邪神の秘密と神獣㉞
激突音が、重く響いた。
砕けた岩の破片が跳ね、乾いた砂が舞い上がる。
巨体が地面に叩きつけられた音は、まるで落石のように鈍く、低く、戦場の空気を震わせた。
朝から昼へと移ろう光の中、その音だけが不自然に大きく響き渡る。
「……ゼイグ?」
低く漏れた声。
グラヴァの黄金の瞳が、ゆっくりとそちらを向いた。
グラヴァの前で、ゼイグは地面に叩きつけられ、転がる。
勢いを失った身体は、やがて重く沈み込み、
主の足元に、血と衝撃の跡を残して停止した。
その溝の先で、ゼイグの身体が動かないまま横たわっている。
そしてガラン、と。大剣が、遅れて転がり、鈍い音を立てる。
巨大な刃が地面を跳ね、回転しながら岩盤の上を転がった。
重い鉄塊のようなその武器は、やがて勢いを失い、ゼイグの身体の近くで止まる。
グラヴァは無言で、倒れたグラヴァを見下ろした。
長い影が、ゼイグの身体へ落ちる。
グラヴァの瞳は、ゆっくりとその身体を観察した。
胸に刻まれた深い斬撃。
血が胸元から流れ出し、岩の上へと染みを広げている。
ゼイグの得意とする雷を纏う魔法は消えていた。
それだけで、グラヴァは何が起きたかは理解できた。
戦場で長く生きてきた者には、説明など必要ない。
敗北。
それだけだった。
グラヴァの喉奥で、低い呼吸音が鳴る。
だが、その表情は変わらない。
代わりに、彼の身体の別の場所から、ゆっくりと血が流れ続けていた。
グラヴァは、残った左手で右の手首を押さえつけていた。
――いや、正確には「押さえようとしている」だけだ。
左手の大きな指が、空を掴むように力を込めている。
そこにあるはずのものを、必死に押さえ込もうとするように。
だがそこには、もはや手首は存在しない。
右腕は途中から、綺麗に断たれていた。
鱗に覆われた腕は肘から先がなく、切断面だけが露わになってそこから、赤黒い血が止めどなく溢れ、岩盤を濡らしていく。
「く、くそが……」
低く、獣のような唸り声が漏れた。
豪胆を誇った海賊の声は、苛立ちと焦燥に塗れている。
グラヴァの肩が、わずかに上下していた。
荒い呼吸。
黄金の瞳がぎらつき、顎の奥で歯が軋む。
かつて数多の船を沈め、恐怖で海を支配した男の姿は、そこにあった。
だが、その威勢はもう完全ではない。
切り札だったグールはすでに骸と化し、ゼイグは敗北、
炎を宿すはずだったフックは失われ、その身体には幾つもの傷が刻まれていた。
胸元には深い斬撃。肩には裂けた鱗。脚には抉られた傷。
そして何より右腕が、ない。
切断された手首の先から、
赤黒い血がまだ流れ続けていた。
左手で押さえつけているが、止まる気配はない。
視線を巡らせれば、現実が否応なく突き付けられる。
――クトゥル=ノワール・ル=ファルザス。
その姿を目にして、グラヴァの瞳に動揺の色が濃くなる。
灰色の肌をした青年は、奇妙な静けさを纏ったまま立っている。
風がその髪をわずかに揺らす。
動きはない。
武器を振るっているわけでも、
魔法を放っているわけでもない。
ただ、そこに立っているだけだが、その姿は異様だった。
体格は決して大きくない。
むしろ戦場に立つ戦士としては、頼りなく見えるほど細身の身体。
脆弱に見えながらも、異様な威圧だけが消えていない。
グラヴァは再びゆっくりと視線を巡らせる。
自分を取り囲む者たちを、一人ずつ確かめるように。
まず視界に入ったのはクビナシ・サディズム。
彼女は、血を吸って脈打つ魔剣を肩に預け、蒼い瞳で愉悦と失望の境界を覗くように、こちらを見下ろしていた。
その姿勢は、あまりにも気楽だった。
片肩に預けられた魔剣は、まるで生き物のようにゆっくりと脈動している。
刃の表面に浮かぶ赤黒い筋が、心臓の鼓動のように脈打っていた。
つい先ほど吸った血をまだ啜っているかのように、刃が鈍く光る。
次に、視線が動く。
この場で唯一の人であるティファー・エーデルシュタインは、白銀の鎧に傷一つなく、合理主義者らしい冷えた視線で戦況を確認している。
岩場の上に立つその姿は、あまりにも整然としていた。
白銀の鎧は、朝の光を受けて淡く輝いている。
戦闘の激しさとは対照的に、その装甲には目立った傷が見当たらない。
剣を握る手にも、力みはない。
ただ静かに、状況を見ている。
敵の残存戦力。
味方の消耗。
戦闘の終結までの手順。
それらを、冷静に計算しているかのような視線。
そこには感情的な高揚も、
勝利への喜びも存在しない。
ただ――合理。
必要な戦いを終え、次の行動を考えるだけの視線だった。
そして、最後にグラヴァの目が止まる。
サフィアだけは、息を荒くし、濡れた髪を揺らしながらも、
それでも確かに立っていた。
胸が大きく上下している。
呼吸はまだ整っていない。
戦いの余韻が、はっきりと身体に残っている。
濡れた髪が頬に張り付き、額には汗が滲んでいた。
ついさっきまで死線を越えていたことが、その姿だけで分かる。
