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行きたいところに全部行こう

 靄がふらふらと車の外に出てきた。

 分離帯の直前で止まる美玲の車を、クラクションを鳴らしながら何台もの車が追い抜いて行く。

 美玲はハンドルに抱き着くようにして肩で息をしていたが、阿恩が後ろで身じろぎをする気配を察し、弾かれたように振り返った。

 阿恩はぐったりと目を閉じ、チャイルドシートに収まっている。

「恩恩!」

 美玲は悲鳴のような声を上げると、急いでエンジンを切って阿恩の名を繰り返し叫んだ。

「ん……」

「恩恩!」

 がたがたと震える手で何度も失敗しながらシートベルトを外し、急いで外に出て後部座席のドアを開ける。 


 七郎と阿伯はため息をつくと、示し合わせたかのように、ゆっくりと靄に近づいた。

 靄はちかちかと明滅し大きさを変えながら、うめき声をあげ道路にうずくまっている。

「吳柏翰《ウー・ボーハン》」

 七郎が静かな声で呼びかけた。靄がびくりと震え、のったりと顔を上げる。

「お前には彼女に復讐する権利がある」

「ふ、くしゅう……」

「そうだ」

 靄が美玲を振り返った。

「外して! 何で、外れないのっ……!」

 美玲は泣きながら、震える指で阿恩のシートベルトを外そうと躍起になっている。髪は乱れ、涙が後から後から、日に焼けかさついた顔を流れていく。

「媽、いたい?」

 阿恩が囁くようなかすれ声で言った。だがパニックに陥りシートベルトのバックルを力任せに引っ張っている美玲は気づかない。

 阿恩がふくふくとした腕を伸ばし、美玲のくしゃくしゃになった白髪交じりの頭を撫でた。

「媽媽、いいこ、いいこ」

 美玲が目を見開き、阿恩の顔を凝視する。震える唇をかみしめ、幾分か落ち着いた手つきでシートベルトを外すと、阿恩を抱き上げうずくまって泣きじゃくった。

「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 半袖から覗く骨と皮だけの腕。右腕に残るやけど痕。この一週間で一気に増えた白髪とこけた頬を見て、ゆっくりと靄が頭を振った。

