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天才ノアのパーフェクト・ロジック  作者: クーアウコ


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名探偵ノア14話 二重スリット・ファジー・トレース殺人事件 12話

 連(れん)の怒声も、風の音も、どこか遠くの換気扇の唸りも――何もかもが、真綿で包まれたように遠のいていく。

 気づけば田中は、どこまでも続く、光でも闇でもない、ただ「白い」としか形容のしようのない場所に、立っていた。


挿絵(By みてみん)


「……何故だ……」


 声は、自分のものだった。

 だが、自分で発したという実感がなかった。

 まるで、ずっと胸の奥に押し込めていた言葉が、蓋を失って勝手に漏れ出したかのようだった。


===



挿絵(By みてみん)


 目の前に、それは、いた。

 人の形をしていた。

 だが、人ではなかった。

 輪郭はあるのに、目を凝らすほど焦点が合わなくなる、そんな存在だった。


「……何故、とは?」


 その声は、性別も年齢も感じさせなかった。

 ただ、静かで、どこまでも公平だった。

 公平さというものが、これほど恐ろしいと、田中は初めて知った。


「私は立ちたかった。この世の全てを見通せる場所に」


挿絵(By みてみん)


 言葉は、勝手に口から出た。

 田中自身、自分がそんなことを望んでいたとは、今の今まで、自覚したことがなかった。

 だが、口にした瞬間、それが紛れもない本音だと分かってしまった。


「何者にも縛られず自由に広い世界で、私は……!!」


 脳裏に、フラッシュのように、あの日々がよぎった。

 問題文の一語一語を、どう捻れば受験者が引っかかるか。

 その設計図を練り上げるたびに満たされた、あの全能感。

 ――全知全能の私が決めたルールを、あなたたちは記憶するしかない。

 いつかどこかで、自分自身が呟(つぶや)いていたはずの言葉が、今、他人の声のように頭の中で再生された。


「何故私のモノにならぬ?」


 その問いは、誰に向けられたものかも、田中自身、分からなかった。

 受験者にか。

 部署にか。

 それとも、この世界そのものにか。


===



挿絵(By みてみん)


「……おまえが己(おのれ)を信じないからだ。

 おまえ自身が成長しておらん」


 的確すぎる一言だった。

 田中は、何かを言い返そうとした。

 だが、白い空間の中では、言い訳という言い訳が、形を持つ前から崩れて消えていった。

 ここには、逃げ込める暗がりが一つもなかった。



「私は完全な存在になりたかった!

 この世の全ての上に立ちたかった!

 欲して何が悪い!望んで何が悪い!

 何様のつもりだ!!お前は!!」


 叫びながら、田中は、自分の声がどこか懐かしいことに気づいていた。

 ――これは、いつかの自分だ。

 机の前で一人、問題文を書きながら、誰にも見せなかった顔。

 その顔が今、白い虚空の中で、初めて誰かの前に晒されていた。


「……俺は、誰でもない。

 あえて言うなら真理だ」


「真理……だと?あうう……」


挿絵(By みてみん)


 その一言は、田中がこの三ヶ月、何度も何度も口にしてきた言葉を思い出させた。

「証拠がない」「学術データが」「証明されていない」――

 彼はずっと、真理の不在を、自分の盾にしてきた。

 その真理が今、盾ではなく、目の前に、正面から立っていた。


「思いあがらぬよう、正しい絶望を与えるのが真理。

 だからおまえにも……絶望を与えよう」


===


「いやだ……あそこには戻りたくない!!

 やめろ!

 私がルールに縛り付けられるのは嫌だ!

 私はどうすればよかったのだ……?」


挿絵(By みてみん)


 その問いは、悲鳴に近かった。

 15年間、ルールを他人に押し付け続けてきた男が、今、自分がルールに縛られることを、心の底から拒んでいた。

 その矛盾に、田中自身は、最後まで気づかなかった。


「おまえが望んだ結末だ」


===



挿絵(By みてみん)


「私はどうすればよかったのだぁぁぁ!!」


 その絶叫は、白い空間のどこにも反響しなかった。

 吸い込まれるように、ただ、消えていった。


===


挿絵(By みてみん)


「おまえはその答えを見ていただろうに……」


===



挿絵(By みてみん)


