Wu Bohan
「歓迎光臨」
本屋に一歩入るや否や、柏翰は立ち止まって辺りをぐるりと見まわした。
児童節だからだろう。常ならば雑誌や新刊が平積みになっている場所が、可愛いぬいぐるみやミニカーを飾り付けた特設コーナーになっている。
「これ!」
楽しげな声に振り向けば、幼い子供が一冊の本を母親に掲げているのが見えた。その向こうでは、小さな兄がもっと小さな弟に、お化けの本を読んで聞かせてやっている。
柏翰は、微笑ましそうな、悲しそう目でそれを見やり、居場所をなくした子供のように立ち尽くしていた。
「展示会は奥のカフェでやってるみたいだな」
七郎が壁に貼られたチラシを見て、中庭に続く狭い出口を指さした。開け放されたドアから、挽きたてのコーヒーの香りが漂ってくる。
柏翰はハッと我に返ると、
「何だか、ちょっと怖い気もします」
と小さく笑った。
「何でぇ! 俺たちと一緒で、何を怖がることがある?」
阿伯が豪快に笑い、柏翰の背を叩く。
七郎が中庭に足を踏み入れ、カフェの入り口で立ち止まった。
顔に不安と――それ以上の期待を浮かべた柏翰が、胸元を一度握りしめ、目を閉じる。
誰も急かさなかった。
入口のカフェボードには、展示会のチラシが貼られている。
柏翰はゆっくりと、カフェに足を踏み出した。
「歓迎光臨。一名様ですか?」
カウンターでコーヒーの豆を挽いていた若い男性店員が七郎に声をかけた。
「はい」
「こちらにどうぞ!」
七郎が後ろ手で、二人に行けと合図を送る。
柏翰はもう七郎を見ていなかった。
長い年月を経て艶を帯びた梁、柔らかな午後の光を床に落とす木格窓。
そしてアイボリーホワイトの壁に飾られているのが、あの日受賞するはずだった——今生最後に描いた油絵だ
「媽媽……」
知らず口に出た言葉は震えていた。
柏翰は吸い寄せられるように絵の前に行くと、ぎゅっと眉根を寄せ口元を引き結んだ。
そこには、幼いころ初めて見た母の笑顔が描かれていた。
「ぼくの母の手は……いつもあかぎれで真っ赤だったんです」
ぽろぽろとあふれ出る言葉を止めることもせず、柏翰が静かに話しだした。
「爪はへこんで反りあがって、腕にはいっぱいやけどの痕がありました。髪は伸びてきたら自分で切って、一つにくくって。夜明け前から働いて、夜遅くに帰ってくる」
阿伯は、黙って後ろに立っている。
「母と全く話をしない日も、珍しくはありませんでした。お互いの生活リズムが全く合わなかったので……。一人で食べる食事は冷たくて、味気なくて、帰ってきた母に「まずい!」と怒りをぶつけては、泣きそうな母に怒鳴られることもしょっちゅうでした。阿姨が媽媽だったらよかったのに、と言ったこともあります。友達の母親と同じ年なのに、知らない人に「おばあちゃん」と呼ばれるのが恥ずかしくて、それ以上に腹立たしくて……」
柏翰が絵にそっと手を伸ばした。
「小学生の頃、美術の時間に母の絵を描いたんです。家族の絵というテーマで、ぼくには母しかいなかったから。仕方なく母を描いたんです」
柏翰の指は絵に触れることができない。だが構わず、柏翰は母の手に指を滑らせた。
「その絵を持って帰ってきた日、ぼくはすごく意地悪な気持ちで、母に絵を突き付けようとしました。どうして自分には母しかいないのか。どうして自分を放ったらかしにするのか。困らせてやろうと思ったんです。本当はお父さんの絵が描きたかったって言ってやろうと思って。その日は朝早く起きて、母が仕事に行く前に無言で絵を突き付けてやりました。だけど母は……母はぼくが渡した絵を見た時——」
眉間に深く刻まれていたしわが、驚きに目を見開くと同時に消え、そしてくしゃりと歪んだと思った瞬間、
「ぽろぽろと涙があふれ、声もなく泣いたんです。それを見てぼくは、どうしようもない後悔が押し寄せてきて、衝動的に母を抱きしめて、初めて言ったんです。媽媽、ありがとう。大好き」
柏翰の目はもう絵を見ていなかった。後から後からあふれる涙に揺らぎ、暖かな光が躍っているようにしか見えない。
