本編4話 「なんで人間に機械の代わりをやらせてるんですか?馬鹿じゃない?」
【なんで人間に機械の代わりをやらせてるんですか?馬鹿じゃない?】
ノアは外来担当となった。
会計カードチェック、受付、治療報酬請求入力作業のローテーションを繰り返していた。
ところが……。
ノアはイライラした様子でパソコンの前に座り、デイケア(支援が必要な人間が施設や病院に通い、理学療法士などの専門職から機能訓練・リハビリを受ける日帰り介護サービス )に参加する可能性のある縦20x横4列、合計80名が記載されている紙を視認し、ペンでチェック(左はデイ(昼の部)、右はナイト(夜の部)参加者)が入った患者を対象に治療報酬請求ソフト「ディスペア」にデイケア入力作業をしていた。
その表情は、まるで解読不能な暗号に挑むハッカーのようだ。
「なんですか、この非効率な入力作業は……」
彼女の深い苛立ちが、キーボードを叩く音の合間に、かすかに聞こえる。
「ノアくん……。どうした?」
話しかけてみたら、彼女の愚痴が堰を切ったように始まった。
「ユーキさん……
初回日や退院日から1年以内は早期加算だとか、
初回から3年後に週4回目なら減算(3年超)しろとか、
場合によっては週4回目か数えるために前月のデータかカルテを見ないといけないし、
でも入院期間1年以上なら減算しなくていいとか、
デイナイトケアなら専用加算をいれろとか、
さらにデイとナイトとデイナイトでそれぞれ入院期間のコメント入力が別コードになってるとか、
ありえないでしょ!
しかも早期と減算(3年超)が同時に出る場合もあるし!
絶対間違えますよこれは!
時間的にナイトケア確定後だとデータ入力が間に合わないから、とりあえずデイケア参加者を入力しておかないといけないし、
デイケアの患者さんがナイトケアに参加したらデイケア消してデイナイトにしないといけないし!
間違えてもエラーすら出ないし!」
ノアの指摘は、全て正確だった。
それは、精神制御科の診療報酬の算定規則が持つ、地雷原のような複雑さそのものだ。
「ノアくん……それは仕方ないんだ。
診療報酬の世界は、残念ながら最も非論理的で、最も人間的な複雑さを内包している。
それはね、ルールベースで運用されるべきシステム(治療報酬請求)と、人間が定めた例外だらけのルール(告示)が激しく衝突している領域なんだ」
俺は「ディスペア」の画面を横目で見て、小さくため息をついた。
この作業は毎回1時間掛かる。
「特に君が今戦っている精神制御科デイケアの加算・減算判定ロジックは、『入院期間』『提供期間』『週の回数』という三次元の変数に、『早期』『長期』『重度』という複数のフラグが絡み合い、何重にも条件分岐したスパゲッティコード(プログラミング用語。グチャグチャになっており、処理が読みにくくなっているプログラムの状態を指す)を、人間が毎回手作業で解読することを強要されているんだ」
「……きついですね」
「治療報酬請求ソフト『ディスペア』は、その複雑な条件分岐を、自動で判定してくれない。
入力者である君が、それを全て暗記し、目視でカルテやマスタを突合し、正しい加算コードを手打ちで選択しなきゃならない。
それが、この病院の日常だ」
ノアは静かにキーボードから手を離し、俺を見た。
その顔には、「なぜ、こんな馬鹿げたことが許されているのか」という、純粋な疑問と、怒りが渦巻いていた。
その日から、彼女はなにか決心したようにパソコン画面と向き合い始めた。
キーボードを叩く音は、以前の「イライラ」に満ちた衝動的な音ではなく、集中と解析に特化した、短く鋭いリズムに変わっていた。
ある日、俺が近づくと、彼女のデスクトップには見慣れないウィンドウが開いていた。
「ノアくん、それ……」
覗き込むと、エクセルの見慣れたシート画面ではなく、薄い灰色のウィンドウにテキストが羅列されている。
「Visual Basic for Applications」
(VBA!?)
俺は思わず息を飲んだ。
俺の専門はWebやDB周りの言語だが、VBAは古くから存在するオフィスソフト特有のニッチな言語だ。
存在は知っているが、正直、業務で触れたことはほとんどない。
画面に表示されているのは、まだ記録されたマクロと、それを手探りで編集しようとした跡のような、短いコードの断片だ。
(うちの治療事務課の作業レベルで、わざわざVBAを使うほどの複雑なシートは、今のところ存在しないはずだ……。
単なるマスタ参照や集計なら関数で十分なはずだが、なぜ無理に処理を組もうとしている?)
VBA。それは、エクセルという表計算ソフトのセルを含むオブジェクトモデルを操作するための言語だ。
ノアは、治療事務課に山積する煩雑なエクセル作業の手順を、VBAという手段で克服しようとしている。
コードそのものは、まだ稚拙で冗長かもしれない。
しかし、その意図は明確だ。
彼女はまず『マクロの記録』機能で操作手順をコード化し、それを自分のやりたいことに合うように、独力で格闘し始めているのだ。
ノアは、しかし、それが一体どの業務のどの部分を指しているのか、俺には皆目見当がつかなかった。
「ユーキさん。
この『ボタン』を押すと、特定のセルを自動で動かしてくれるらしいんですけど、これって何回でも繰り返せるんですか?」
彼女の問いは、技術の本質を射抜いていた。
「ああ、ノアくん。
それは……もちろんだ。
命令を書けば、それを何百回、何千回と繰り返すことができるよ」
俺は自分の技術的な知識が、目の前の業務に特化していないという隔たりを感じながらも、彼女の熱意に押され、その隣に椅子を引き寄せた。
この職場のシステム環境には厳しい制約がある。
「治療報酬請求ソフト『ディスペア』」が導入されたPCは完全にオフライン環境であり、インターネットとは一切断絶されていた。
セキュリティ上、AIの利用は許されない。
当たり前だ。
患者の個人情報をAIに学習させるなど、言語道断だからだ。
別の端末でならネットへの接続は許されているが、断片的なコードを生成してテキストファイルなどにコピペしてUSBなどで移すという、極めて限定的な補助利用しかできない。
彼女がVBAを駆使しようとする背景には、この「閉ざされた環境」という物理的な壁があった。




