第2話:炎上する聖女様
灰燼街の夜は早い。
竈の煙と湿った魔力が混ざり合う裏通りでは、日が落ちる頃には店じまいを始める店も多い。
そんな街の片隅にある俺の事務所では、昼間に売った魔導書の代金で買った安酒を片手に、俺がソファへだらしなく転がっていた。
今日はもう仕事もない。
窓の外から聞こえてくる酔っ払いの声をぼんやり聞きながら、もう一杯飲もうとしたところで、控えめなノックが響いた。
「入れ。鍵はかかってない」
返事をすると、扉がゆっくり開く。
入ってきたのは、フード付きの厚手のローブに身を包んだ女だった。
顔はほとんど隠れているが、裾から覗く白銀の聖衣と、フードの隙間からこぼれた金髪を見れば、どこの人間かくらいは想像がつく。
「……オルダス先生ですね」
「先生はやめろ」
俺がそう言うと、女は少しだけ戸惑ったようにこちらを見た。
「噂は伺っております。どんな呪いも『運用』で解決なさるとか」
「だいぶ歪んで伝わってるな」
俺はソファから起き上がり、酒瓶をテーブルの端へ寄せた。
「で、聖女様が何の用だ。教会なら奇跡でなんだって治せるだろ」
その言葉を聞いて、女の肩がわずかに落ちた。
「治せないのです……」
「ほう」
「これは神の加護ではなく、我が家に伝わる呪いなのです。どうか、私をお救いください」
そこでようやく、女はフードを外した。
金髪が肩へ流れ、整った顔立ちが現れる。
なるほど、確かに聖女らしい。
ただし、その頭上に浮かんでいるものを見れば、そんな感想もすぐに吹き飛ぶ。
『我、汝の信仰を試さん! 清く正しく生きよ!』
「……なんだ、そのネオン看板」
「一週間前、十八歳の成人を迎えた途端に発現したのです」
聖女は困り果てたように頭上を見上げた。
本人からは見えないはずだが、炎の明かりだけは顔にも映っている。
「感情が高ぶると、頭上に文字が浮かびます。自分の意思とは関係なく、その時に考えていることが文字になるのです」
「それは面倒だな」
「一昨日のミサでも、説教中に緊張してしまって……」
聖女は一度言葉を止めた。
「『今日の夕飯は肉が良い』と」
俺は酒を口に運びかけたところで止めた。
「……」
「教会から『不敬である』と謹慎を言い渡されました」
「それはまあ……肉くらい食わせてやればいいのにな」
「そういう問題ではありません!」
聖女の声が事務所に響いた。
その途端、頭上の炎が勢いよく揺れ、文字まで大きくなる。
『世界が泣いた! 大司教のクソババアの嫌味にも耐えてきたのに!』
俺は煙草を取り出しながら、その文章を眺めた。
「……素直でよろしい」
「見ないでくださいぃぃ!」
聖女は慌てて頭を抱えたが、もちろん両手で隠せるような大きさではない。
むしろ焦ったせいで、炎の文字がさらに激しく明滅している。
俺は煙草に火をつけた。
煙の向こうで揺れる文字を眺めているうちに、術式の構造がだんだん見えてくる。
感情の変化を魔力が拾い、それを文字列へ変換して頭上に投影する。
術式そのものは珍しくない。
厄介なのは、その核が本人の血筋に組み込まれていることだった。
後から誰かにかけられた呪いなら、切り離す方法もある。
だが、これは生まれつき本人の魔力に繋がっている。
「完全に消すのは無理だな」
聖女の顔から血の気が引いた。
「そんな……」
「血脈の奥まで食い込んでる。無理に引き剥がしたら、呪いだけじゃ済まない。頭のほうが先に壊れる」
聖女は何も言わなくなった。
膝の上で握った手に力が入り、白い指先がさらに白くなる。
「では私は、一生このまま……?」
「まあ、そうなるな」
あっさり答えると、聖女の目に涙が浮かんだ。
「そんな……!」
頬を伝った涙が一筋落ちる。
それに合わせるように、頭上の炎が大きく揺れた。
『もう嫌だ! こんな人生!』
俺は煙草をくわえたまま、その文字を見上げた。
呪いそのものを消せないなら、残った機能をどう使うか。
そう考えながら、もう一度、頭上の炎を見る。
「なあ」
「はい……?」
「大聖堂、金に困ってるだろ」
聖女が涙を拭いながら顔を上げる。
「え?」
「最近、寄付が減ってるって聞いた」
「……若者の教会離れが進んでいまして」
「そうか」
俺は煙草の灰を落とし、炎の文字を指で示した。
「それ、文字数は変えられるか?」
「文字数、ですか?」
「ああ。色は?」
「感情によって変わりますが……文字数なら、二十文字くらいまでなら」
俺は少し考えた。
二十文字、十分だ。
「じゃあ消すのは諦めろ」
「え?」
「仕様変更だ」
引き出しから精密ドライバーを取り出すと、聖女の視線がそれを追った。
「何をするおつもりです?」
「感情と文字の間に、もう一段階処理を挟む」
「そんなことができるのですか?」
「やってみないと分からん」
俺は聖女の後ろへ回り、襟足に指を当てた。
白い首筋を流れている魔力を探っていくと、細い術式が一か所に集まっている。
そこだけ、ほんの少し流れが歪んでいた。
「ここだな」
「何が――」
コリッ。
「ひゃんっ!?」
