悪夢は落ちる01
ヴェロニカの上に覆いかぶさるクロード所長は、酷く荒い呼吸をして顔に脂汗を浮かべていた。
白衣の背中にじわりと赤いしみが浮かび、広がっている。蔦を打ち付けられて、皮膚が裂けたのだ。呼吸の仕方もおかしく、肺や気管も傷ついたことも見て取れる。
ニールが彼の傷を癒すべく蔦の壁に手をかけた。が、彼が駆けつける前に、倒れるクロードの両足が急にぺしゃりと潰れた。
血は出ていない。ありえない光景に、「え?」と一同の目が丸くなる。
ヴェロニカが慌ててその体の下から抜け出すと、今度は両手が崩れるように潰れ、白衣の袖から見覚えのある植物が落下した。
甘くどろりとした香りがあたりに漂う。表情を強張らせたヴェロニカが婚約者の腕を取るが、白衣の袖の中には絡まる蔦が入っているのみだった。
クロード所長の体はリリアンの夢の植物へと変化している。それを理解して、一同は動きを停止した。
「そんな……」
「もしかして、リリアン女史の魔法のせい……?」
クロード所長は長い間あの魔法の支配下にあった。
その影響が大きな傷を負った今、出てしまったのだろうか?
絶望が場の空気を支配する中、元凶と思われる女性はただ首を傾げるだけだった。
クロードの様子をじっと眺めていたリリアンの、小さな「あーあ」と言う声があたりに響く。
「馬鹿みたい。その人、もういらない。私を助けてくれる味方たちは、また現れるんだから!」
甲高い声で叫んでリリアンは、にわかに腕を振った。
ヒオリが慌てて振り向くと、彼女は幾重にも絡まった蔦で天井を持ち上げようとしていた。
何を、と思った瞬間、電灯のついていない研究室の天井がみしりと嫌な音を立て、壁にヒビが入る。
「ヒオリ殿!危ない!」
「……っ」
危機感が芽生えたと同時に、天井が崩れ落ちた。崩壊音とともに、暗い部屋の中を急速に太陽の光が侵略する。
リリアンは顏に朗らかな笑みを浮かべて、その光を見上げていた。
大きながれきがこちらにまで降り注ぎ動けぬヒオリとニールの前で、リリアンはひと際大きな蔦に乗るとヴィクトルを連れて、ぽかりと開いた穴から屋根へと出て行ってしまった。
壁を覆っていた植物も彼女らを追って穴から這い出ていく。
崩壊した部屋の中、ヒオリはすぐに見えなくなった彼女を怒鳴りつけた。
「何処へ行くつもりですか!?いけない。追わないと……!」
「いえ、その前にクロード所長を!」
振り返ったニールは再び倒れる所長を救助すべく、ヴェロニカたちの元へ駆け寄ろうとした。
しかし赤毛の研究者は彼の方へ顔を向けると、「駄目よ」と静止の声をかける。
「ヒオリさん、ニールさん、先に行って。リリアンさんを放っておいたら危険だわ」
「しかし、」
ニールが言い募ろうとするが、ヴェロニカはゆっくりと首を横に振る。
状況にそぐわぬほど穏やかな表情をしながら、彼女は微かで柔らかい声を出した。
「いいの。見てわかるでしょう」
その瞬間、ぼろりとクロードの腰から下が崩れ落ち、植物と化した。
小さくなっていく所長の姿を見て、ヒオリは「ああ」と息を漏らす。ニールもまた顔を強張らせ、力なく呼吸する彼を凝視している。
彼の体は既に頭と上半身しか残っていない。かろうじて人間に見える部分も、どんどん植物へと変化していっている。
もはや手の施しようがないことは、見て明らかだった。生きて、呼吸が出来ていることすら不思議な状態だ。
僅かな間のあと、先に決心がついたのはニールだった。
こくりとしっかり頷き、ヒオリの元へと戻ってくる。
「……わかりました。ヴェロニカ殿もお気をつけて」
「ニール」
「行きましょう、ヒオリ殿」
ニールはヒオリの元へ戻り、「魔法で外に出ます」と手を差し出した。
「抱き上げますので、捕まっていてください。早く事態を収拾しないと」
「……わかったわ」
後ろ髪を引かれたが、自分たちがやるべきことを優先しなければならない。
頷いたヒオリを「失礼します」と許可を得て抱き上げ、ニールは飛行魔法を発動させる。
ふわりと重力の手を離れる浮遊感。昨晩の夢とおなじように高速で天井に開いた穴をくぐる刹那、ヒオリは一度だけ肩越しに振り返った。
ヴェロニカはクロードの顔をじっと見つめている。
赤毛の研究者とその婚約者の表情は、ここからは見えなかった。
「ヒオリ殿、いました。屋根の上です」
「……!」
ニールの声に促され、ヒオリは視線を前へ転じる。
彼が睨みつけていたのは、ちょうど六角形になっている所長室の屋根であった。
リリアンは数多の植物を屋根や壁に絡みつかせ、その上に腰掛けている。
まるで大樹に住み着いた森の妖精と言った様子であった。しかし彼女の内面、そして心に欠けた罪悪感と、今までの所業を知っているヒオリには、妖精の皮を被った悪鬼にしか見えない。
「あら、ニールさん。来てくれたの?」
ニールが警戒しながら彼女の周りを飛行すると、ぱっと顔を輝かせてリリアンが二人を振り返った。