それでも、膝は折れていない。
武器を落としてもいない。
彼女は、まだ戦場に立っている。
瞳は、怯えを含みながらも折れておらず、退かないと言う意思を感じさせる。
グラヴァの胸の奥で、何かが軋む。
そして、ようやく理解する。
圧倒的だった力関係は、完全に逆転していた。
倒れたままだった巨体が、わずかに動く。
「うっ…オレは…」
掠れた声が、喉の奥から絞り出された。
やがて、気絶していたゼイグは身じろぎすると、ゆっくりと状態を起こす。
重い身体が、岩盤の上で軋んだ。
彼は片膝をつきながら身体を起こすと、ゆっくりと上体を支え直す。
だがその動作は、あまりにも鈍かった。
胸部の裂傷を押さえ、荒い呼吸を繰り返していた。
大きく上下する胸。
裂けた鱗の隙間から、深い斬撃の傷口が見える。
そこを押さえる指は、すぐに赤く染まっていく。
指の隙間から血が漏れ出る。
ぽたり、と血が落ちる。
岩盤の上に赤い染みが広がり、
乾き始めた血の上に、新しい血が重なっていく。
ゼイグの呼吸は荒い。
肺の奥から、ひどく重い空気を吐き出すような呼吸だった。
「……ちっ」
低く、苛立ちを含んだ音が漏れた。
グラヴァは舌打ちし、血の滴る岩盤を踏みしめる。
その巨体がわずかに動く。
足元には、自分の血が流れていた。
切断された右腕の傷口から、まだ止めどなく血が溢れている。
だが、グラヴァはそれを気にする様子もない。
黄金の瞳が、ただ一人の男を見据えていた。
ゼイグ・バルグレイ。
長く副船長として船を支えてきた戦士。
その名を、グラヴァは低く呼ぶ。
「ゼイグ……」
短い呼びかけ。
だが、その声には奇妙な重さがあった。
海賊団の船長としての威厳。
だが同時に、追い詰められた男の本音も滲んでいる。
そして、続く言葉。
「……死んでも、俺を逃がせ……」
低く、はっきりと。それは、船長としての最期の命令だった。
ゼイグは一瞬、目を伏せる。
その表情に迷いはない。
ただ、わずかな沈黙だけがあった。
それは、躊躇ではない。
覚悟を確認するための、ほんの一瞬の静止。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「…分かりました……」
低く、しかし確かな返答。
その声は弱っていた。
だが、決して揺らいではいない。
ゼイグはゆっくりと身体を動かす。
彼は胸を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
片膝をつき、足に力を込め、重い身体を持ち上げる。
関節が軋み、血が滴るが、それでも立つ。
雷はすでに宿らず、身体は満身創痍。
先ほどまで彼を包んでいた紫白の雷光は、もうどこにもない。
ただ傷だらけの肉体だけが残っている。
それでも、彼の姿勢は崩れなかった。
戦士としての背筋だけは、最後まで崩れなかった。
肩を落とすこともなく、膝を折ることもない。
まっすぐに、前を向いている。
――自分を犠牲にしても、恩人を生かす。
それが、彼のゼイグ・バルグレイという戦士の選んだ答えだった。
――その時だった。
「あぁっ!?」
唐突に、岩場に高い声が響いた。
静まり返っていた空気が、まるで弾かれたように揺れる。
空気が跳ねる。
全員の視線が、反射的にその声の主へと向けられた。
岩場の上で、ひときわ小さな影。
サフィアだった。
深海色の髪を揺らし、両手で貝殻を抱えたまま、目を見開いている。
呼吸はまだ荒い。
胸が上下し、濡れた髪が頬に張り付いていた。
だが今、その瞳には先ほどまでの緊張とは違う光が宿っている。
驚き。そして閃き。
まるで、今この瞬間に何かが繋がったかのような顔だった。
戦場の空気が、一瞬止まる。
その変化を、最初に感じ取ったのは灰色の青年だった。
クトゥルは一瞬、内心で肩を跳ねさせる。
「(な、なんだ!?急に声を上げたらびっくりするだろっ!?)」
内心では、かなり驚いていた。
ついさっきまで、命を賭けた覚悟や忠誠の話が続いていた流れだ。
ゼイグの決意。
グラヴァの命令。
あまりにも重い空気。
そこに突然の「あぁっ!?」である。
しかも、妙に明るい。
完全に空気をぶち壊している。
クトゥルの頭の中では、思わず突っ込みが飛んでいた。
だが邪神は動じない。
――動じていないように見せることには、すっかり慣れていた。
表情は微動だにしない。
灰色の肌に浮かぶ顔は、いつもの無表情のまま。
目も、口元も、ほんのわずかも動かない。
周囲から見れば、今の出来事すら計算していたかのような沈黙。
まるですべてを見通している存在。
そんな雰囲気すら漂わせている。
実際の内心とは、かなり違った。
クトゥルはゆっくりと視線を動かす。
その瞳が、サフィアを捉えた。
彼は何も言わず、ただ静かにサフィアを見つめる。
黒い瞳は揺れない。
言葉もない。
だが、その視線には一つの意味があった。
その視線は、「続けよ」と無言で促すものだった。




