どうして……今だったんでしょう。どうして、ぼくだったんでしょう。どうして……
夜市のほとんどの店が営業を終え、人々が最終列車に乗ろうとMRT《地下鉄》駅に移動し始める頃――七郎は店の電気を半分消して、店頭の調理場でフライパンを動かしていた。
中力粉が焦げないよう絶えず木べらで混ぜ、薄く色付けば、白ゴマと黒ゴマを加え香りが立つまで炒る。
隣のコンロでは、薬缶がしきりと湯気を上げ、しゅんしゅんと沸いている。
市場周辺の店は午前中営業の所が多く、今はもうすっかりと闇の中に沈んでいた。近くのホテルに帰るのだろう。すぐそこの大通りから夜市帰りの人たちが楽しそうに話しながら歩くのが聞こえてくる。
七郎は火を弱めると、ラードと砂糖、隠し味のピーナッツパウダーを入れ、ダマを木べらでつぶしながら、しっかりと混ぜ合わせた。
誰もいない路地裏にふわりと香ばしい匂いが漂ってくる。
ふと、空気が震え、七郎が顔を上げた。見れば、店から少し離れた所に柏翰と阿伯が立っている。
「よぉ、帰ってきたか」
阿伯が柏翰の背に手を当て、歩くのを促した。
「行きたいところは全部回ったか?」
「はい」
柏翰が鼻をすすって、乱暴にTシャツの首元を引っ張り涙をぬぐう。目は泣きはらし赤くなっていたが、その顔は晴れやかで、同時にひどく物憂げだった。
「阿姨の飯はどうだった?」
「懐かしくて……。凄くおいしかったです。ぼくの好物ばかり作ってくれていました」
「挨拶はちゃんとできたか?」
「はい。でも、泣かせてしまいました」
「はは。まぁこればっかりはな。仕方がないさ。でも、これでお前も阿姨も、すっきりしただろ」
「はい……はい!」
柏翰が泣きながら笑う。
「おっちゃんも、あんがとよ」
「おう」
阿伯がガラガラ声で笑って、柏翰の前に丸椅子を置いた。
「まぁ、座れ」
通りには七郎がフライパンをかき混ぜる音と、柏翰が鼻をすする音しか聞こえない。
阿伯もクッションのついていないステンレスの丸椅子を引きずって軒下から外れた所に運ぶと、胸ポケットから煙草を出して、人差し指に火を灯しプカリとふかした。
所在無げに座っていた柏翰が、目を細めて小さく笑った。
「……懐かしい匂いがします」
「これか?」
阿伯が煙草を持ち上げて見せる。
「はい。子供の頃、よく探していた匂いです。窓を開けると、どこからか誰かの吸う煙草の匂いがしてきて……ぼくはその匂いに、知らない父を重ねて、窓に走り寄っては姿を探していました」
柏翰が切なげに目を閉じ、しっかりと匂いを記憶するように息を吸いこむ。
やがて満足したのか、七郎の方を向いて鼻をすんと鳴らした。
「それは、麺茶ですか?」
「ん? おう。弟の好物だからな。お前を連れて行ってもらう駄賃代わりに作ってんだ……食うか?」
七郎がニヤリと悪い顔をし、柏翰が微笑んだ。
「ありがとうございます。ぜひ。ぼくも大好きなんです。もうずっと、インスタントのしか食べてませんが……。母が夜食代わりによく作ってくれました。年寄みたいだから、と嫌う人もいますが、ぼくにとっては、懐かしい……だけど、もう食べることのできない、大切な……思い出の味です」
「こんなので良けりゃ、いくらでも食ってけ」
七郎が麺茶を湯で溶き、じっくりと練り上げる。
ことり、と置かれた椀から、香ばしいきな粉のような香りが漂い、柏翰が懐かしそうにしげしげと見つめ、笑みを浮かべた。
「おっちゃんも食う?」
「あぁ、後でな」
阿伯が指に挟んだ煙草を持ち上げて見せた。
「それ食ったら、行くぞ。兄ちゃんが、迎えを呼んでくれるからな」
柏翰の体がこわばった。
「もう、行かなきゃいけないんですね」
「まぁ、そうだな」
「どうして……今だったんでしょう。どうして、ぼくだったんでしょう。どうして……」
「みんなそう言う。行く方も、残される方もな」
阿伯が、紫煙を吐き出した。
「でも、どうすることもできやしねぇよ」
柏翰は返事をしなかった。ただ、両手で大事そうに麺茶を包み込むと、ゆっくりと頭を下げてスプーンを取った。
七郎は横目で二人のやり取りを見ると、PHSを取り出した。
「おい、八宇。麺茶作ったぞ。食いに来い!」




