人形劇は夜にうごめく08
映像が終わりシアタールームの照明に明かりが灯る様子を、ヒオリは席に座ったまま呆然と見ていた。
いつの間にか喉も口の中もからからだった。唾液を飲み込みたかったが、ほんの少しの水分すら滲み出てくることもない。
せめて落ち着くべく、早鐘を打つように高鳴っていた心臓を荒い呼吸で整え、ヒオリは呻く。
「これは、本当のことなんですか?」
「昨日までの映像はエレメンタリースクールの彼女でしたわ。私が調べた彼女の学生時代と大まかには一致していましてよ」
もちろん主観で固められ、かなり歪んだものでしたがと言うヴェロニカに、思わず頭を抱えたくなった。
ここがリリアン女史の作り出した世界だと言うならば、恐らく先ほどの演劇は真実なのだろう。
だとしたらヴィクトル前所長はリリアンと初めから繋がりがあったのだ。
しかも少女だった彼女を口車に乗せ、恐らく同意も取らずに手術を施行している。
「ヴィクトル前所長は、リリアン女史に何をしたんでしょう?」
「彼の専門は脳医学。それに劇に出て来た脳科学研究所という場所から察するに、彼女は恐らく脳をいじられたのではなくて?」
口元に手を当てて考えながら、何のこともないような冷静な口調でヴェロニカは言う。
顔を歪めて彼女に視線を転じたヒオリは、唸る獣のような声で訊ねた。
「リリアン女史は自分が何をされたかわかっていないでしょう。彼女の心の隙をつきその脳をいじるなど、鬼畜の所業なのでは?」
「それでも望んだのは彼女だわ。もちろん14歳という不安定な時期の少女をたぶらかしたのは事実だけど」
「……家族はこのことを許したのでしょうか?」
ヒオリが尋ねるとヴェロニカはしばらく目を細めて何事かを思考している様子だった。
やがて彼女の艶めいた唇が「だから引っ越したのかもね」と動くのを見て、さらに頭が痛くなる。
(家族から見捨てられたのかもしれないと言うことなの……?)
14にもなって誰かを陥れ、自分を悲劇のヒロインに見せるリリアン女史に、家族は疲れていたのかもしれない。
引っ越しに置いて行かれたか、もしかしたらヴィクトル前所長に売られたのか。
あまり考えたくなくて首を横に振ると、隣に座っていたヴェロニカがにわかに立ち上がる。
「そんなことは大きな問題ではないわ。この劇で大事なのはお義父様が魔術師を作り出したと言っていることよ」
「……それが、何です?」
「調べる価値はあると思わない?彼がどんな発見をし、どんな魔法をリリアンさんにかけたのか」
言いながら彼女は振り返り、唇に薄っすらと笑みを浮かべ目を細めた。
炎のように鮮やかな赤毛ときらめく金色の眼が相まって、その立ち姿は優雅で美しい。場所が場所なだけに、歌劇に登場するプリマドンナのようにも見える。
だがその麗しさの下に、何か燃えるような激しい感情が隠れているような気がヒオリにはした。
いつまでも子供のような願望を持っているリリアン女史、そんな彼女を騙し脳をいじったヴィクトル。
もちろん彼らはおぞましいが、ヴェロニカはそれ以外の何かを二人に感じている。
いったい彼女は何を思ってここで行動しているのだろう?それが理解できなかった。
視線は鋭いままに口を閉ざす己をどう思ったか、ヴェロニカは笑みを深めると出口に向かって歩き出す。
かつりかつりと響くヒールの音の合間に「どちらへ?」と訊ねると、彼女は振り返らずに告げる。
「もう少しここを調べようと思いますの。もっと興味深いものが見つかるかもしれませんわ」
「恐ろしいもの、の間違いでは?」
「あら、そうかも」
くすくす、と笑い声を薄暗い劇場に溶かしながら出入り口に歩み寄ったヴェロニカは、引き手に手をかけた。
刹那───鼻孔をあの甘い香りがくすぐった。
「見つけたわ」
一瞬遅れて聞こえてきた声に、ヒオリはぎょっと上を振り仰ぐ。
先ほどまでただの暗がりだった天井は、いつの間にかびっしりとあの植物の蔦で埋め尽くされていた。
青々とした葉と実に埋もれるように、プラチナ色の髪の毛とぎらりと光る緑の目が見える。
背筋が凍ったと同時に、ヒオリは出入り口に向かって駆け出す。
見れば目を見開いたヴェロニカが、引き手に手をかけたまま立ち止まっているのが見えた。
「ヴェロニカ女史、逃げ、……っ!!」
言い終わる前に、ヒオリの鼻先をかすり何かが落下してきた。
どちゃり!と粘性の液体にまみれた何かが激突する音と、むせ返るほどの甘い香り。
あの人形だと見なくてもわかった。
下を見ずに後ろに跳ね飛べば、体勢を崩してぐらりと軸がぶれて足がもつれる。
転ぶ───!そう思って体を固くした瞬間だった。
「ヒオリ殿!避けてください!」
清廉な声が、吐き出さんばかりに甘い香りの中を貫いた。
ぐるりと回転する視界の中、ニール、とヒオリは無意識にその名の形に唇を動かす。
体勢を立て直せなかった体は倒れ、強か床に打ち付ける。同時に、再び近くで何かがどちゃりと落ちる音を聞いた。
視界の端で粘液にまみれながら立ち上がる魔法人形の姿を見た。腕を伸ばせば触れられる距離である。
はっと体を強張らせる己の耳に、切りつけるような男の声が届いた。
「【φλόγα】!!」
刹那目の前を通り過ぎたのは、灼熱の突風。
それが横向きに発射された炎の柱だと気付くのに時間はかからない。
呆然と見守る中、炎の柱は渦となり、こちらにやって来ようとしていた人形を巻き込んだ。
粘液もろとも燃やし尽くされる姿にはっと我に返ると、ヒオリは慌てて立ち上がって出口に向かい駆け出す。
「ヒオリ殿!こちらへ!」
「ニールさん!!」
開け放たれていた扉の前には、上等なスーツをまとった美貌の青年……ニールが必死な顔でこちらに手を伸ばして立っていた。