「動くな」
「い、今の何ですか!?」
「感情から直接出力されてた文字を、一度本人の意思に通すようにした」
「一度、私の意思に……?」
「頭の中で、出したい文字を考えろ」
聖女は半信半疑のまま目を閉じた。
頭上で燃えていた文字が、ふっと消える。
その直後、小さな炎が一つだけ灯った。
『あ』
「……!」
聖女が目を見開いた。
「出ました……!」
「だろ」
「私が思った文字が、そのまま……」
「これなら、本音が勝手に出ることはない」
聖女はしばらく動かなかった。
さっきまで自分の感情を勝手に暴露していた炎が、今は本人の意思で制御できている。
その事実を確かめるように、何度か頭上を見上げる。
「……これ、何かに使えませんかね?」
「使える」
即答だった。
「明日から大聖堂の広場に立て」
「……はい?」
「頭の上に広告を出す」
聖女は返事をしなかった。
自分の頭上と俺の顔を交互に見ている。
「広告、ですか……?」
「『毎月一日はポイント二倍』とか」
聖女の眉がぴくりと動いた。
「聖女の頭上で?」
「目立つだろ」
「神聖な大聖堂で?」
「場所代を取れる」
そこで聖女は黙った。
教会の威厳と商売を頭の中で天秤にかけているらしい。
やがて、ほんの少しだけ表情が変わった。
「……いくらくらい取れます?」
「一枠一日、十万ゴールド」
「そんなに!?」
思わず身を乗り出した聖女の頭上で、炎の文字が大きく揺れた。
『十万』
俺はそれを見て頷いた。
「聖女が頭の上に出すんだぞ」
「……確かに」
さっきまでの嫌悪感は、もうかなり薄れている。
「三割、教会に寄付します」
「好きにしろ」
「大司教には?」
「神託だと言っとけ」
「通りますかね?」
「金が入れば通るだろ」
聖女はまた少し考え込んだ。
今度は頭上の炎がしばらく消えたままだった。
やがて、小さな文字が一つずつ浮かび上がる。
『やってみます』
「……やってみます」
口にした言葉と頭上の文字は、今度も同じだった。
俺はそれを確認してから、煙草の灰を落とした。
◆ ◆ ◆
数日後。
大聖堂の広場には、普段とは比べものにならないほどの人が集まっていた。
その中心に立つ聖女の頭上では、炎の文字が明るく揺れている。
『今週の協賛:パンのマルコー』
文字の下では、パン屋の親父が声を張り上げていた。
「聖女様! 次はうちの新作をお願いします!」
「順番を守ってください!」
聖女が振り返りざまに注意すると、頭上の文字がすぐに切り替わる。
『本日のおすすめ:チーズパン』
それを見た客たちが一斉にパン屋へ流れていく。
「チーズパンだ!」
「新作だってよ!」
「マルコー、三つくれ!」
パン屋の親父は笑いが止まらない。
聖女自身も、最初はかなり抵抗があったらしい。
だが、これだけ客が集まれば話は別だ。
俺は事務所の窓からその様子を眺めていた。
机の上には、一枚の小切手が置かれている。
五十万ゴールド――広告料の取り分としては、悪くない。
「……商売になるもんだな」
小切手を引き出しへしまい、煙草に火をつける。
ところが、ゆっくり煙を吐く暇もなかった。
ドアが勢いよく開いた。
「あの本だ!」
飛び込んできたのは、例の魔導書を買い取っていった古本屋の親父だった。
店からここまで走ってきたのだろう。息を切らし、額には汗が浮いている。
「どうした。売れたのか?」
「売れたどころじゃねえ!」
親父は机に両手をつき、そのまま何度か大きく息を吐いた。
「街のお貴族様が買っていったんだよ。それで読んだんだが……」
そこで言葉を切る。
何かを思い出したのか、親父の顔が引きつった。
「一晩でガリガリだ!」
「……」
「体脂肪だけじゃねえ。筋肉まで落ちやがった!」
どうやら冗談ではないらしい。
親父は頭を抱えた。
「今じゃシワシワのミイラみたいになって、『体が軽すぎて風で飛ぶ!』って騒いでる!」
俺は煙草をくわえたまま、親父の顔を眺めた。
「……本の効果としては成功だな」
「成功じゃねえ!」
机がドンと鳴った。
「屋敷の騎士団がこっちに向かってる!」
俺は煙草を灰皿へ押しつけた。
「親父」
「なんだ!」
「あの本、なんて書いて売った?」
親父の勢いが、そこでわずかに止まった。
目を逸らす。
「……『超・即効性! 一晩で劇的スリム!』」
俺は黙って引き出しを開けた。
中から脱出用のロープを取り出す。
「逃げるぞ」
「やっぱりか!」
「ポップ通りの結果だからな」
「そういう問題じゃねえ!」
窓の外へ目をやる。
通りの向こうから、鎧を着た騎士たちがこちらへ向かってきていた。
親父もそれを見て、慌てて荷物をまとめ始める。
俺はロープを肩にかけ、裏口へ向かった。
「運用でカバーする」
「今回はカバーになってねえ!」
背後から親父の怒鳴り声が飛んでくる。
俺たちはそのまま裏口から路地へ飛び出した。
夕暮れの灰燼街に、騎士たちの怒号が響き始めていた。
挿絵
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