天網恢恢疎にして漏らさず
今日は朝から毛毛雨《霧雨》が降っていた。
先祖の墓参りに行くこの日に雨が多いのは、子孫と先祖が互いを思って涙を流すかららしい。
傘を差すほどではない、だが差さずに濡れれば少し肌寒い。
漫ろに濡れた七郎は、煙草に火をつけずに咥えたまま、鉄捲門を上げた。店内に閉じ込められていたひんやりとした空気が流れだし、店にしみついた豚骨とアミエビの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
いつもと同じ市場の喧噪を背に、ステンレスの調理台と白いテーブルを出す。
今日はまだ、調理台横の扇風機を回さずとも大丈夫だろう。
七郎は店内から机と椅子を運び出すと、年季の入ったオーニングテント《雨よけテント》のやや内側に設置した。
あらかたの用意が終わり、仕事前の一服をしていると、市場前の路面店からふわりとたくさんの食べ物の匂いがしてきた。
魯肉飯《豚肉煮込み丼》、鶏肉飯、旗魚米粉湯。
「腹減ったなぁ……」
小さく鳴った腹をさすっていると、人波の向こうからエプロンをつけたままの阿姨が、傘も差さずにこちらに小走りに駆けて来るのが見えた。
「ちょっと! ねぇ、ちょっと七郎ちゃん!」
「なぁに? 阿姨、どうしたの?」
七郎が煙草を持つ手を下げて阿姨を迎えた。
阿姨は朝からずっと言いたかったことがやっと言える、というように七郎に詰め寄ると、晴れやかな顔でまくしたてた。
「ねぇ、聞いてよ、七郎ちゃん! 昨日さ、あの子が蝶になってうちに来てくれたんだよ! あたしは姿を見せたらいけないって思って、カーテンを閉めて窓の向こうにいたんだ。そしたらさ、ふわふわ光るものが見えて、何だろうって思ってカーテンの隙間から覗いたら、蝶がいたのよ! 食事を用意していた机の上にとまって。あたしの方を見て、お礼を言うように羽を開いたり閉じたりしてたんだ」
阿姨が顔をくしゃりとゆがめ、すぐに涙目のまま照れくさそうに微笑んだ。
「あの子、お腹いっぱいになったかねぇ」
「そりゃあ、もちろん。だってさ、阿姨の作る飯、うまいもん。もし腹が減ってなかったとしても、俺だったらあるだけ全部食うね!」
「もう、この子ったら!」
「はは。でもさ、冗談抜きで喜んだと思うよ。誰かが自分のことを思って作ってくれる飯ほど、ありがたいもんはないからな。いい功徳を積んだね、阿姨」
「……そう言ってくれると、あたしも報われるよ」
阿姨がエプロンで目元を押さえ鼻をすすった。
「ところで阿姨、仕事は?」
「あんたがそろそろ来る頃だと思って、抜け出してきたのさ!」
「ええっ、大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。忙しいピークも過ぎたし、何よりもう商品もほとんどないからね」
「今年も行列凄かった?」
「もう、凄い凄い! 市場の外まで長い行列ができて、潤餅《台湾風春巻き》屋は鬼気迫る顔で皮を焼き続けてたよ!」
七郎が笑うと、阿姨は目を細めて穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、七郎ちゃん」
「なんだい、改まって」
「本当はさ、ちょっと悩んでたんだ。身内でもないあたしがあの子に食事を作るの。でも、あんたが背中を押してくれたから」
「無縁仏にむやみに手を合わせるのは、普渡《法会》でもなけりゃ禁忌中の大禁忌だが、阿姨は廟で神意をうかがってからしたんだろ? だったら加護を授かってるし、子供のころから知っているやつなら、そいつも阿姨を困らせるようなことはしないさ」
「……そうだね」
阿姨はしんみりと頷きもう一度エプロンで目元を押さえると、気を取り直したようににっこりと七郎に笑いかけた。
「じゃあ、そろそろあたしは店に戻るけど。帰りに外帯お願いできるかい?」
「もちろん! 何にする?」
「いつもの、汁なしで! ニラとニンニクを多めに入れとくれ!」
「了解、美女!」
七郎がおどけて言うと、阿姨は七郎の背中を叩いて、大声で笑った。
路地裏の入り口にある水たまりに、青信号が反射してぼんやりと輝いていた。
夕方になって雨は上がったが、その分湿度が高く、むあっと重たい空気が漂っている。
今日は連休の中日だ。清明節を祝うために地方に帰省したり、一族で食卓を囲む人も多く、客はほとんど来ないだろう。