 その言葉と同時に、視界が、また色を取り戻し始めた。

 オレンジの空。

 住宅街の輪郭。

 空いた右の袖。

 ――連(れん)の顔。


「……田中さん?」


 ノアの声が、すぐそばで聞こえた。

 いつからそこにいたのか、田中には分からなかった。


「田中さん、今……何を見てたんですか」


 その問いに、田中は答えられなかった。

 答えようとしても、白い空間で見たものの輪郭が、目覚めた直後の夢のように、指の間からこぼれ落ちていく。

 ただ、一つだけ、はっきりと残っている感覚があった。

 ――俺は今、生まれて初めて、自分自身に、審判されていた。

 結城が、田中の顔を覗き込んだ。

 その顔は、蒼白で、目の焦点が合っていなかった。

 まるで、この世のものではない何かと、たった今まで対話していたかのような――そんな顔だった。


「なんか、様子がおかしいですね、この人。

 ……田中さん。聞こえますか」


 連(れん)の声にも、さっきまでの怒りとは違う、戸惑いが混じっていた。

 目の前で相手が崩れ落ちていく様は、彼が望んでいた「勝利」とは、明らかに違う手触りをしていた。

 田中は、地面に手をついたまま、掠(かす)れた声で呟(つぶや)いた。


「……私は……

 ルールを、作る側にいたつもりだった。

 だが……本当は、ずっと……

 自分自身のルールにすら、縛られていなかったんだ……」


 誰に向けた言葉でもなかった。

 ただ、白い場所に置いてきた何かへの、返答のようだった。


 ノアが語りかける。


「田中さん。

 最後に言っておきます」


「……」


「『危険かどうか分からないうちは断定できない。

 慎重になるべきだ』

 ……あなたは、そう言いましたね」


「……言った」


「では伺います。

 その慎重のまま何も変えず、何年か経って……

 そのあとで『影響がある』という結果が出てしまったら。

 その時、何が起きると思いますか」


「……」


「その『慎重』は、誰にとっての慎重なんですか」


 田中は答えなかった。

 夕暮れの空は、もう青と橙の境目を失っていた。


「その慎重は、危険に反転するんですよ。

 あなたが『査読(さどく)が』『学術データが』と結論を待っている間も、交差点は使われ続けます。

 問題は配られ続けます。

 これは子供のお遊びでも、重箱の隅をつつくための論文ごっこでもないんですよ。

 ……ゼンメルヴァイスという医師をご存知ですか」


「……いや」


「19世紀のウィーンの病院で、産科に勤めていた医師です。

 その病院には産科が2つあって、医師と医学生が受け持つ側では、助産師が受け持つ側より何倍も多くの産婦が産褥熱(さんじょくねつ)で亡くなっていました。

 彼が目をつけたのは、医師たちが遺体の解剖を終えたその手で、そのままお産に立ち会っていたことです。

 そこで塩素(えんそ)の溶液で手を洗わせたところ、1割前後あった死亡率が、1〜2%ほどまで下がりました」


「そ、それなら、めでたしめでたしだろう」


「医学界の答えは、拒絶でした。

 なぜ手を洗うと死ななくなるのか、その理屈を説明できていない、病気は瘴気(しょうき)や体質で起きるものだ、と細部を責め立てて、結論を長いあいだ棚に上げたんです。

 医者の手が患者を殺しているという話そのものを、侮辱と受け取った人も少なくありませんでした。

『紳士の手は清らかだ』と言い返した医師もいた、と伝えられています」


「……」


「その間も、お産を控えた女性たちは、同じ病室へ運ばれ続けました。

 子供を産むために入院した大勢の妊婦が、そのまま帰らなかったんですよ。

 ゼンメルヴァイス本人は、訴え続けた末に精神病院へ入れられ、ほどなくそこで亡くなりました。

 手洗いの正しさが広く認められたのは、彼の死後、細菌の存在が突き止められてからです」


「……」


「今では、自分たちの常識と食い違う証拠を、中身を確かめもせずに突っぱねてしまう反応を、彼の名前を取って『ゼンメルヴァイス反射』と呼ぶことがあります。

 では伺いますが、田中さん。

 今のあなたと、ゼンメルヴァイスを攻撃した医師たちは、何が違いますか」


「ち、違うに決まっているだろう!!

 向こうには死亡率という数字があった!!