「しなくていいのか?」

 七郎がうかがうように言った。

「……したところで、もうぼくは生き返りません。ぼくは……もう、死んだのでしょう?」

 靄がひた、と七郎を見つめて言った。

「そうだ」

「追思展、そう書いてありましたから」

 どうしても拾い上げることのできなかったチラシを振り返り、寂しそうに靄が言った。

 たくさんの車がクラクションを鳴らして美玲達を追い越していく。淡水河を渡る風が、靄を撫でるようにして通り過ぎていく。

「それに……」

 靄が懐かしそうな――痛ましそうな声で美玲を見ながら言った。

「彼女も、母親ですから……」

「そうか」

 七郎がじっと靄を見つめる。だが靄は気を変えるつもりはないのだろう。諦めたような笑みを浮かべ、そっと目を伏せた。

「因果から抜けるか。それがいい」

 阿伯が厳しい――だが慈愛をこめた声でそう言った。

「聞こえるか」

 七郎が靄に手をかざす。

 靄が空を見上げ、そっと耳を澄ませた。

「……阿姨の声だ」

「お前を思って祈る声だ。確かに、届けたぞ」

 青年を思って祈る心が光となり、靄を照らし――影が薄くなっていく。そこにいるのは、もう靄ではなかった。眼鏡をかけた背の高い、痩せた青年が立っている。

「ぼくの、手……」

 青年が驚いたように手を裏表に返す。声が詰まり、食いしばった口を震わせ、うつむく。

「ぼくは……」

 青年がたまらずしゃがみこみ、声を殺して泣き始める。

「七将軍よ」

 七郎が阿伯を振り返った。

 そこにいたのは、もはや清掃員の男ではなかった。赤い神衣をまとった阿伯は拳を掌で包む礼《拱手》を取ると、威厳に満ちた声で言った。

「我が預かりし土地に迷える御魂をお導き下さり、伏して感謝申し上げる」

 七郎が目を見開き、次いで居心地が悪そうに頭をかく。

「よせやい、俺はもう将軍でも何でもない。ただの米苔目屋だ。大体、俺は何もしちゃあいないよ。全部こいつの選択だ」

 七郎が乱暴に柏翰《ボーハン》の背を叩いた。

「よく言った。お前には復讐する権利こそあるが、もし目先の復讐にとらわれ彼女を殺していたら、因果にとらわれ、彼女もろとも苦海に引きずり込まれるところだったぞ」

「因果って?」 

 涙を拭きながら、柏翰《ボーハン》が言う。

 阿伯が答えた。

「因果とは神の定めし理だ。良いことをすれば良いことが巡り、悪いことをすれば悪いことが帰ってくる。自分、あるいは自分の祖先の罪や功徳が、巡り巡って子孫に影響を与える。仮令お前が復讐を果たしても、お前の魂は真に納得はしない。新たな恨みと執着にがんじがらめにとらわれ、罪が許される日まで永劫苦しみ続ける。お前はそれを手放した、だから、自縄自縛の業から抜け出ることができた」

 それだけ言うと、ガラガラ声で笑って、阿伯が乱暴に柏翰《ボーハン》の肩を叩いた。

「さて、じゃあ行くか!」

「……どこへ?」

 柏翰の声が不安に揺れる。

「お前の行きたい場所だ。行きたいところを全部回るぞ!」

「夜になったら、包子屋の阿姨の飯を忘れずに食いに行けよ」

 七郎がのっそりと言って、タバコに火をつけた。

「阿姨が……」

 柏翰の声が詰まる。それ以上何も言うことができず、柏翰は俯いて肩を震わせた。何度も何度も拳で目をこすり、最後はぎゅうっとTシャツを絞るように握りしめる。道路にはいくつもの雫が落ちたが、アスファルトを濡らすことなく消えていった。

「まずは、これに行くだろう?」

 七郎がチラシを指さす。柏翰は鼻をすすると、乱暴に涙をぬぐい、

「はい!」

 晴れやかな声で笑った。

 

 七郎と阿伯と連れ立って歩く道は美しかった。

 柏翰は物珍しそうにあたりを見回しながら、目に焼き付けるようにしてゆっくりと歩いた。

 街路樹も、その下に生える雑草の一本一本までもが淡い光を放ち、太陽に向かって生を謳歌するように伸び伸びと風に揺れている。

 聞いたこともない――いや、生きている時には忙しくて気づかなかっただけかもしれない――鳥が美しい声でさえずり、紺碧の空に大きな太陽が輝いている。

「ぼくは画家を目指していたのに、世界がこんなに美しいとは知りませんでした」

 喜餅を入れた袋を手に歩く若い夫婦、親友の恋愛話で盛り上がろうとカフェに向かう若者たち。生前は通い慣れた道の筈なのに、行きかう人々も景色も全く違うものに見える。

 絶えず香の煙を上げる廟は、嗅いだこともない麗しい香りに満ちており、一心に祈る人々の顔を見て、柏翰は不思議そうに首をかしげて見せた。

「どうしてでしょう。景色はこんなにきれいなのに、人の表情がダブって見えます」

「霊に、嘘や偽りは通用しねぇからな」

 阿伯が、カフェを指さした。

「あそこだ。中に入る準備はできたか?」

 市場近くにある小さな書店。入り口には児童節の飾り付けがなされ、壁には『Wu Bohan《吳柏翰》追思展』のチラシが張ってある。

 柏翰は長いことチラシを眺め、目を眇めて本屋を見つめると、ゆっくりと息を吐いて、振り返った。

「はい。行きましょう」

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