七郎は『クッションのある』スチールの丸椅子を引きずってくると、人差し指につけた指輪でビールの王冠を弾き飛ばし、ぐいとラッパ飲みした。
目の前の鍋からはことことと湯気が上がり、湿気に滲むように優しい出汁の香りが漂っている。
扇風機が七郎の銀髪を揺らした。
七郎は宙からノートを取り出すと、仕方無げにぱらりとめくった。
「……ったく、功過格《善悪帳》ったって何を書いたらいいんだよ……」
伯翰は自力で復讐を手放した。自分がしたことと言ったら、阿姨の祈りを届け、選択を突き付けただけだ。
「これって……何点になるんだ? まぁ……食事は出したよな……10点でいいか。人に親切にする……したか? したよな。1点」
七郎はビール瓶を置くと、指についた結露をTシャツでぬぐった。宙から筆筒を取り出し、筆を手に取ると頭を抱えながら帳面に向かう。
ビール瓶の結露が、音もなくステンレス台に流れた。
「えーと……えーと……後、何だ? 人の仲裁をする? あれって仲裁って言えるのか? 言っていいのか? いいよな。よし。えーと……ちょっと低めに5点にしとくか。にしても、一体何点貯めたらいいんだよ、ったく……」
「8万4千点です」
「げ、八宇」
「何ですか、その顔は」
「……8万4千点って、それ数字じゃねぇじゃねぇか! 一見数字っぽいけど、途方に暮れるほど大きいっていう比喩だろ!」
「……それほどのことをしたということですよ」
八宇がため息をつくと、夜市で買ってきたらしい麺線《台湾そうめん》の入った袋をどかりとテーブルに置いた。
「おい、だから店先でよその店のもん食うなって。奥行け、奥」
「黒白切くれたら」
「わぁってるって! ったく、麺ばっか食ってんじゃねぇよ!」
「麺屋の言うセリフですか」
「ったく、ああ言えばこう言う……」
ぼやく兄をしり目に、八宇は入り口に近い席に座ると、袋の中からカップに入った麺線を取り出した。
とろみのある鰹出汁で煮込んだそうめんには、牡蠣とモツが入っている。八宇は机の上の烏酢《黒酢》をかけると、ラー油で真っ赤に染まった麺線をうまそうに食べ始めた。
「なんかすげぇ辛い匂いがする……。って、真っ赤じゃねぇか! うわっ、またやったのか、馬鹿舌!」
「何とでも言ってください」
七郎が呆れたように頭を振って、ホルモンの盛り合わせ《黒白切》を八宇の前に置いた。
八宇が食べながら七郎の善悪帳をはらりとめくった。
七郎は横目でそれを見やると、店先の調理台に戻って行った。
「兄者……」
「ん、あ、ちょっと待て。電話だ」
七郎はひらりと手を振ると、ビール横に放り出していたPHSを拾い上げた。
「もしもし? ん、なんだ、大虎か。どうした?」
八宇はため息をつくと、善悪帳を閉じて手持無沙汰に往来を眺めた。
路地裏はもうすっかりと暗くなり、七郎の米苔目屋だけがぼんやりと灯台のように輝いている。近くのホテルに帰るのだろう。すぐそこの大通りから夜市帰りの人たちが楽しそうに話しながら歩くのが聞こえてきた。
八宇は作業台まで歩いてくると三層肉《バラ肉》に手を伸ばし、七郎に手を叩かれた。
仕方なく青いざるの上に置いてある米苔目板を手に取って、しげしげと眺める。何が兄にここまでの情熱を注がせるのかはわからない。だが、兄の作る料理はおいしい。
早く廟に戻ってくればいいのに。内心ぼやきながら、無数の穴の開いた米苔目板を顔の前にかざし、ぼんやりと往来を覗いた。
信号待ちをする人々の中に、仲睦まじそうに手をつないで歩く親子の姿が見える。
夜市のゲームで手に入れたのだろう。大きなぬいぐるみを抱えた幼い男の子が眠たそうに体をこくりこくりと揺らし、痩せた母親が少年の名を呼んではつないだ手を揺らしていた。
八宇はその親子を見て、フンと鼻を鳴らした。
穴から覗く母親の首には枷がついており、青緑色になった顔には恨みと恐怖の入り混じった凄まじい表情が浮かんでいる。しっかりと手をつないだ我が子にはがんじがらめに鎖が巻き付き、母と手をつなぐ男の子の手の先からひじまでもが青く染まっていた。
「……天網恢恢素にして漏らさず。誰が手を下さずとも、因果からは逃れられない、か」
八宇は小さく呟くと、今度は七郎を見た。
七郎本人は否定しているが、穴から覗く兄は今でも白い神衣をまとっている。
「早く戻ってきてくださいね」
八宇は七郎に聞こえないくらいの小さな声で呟いたが、七郎はこっちを見るなとばかりにべぇっと舌を出して、あっちに行けと手を振った。




