青い瞳の記憶01
どちゃり、と人形が落下してくる三度目の音を聞き、考える前に彼の元へと一心不乱に走り出す。
芽生えた危機感は、もはや取り繕う余裕をも与えてくれなかった。
ただ必死で劇場を駆け抜け、ニールに届く位置までくると思い切り腕を伸ばす。
青い瞳を細めた男は己の手を掴むと強く引き、自らの胸で抱きとめる。
耳元で安堵の吐息の後、小さく「良かった」と聞こえた。
安心するような体温。彼の心臓が早く打ち付けられていることがわかった。同時に深く落ち着いたマリンノートの香りが鼻孔に届く。
彼の胸に顔を埋めて香りを吸い込み、ヒオリはようやくあの吐き気を催すにおいの植物を忘れられた。
「ニールさん!どうして!どうしてその女を助けるの!!わたしの方が正しいでしょう!?」
背後でリリアン女史が上げた金切り声に、はっと体を強張らせる。
彼女を肩越しに確認すべく振り返ろうとした、その前にニールは眉をつり上げて「行きましょう」と耳元で囁いた。
「待って、ニールさん!ヴェロニカ女史は!?」
「既に姿を消しました。逃げたのか、それとも目覚めたのか」
言ってニールはヒオリの手を取ったまま、甘ったるい香りで満たされた劇場を抜け出した。
改めて肩越しに振り返ると、温室の時のように植物の蔦がうねうねとこちらへ向かって伸びてきている。
いや、温室の時よりも蔦は太く、葉は巨大になっているようにも見える。
それが何を意味するのかわからずとも恐ろしく、ヒオリは顔を歪めながら視線を逸らした。
狭い劇場の中から、いまだにリリアンが癇癪をおこす声は響いてくる。
それが耳障りだったのかちっと下品に舌打ったニールが、鋭い眼差しで小さく唇を動かした。
「【πτέρυξ(プテリュクス)】!」
ぽつりと彼が呟いた言葉の意味をヒオリが理解する前に、体を浮遊感が支配する。
何だ?と思った瞬間、足が廊下から浮き、二人は空を高速で移動していた。
まるでニールに羽根が生えているかのようである。
呆然としているうちにリリアンの声は背後に遠くなり、青年は扉の開いていた部屋の一つへともぐりこんだ。
そこはヒオリが先ほどヴェロニカと邂逅した部屋である。
子供用の机が中央に置いてあり、壁に貼られているのは恐らく桃色の壁紙で、窓には薄いレースのカーテン。
あの時は冷静ではなかったのでよくよく観察してみると、どうやらここは小さな教室のようだった。
机が向いている方向には黒板があり、教壇が置いてある。
ただ、普通の教室ではないようだ。机は一つしかないし、勉学を励む場所としては内装が愛らしすぎる。
しかし愛らしくとも静かすぎれば不気味なだけだ。
考えているうちに、体はゆっくりと地面に下ろされる。とりあえずは逃げ切ったらしいと、安堵感が全身を包んだ。
「ヒオリ殿……」
にわかに名前を呼ばれ、ヒオリは繋がれたままの手の先にいる男を振り返る。
先ほどまであれほど鬼気迫る表情で己の手を引いていたニールは、妙に頼りなさそうな顔をしていた。
眉をたれ下げてきゅっと唇を引き結んだ彼は、まるで帰り道のわからない迷子のようだ。
おずおずとニールは視線を逸らし、繋いだままの手を放そうとした。が、ヒオリはそれを許さず、ぎゅっと握って引き留める。
ぴくり、と怯えたように彼の体が僅かに動いた。
「ニールさん……貴方は、魔術師なのね」
呟いたつもりの問いかけは、思いのほか暗い部屋に反響した。
ぴたりと動きを止めたニールはしばらく黙り込んだ後、やがて「はい」と小さく頷く。
「さっき使った『力の言葉』は炎の魔法?それから飛行魔法なの?」
「……はい。その通りです。実はあれはごく簡単な魔法なんですよ。まあ、私はそれほど得意ではないんですが」
自慢にも聞こえるその言葉を発した彼の唇にはしかし、皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。
こんな力を持つ自分が気に入らない、そう言っているかのように見え、僅かに目を細めながら問い続ける。
「私に香水を渡したのは、このためなの?あれが私を見つけるための目印になったの?」
「……いいえ。貴女に香水を渡したのは、夢を見させないためです。あれは深い睡眠に入りやすい魔法がかかっていて、予防になると思ったのですが」
静かに首を横に振るニールに、ヒオリはため息をつく。
床に就いたときこの夢に入らなかったのは香水のせいだったのかと納得していると、ニールはぽつりぽつりと語った。
「気づいておられましたか?貴女はこの夢とリンクしている。恐らく、ヴェロニカ殿も」
「まだ確信は持てないけど、恐らく植物の根のせいだと思うの。温室の植物の根を体内に吸収すると、この夢に共感してしまう可能性があるわ」
己の見解を話すとニールはなるほどと頷いてうつむく。
彼の長いまつげを見つめながら、ヒオリは一拍置いて訊ねた。
「新しく配属されてきた魔法博士っていうのは嘘だったの?何が目的でこの研究所に……?」
「魔法博士の資格は持っていますよ。配属も嘘じゃない。ですが……」
そこで一旦ニールは言葉を切って、真っ直ぐにヒオリを見た。
「私は魔法協会ディアトン国支部所属の魔術師なのです。上に命じられ、このディアトン国立魔法研究所で行われている不正について調査しに来ました」
曇りない深い青の瞳を、ヒオリはしばしじっと見つめた。




