
「そういえば……この島って、リザードマンたちが縄張り争いしてるんだっけ……」
彼は、崖の縁に立ち、海を見下ろしていた。
剣を持つ手は緩んでいる。
だが、その背中は、どこか張り詰めているように見えた。
――その時。
ゼイグの背後に、影がぬっと現れた。
それは、あまりにも唐突で、あまりにも自然で――
まるで最初から、そこに在ったかのように。
暗紅色の鱗に刻まれた無数の戦傷。
グラヴァ・ドレイク。
言葉は、なかった。
次の瞬間、鈍い音と共に、鉄のフックが閃いた。
「――っ!」
ゼイグの背中を、容赦なく切り裂く。
鮮血が宙を舞い、彼の身体が大きく前へと傾いた。
悲鳴すら、許されなかった。
そのまま、巨体は崖から弾き出され、海へと突き落とされた。
水柱が上がり、深い青が閉じる。
「っ……!」
サフィアは、反射的に身を翻した。
海中へ潜る。
沈んでいく影を追う。
泡の中で、ゼイグは意識を失いかけていた。
血が、水に溶けていく。
サフィアは彼の腕を掴み、必死に引き上げる。
「だ、大丈夫……っ?」
水流が集まり、彼女の周囲で渦を巻く。
水属性魔法が、淡い光を帯びてゼイグの傷口を包み込んだ。
裂けた鱗。
深い斬撃。
それらが、ゆっくりと塞がれていく。
命の鼓動が、戻る。
サフィアは、彼を浅瀬まで運ぶと、そっと身体を支えた。
心臓マッサージをすると、ゼイグは水を吐き息を吹き返した。
「ふぅ……よかった」
小さく、安堵の息。
だが、彼女はそれ以上、何もしなかった。
目覚めぬ彼を岩陰に横たえ、最後に一度だけ、その顔を確かめる。
「気をつけて、ね」
それだけを残し、サフィアは再び海へと戻っていった。
彼女にとって、それは助けるべき誰かを助けただけの出来事だった。
―――
回想の夜から、現実の昼へと変わる。
ゼイグは、言葉を失っていた。
胸の奥で、何かが――確かに、繋がった。
忘れていたのではない。
知らされていなかったのだ。
そして。彼の視線の先には――何も言わず、歯を食いしばるグラヴァの姿があった。
「グラヴァ様…いや――」
ゼイグの声は、低く、掠れていた。
その一言だけで、胸の奥に積もっていたものが、ゆっくりと崩れ始めているのが分かる。
彼は、眼帯の奥が疼くのを感じながら、グラヴァへと視線を向けた。
あの巨体。
あの威圧。
これまで何度も背を預けてきた存在。
「……オレが、目を覚ました時に……アナタがいた。」
言葉を選ぶように、ゼイグは一度、息を吐いた。
「それは…オレ…助けるためじゃ、なかった………止めを、刺すため……だった」
その瞬間、空気が凍りついた。
グラヴァの暗紅色の鱗が、ぎらりと光を反射する。
だが、彼は否定しなかった。
――ゼイグは、知らなかったのだ。
あの日。海から引き上げられ、朦朧とする意識の中で見たグラヴァの姿。
グラヴァは言った。
海に落ちたゼイグを、偶然通りかかった自分が救ったのだと。
それは、あまりにも自然な嘘だった。
豪胆で、荒々しく、だが筋の通った男――
そう信じたくなるだけの説得力を、グラヴァは持っていた。
だから、ゼイグは騙された。
命を救われたと、思い込んだ。
ゼイグに恩義が生まれた。
命令されれば従う。
疑問があっても、飲み込む。
己の誇りを、削ってでも。
嫌いだった。
無抵抗な者から奪うこと。
一方的に命を奪うこと。
だが、それでも剣を振るった。
グラヴァのためだった。
彼の言葉を信じ、雷を纏わせた体で、大剣を握り、道を切り開いた。
やがて、グラヴァは人の海賊船を襲い、その衣服を、旗を、船を――奪った。
人の真似事ではない。
支配のための模倣だ。
こうして生まれたのが、リザード海賊団。
リュクサリア近海の海は、次第に血の色を帯びていった。
略奪。
虐殺。
恐怖による支配。
それらすべての最前線に、ゼイグは立ち続けていた。
――船長グラヴァを守るためだと、信じて。
だが今。その根幹が、音を立てて崩れ落ちる。
グラヴァは、唇の端を歪めた。
怒りでも、狼狽でもない。
そこにあったのは――苛立ちだ。
計算が狂った獣の、目。
「……チッ」
低く舌打ちする音が、答えだった。
否定しない。
弁明もしない。
それが、真実だった。




