本編23話 二人羽織のパッチ:組織の平和は、正しいコードよりも優先される 1話
とある日、治療事務課にて。
ノアが、いつものようにエラーの書かれた紙を治療事務員に渡す。
もはや、彼女が開発したチェッカーが稼働し始めてから、業務フローの大部分は最適化されつつあった。
既に大半のエラーは潰され、その日のうちに修正されるのが新しい「常識」となっていた。
ところが――
紙を受け取ったドラゴニュート(竜人)のドゥ・モン治療事務副長官は、書類を軽く見ただけで、顔を上げずにこう返した。
「ノアちゃん、この軟膏の薬は、ディスペアがエラーを返さないから大丈夫」
御年61歳――異世界転移者の感覚でも61歳。
その顔立ちには、長い年月をかけて刻まれた柔和な笑みと、組織を統べる者特有の年季の入った落ち着きが同居している。
黒髪をきっちりと後ろでまとめ上げたシニヨンヘアは、彼女の規律正しさを象徴するかのようだ。
彼女の装いは、機能性と貫禄を兼ね備えている。
糊の効いた白いブラウスの上に、淡いブルーのニットベストを重ね、さらにその上から厚手のベージュのカーディガンをさらりと羽織っている。
ボトムは落ち着いたチャコールグレーのスラックス。
首からは職員証をぶら下げ、胸ポケットにはペンが二本、常備されている。
何より目を引くのは、彼女がドラゴニュート(竜人)であることを示す特徴だ。
整えられた黒髪の間からは、二本の、滑らかで艶のある漆黒の角が、威厳を讃えるように上向きに生え揃っている。
そして、ゆったりとしたカーディガンの裾からは、鱗に覆われた強靭な尻尾が、まるで意思を持つかのように床の近くで静かに蠢いていた。
ノアからかすかにため息が漏れてきた。
それは、「なぜこの程度の非効率な変数処理を要求しなければならないのか」という純粋な論理疲労の音だった。
「では、その患者さんのどの病名がその薬に該当するか、教えていただけませんか?」
「うーん、それは分かんないけど、でもディスペアがエラーを出してないから大丈夫大丈夫」
もはや、ノアの「理解不能なバグ」に直面した際の静かな怒りが、周囲に伝わってくるようだ。
「ドゥ・モンさん、ディスペアは軟膏処置の下にぶら下がってる薬にはエラーを出さないんですよ」
「うーん、でもディスペアはエラー出してないから大丈夫だと思うけど」
ドゥ・モン治療事務副長官は、自分の認識こそがノアのエラー出力よりも上位の真実であるかのように、一切譲る気配がない。
もはや今にもブチ切れそうな彼女を、俺は慌ててその場から引き剥がし、外通路につれてきた。
ノアの怒りは、当然ながら即座に俺に向けられた。
「なんなんですかユーキさん!!」
「ノアくん、君の怒りはごもっともだ。
俺は状況を完全に理解した。
その上で聞いてくれ。
別に治療事務副長官は君のことを軽視したわけではない。
問題は、彼女の『経験』が『学習』を停止させていることだ」
「治療事務副長官ですよ!!
何十年も務めてるんですよ!!
ディスペアの欠陥なんて把握してないとおかしいですよ!!!!!」
「それもそうなんだが、現実が現実なんだから仕方ない。
この現象は、ハヤミさんのような『ヒューリスティック・バグ』とは、また別の次元の、極めて根深い『認知の硬直化』なんだ」
「ドラゴニュート(竜人)だから馬鹿なんじゃないんですか!?」
「ノアくん……前にも言ったが、別にドラゴニュート(竜人)の知性が他種族と比較して劣っているという統計データは存在しない。
平均値では、ドラゴニュート(竜人)の脳も我々と同等だ」
「じゃあなおさら意味がわからない!!
意味がわからないですよユーキさん!!
理解できない!!」
「ああ。
君にとって『長年の経験』が『論理的な硬直化』を生み、『既知のシステム(ディスペア)』が『真実の代行者(権威)』となるこのバグは、最も非効率で理解不能な人間の生存戦略だろう。
だがノアくん。
それが、君が最も解決しなければならない、最も巨大な『人間という古いシステム』の仕様なんだ」
「つまりなんですか?
ディスペアの欠陥を把握せず盲目的に信じて人の言うことは右から左へ聞き流してるってことですか?」
ノアの解析速度は、相変わらず恐るべきものだった。
彼女の質問は、まさにドゥ・モン治療事務副長官の行動を最小限の論理で要約していた。
その通りだ。
しかし、この非論理的なバグ(ドゥ・モン治療事務副長官の行動)は、単純な悪意や怠慢ではなく、人間というシステムの生存戦略として発生している。
俺には、その構造的な発生原因を、彼女の論理体系に合わせて詳しく説明する義務があった。
「ノアくん、君のその理解は結論として完全に正しい。
ディスペアというシステムの『欠陥』を把握せず、『出力がないこと=正解』と盲信し、君の警告を『ノイズ』として無意識に聞き流している。
しかし、これは彼女の悪意や怠惰ではなく、長年の経験という名の硬直化したシステムが選ぶ合理的な防御策なんだよ。
いいか、治療事務副長官にとってディスペアは、何十年ものキャリアの中で『エラーを出さない限り、給料を保証してくれた絶対的な権威』なんだ。
その『権威』の否定は、彼女の認知リソースを大量に消費する『重い処理』だから、彼女の脳は『権威の出力を信じ、君の警告を無視する』という、最も安価で、慣れたショートカットを選択した。
君のロジックが正しいとしても、彼女の経験則は、『君のロジックを読み解くコスト』よりも常に上位の処理優先度を持っているんだ」
「でもディスペアに欠陥があることなんて今更分かりきったことじゃないですか。
私はシーベル・クローデル治療事務長官からそのことを聞きましたよ!!
なら治療事務副長官だって……!!」
「ノアくん、その『今更分かりきったこと』という認識こそが、君の次元と治療事務副長官の次元の断絶を示している。
ディスペアの欠陥は、『常に改善を要求するシステム設計者(君や治療事務長官 )』にとっては既知の変数だが、『慣れた手順を維持することを優先する経験者治療事務副長官』にとっては、認知したくないバグなんだ。
残念ながらドゥ・モン治療事務副長官は把握していない。
あの返答がその証拠だ。
そして、この『知識の断絶』が、単なる個人の問題ではなく、組織が抱える『経験という名のテクニカル・デット』なんだよ」
もはやノアは何も言い返さなかった。
その瞳には、「非論理的な人間のシステムの仕様」に対する深い理解と、それを上回るほどの激しい憎悪が宿っていた。
俺達は重い足取りで治療事務室 へと戻った。
そのとき、目に飛び込んできたのは、最悪な光景だった。