「母は、驚いたように目を見張った後、ゆっくり、ゆっくりと微笑みました」
絵の母親は幼い息子を抱きしめて額を寄せ、慈しむような笑みを浮かべている。
「それが、ぼくが絵を描き始めたきっかけです」
柏翰が涙をぬぐい、うつむいたまま恥ずかしそうに笑った。
「絵が、ぼくと母の関係を修復し、愛を教えてくれました」
チラシを持ったカフェの客が、友達と話しながら絵の方に歩いてくるのを見て、柏翰がゆっくりと場所を開けた。
「2階まで展示してるみたいだな」
静かな声で阿伯が言った。柏翰は穏やかな顔で頷くと、ゆっくりと絵を見ながら階段を上り始めた。
そこに飾られているのは、あの日捨てられたとばかり思いこんでいた絵の数々だった。
スケッチ、水彩画、色鉛筆画、油絵。
夜間の美大で三年間描きためた絵が、丁寧に飾られている。そして最後の絵の隣には、同級生たちからのメッセージが書いてあった。
「どうして……っ!」
今ならわかる。そこには善意と好意しかなかった。
「みんな、ライバルだと思っていた! 仕事終わりの教室は静かで、誰も話す気力がなくて、ただ同じ空間で絵を描いているだけの仲だと思っていたのに……!」
後悔が胸に押し寄せる。
「ぼくはっ! ぼくなんてっ……」
後は言葉にならず、柏翰は泣き崩れた。
「歓迎光臨——って、あれ? 何で来たの!」
階下から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……ごめん。本当は来ちゃだめだって、わかっていたんだけど……どうしても気になって」
柏翰は鼻をすすると、恐る恐る手すりから身を乗り出して下を眺めた。
「あっ……」
そこには、同級生の姿があった。
「頭七の日に知り合いや家族の姿を見たら、その人の未練になって魂を引き留めてしまう。だから隠れていなくちゃいけないって、知ってはいたんだけど……でも」
同級生の声がだんだんと小さくなる。
「柏翰は、ここで私たちが展示会をしてるって、気づいてくれるかな? 来てくれるかな……」
それだけ言うと、同級生の女性がぐっと唇をかみ、睨むように目を見張った。店員として働いている同級生が、慰めるように肩を叩く。女性の唇が震え、泣くのをこらえるように喉を鳴らすのが見えた。
「わ、私、あの時、柏翰に言えなかったの! 私の絵が落選したのが悔しくて、自分に才能がないのを突き付けられたような気がして、勝手に落ち込んで、八つ当たりして! おめでとうって言えばよかった! どうして、どうして死んじゃったのっ!」
同級生の言葉が胸に突き刺さる。
”そんなの……ぼくだって、知りたい。ぼくだって、もっと生きていたかった!”
「死ぬなんて思わなかったの!」
”死ぬなんて、思わなかったんだ……”
女性がしゃがみこんで泣いている。
泣かないでと言いたかった。でも、声はもう届かない。
「ボウズ」
阿伯が下を指さしてた。涙を乱暴にぬぐいそちらを見ると、七郎と目が合った。七郎がこちらに指を向け、小さく何かを呟く。
体が、わずかに重くなる。目に映るものが、急に嘘みたいに巨大になる。
驚いて辺りを見回した時、視界の端に美しい蝶の羽が見えた。
「その姿なら、見えるだろう」
手すりから下を覗き込みながら、阿伯が言った。
柏翰はためらうように、ひとつふたつ羽を揺らすと、ひらひらと階下に向かって飛んで行った。
「蝶だ……」
店員の男が言う。
泣いていた女性が、弾かれたように顔を上げた。
「蝶……」
蝶は二人の間を飛ぶと、テーブルの上に停まってゆっくりと羽を開閉させた。
「柏翰」
女性の目から涙が後から後から零れ落ちる。
「おめでっ……とう、おめでとう! あ、あのときっ、言えなくて、ごめん。おめでとう、柏翰!」
「お前の絵は、忘れさせないよ。俺たちが、絶対にお前の絵を残すから!」
「帰って来てくれて、あり、がとっ……」
女性がとうとう嗚咽を上げて泣き始めた。
”こちらこそ、帰る場所を作ってくれて、ありがとうございます”