 私に向けられているのは、素人の動画と仮説だけだ!!」


「では、数字の要らない話をしましょうか。

 以前お会いしたとき、3年後に但(ただ)し書きを取り落とす人が1人も出ないと保証できるか、と私は伺いました。

 あなたは『できる訳がない』と答えましたよね」


「そ、それは……」


「但(ただ)し書きが落ちる人がいると認めた時点で、その先は一本道なんですよ。

『信号機のある踏切で、青信号の場合に限り止まらなくていい』が抜ければ、頭に残るのは『踏切は止まらなくて良い場合がある』だけです。

 その一文を抱えた人が、遮断機も警報機もない踏切に差しかかれば『止まるための理由が本来より1つ少ない状態』か『そのまま進んで良い理由が1つ多い状態』で、ハンドルを握っていることになります。

 ……この因果関係、分かりますよね?

 論理の話です」


「うう……」


「たとえば、黄信号。

 本来は止まるのが原則で、進んでいいのは『停止位置に近づきすぎていて、安全に止まれない場合』だけです。

 ところが一部の人は、この条件をすっかり取り落として『赤じゃないうちは進んでいい』と受け取り、黄信号をみたら爆走します。

 但(ただ)し書きが抜けて、進む側の一文だけが残る……あなたの問題と、まったく同じ抜け方ですよ」


「……」


「黄信号は、引っ掛け問題でわざわざ例外を強調されたわけでもない、ごく普通のルールです。

 それですら、こうなるんです。

 人間には、進みたいという欲がありますからね。

 そこへ引っ掛け問題が但(ただ)し書きを落とさせて、進んでいい理由をもう1つ渡したら、どうなると思いますか?」


「……」


「それとも、この程度の因果すら、データがないと理解できませんか?」


「り、理屈は分かる!!

 だが、それで実際に事故が起きたかどうかは、また別の話で……」


「それこそ、ゼンメルヴァイスを攻撃した医師たちが口にしたことですよ」


「な……」


「解剖を終えた手で、そのまま産婦に触れている。

 その手が何かを運んでいるという道筋までは、彼はきちんと示していました。

 それでも医師たちは『なぜそれで死ぬのか、仕組みが説明できていない』と言って、手を洗わなかったんです。

 数字を突きつけられれば理屈を求め、理屈を示されれば数字を求める。

 理由の形が入れ替わるだけで、何も変えないという結論のほうは、最初から決まっているんですよ」


「……」


「あなたは今、数字がないとおっしゃいました。

 では、数字が出たら、次は何を求めるおつもりですか」


「……」


「それに、あの医師たちは悪人ではありませんでした。

 当時の最先端の学識を持ち、本気で患者を救おうとしていた人たちです。

 彼らもまた、自分では慎重なつもりでいたはずですよ。

 受け入れれば、自分の手で患者を死なせてきたと認めることになるから、証拠のほうを疑った。

 あなたが、ご自分の作った問題を疑えないのと、同じ形です」


「わ、私は……」


「彼らに求められていたのは、手を洗うことだけでした。

 薬も機械も要らない。

 桶に水を張って、塩素を溶かすだけです。

 それでも、彼らは洗わなかった」


「……」


「あなたに求められていたのも、問題文の条件を文の頭へ移すことだけでした。

 工場も止まらないし、印刷代も変わらない。

 1行書き換えるだけです。

 それでも、あなたは直さなかった」


 田中の喉が、ひくりと鳴った。


「手間の大きさが理由でないのなら、残る理由は1つしかありません。

 あの医師たちにとって、手を洗えと言われることは、自分たちの手が汚れていると言われることでした。

 だから侮辱だと受け取ったんです。

 ……あなたも、問題文を直せと言われることを、ご自分の15年への侮辱だと受け取っているんでしょう?」


「ち、違う……!!」


「分かりますよ。

 謹慎を告げられた日、あなたは『私の問題は芸術品だと、あなたたちも言っていたじゃないか』と叫んだそうですね。

 直すかどうかの話より先に、ご自分の作品が否定されたことのほうが、あなたには重かった。

 今日だってそうです。

 ここまでのあいだ、あなたの口から出てきたのは、証拠、法律、善意、制度、部署。

 どれも、ご自分の手を守るための言葉でした。

『では、直そう』という言葉だけは、一度も出てきていません」


「……」


「では、改めて伺います。

 あなたと、ゼンメルヴァイスを攻撃した医師たち。

 何が違いますか」


 田中は、口を開きかけて閉じた。

 言い返す言葉を探せば探すほど、それが180年近く前のウィーンで、誰かがすでに口にしたものに思えてならなかった。

 白衣の袖をまくりもせず、清らかなはずの手を組んだまま、証拠のほうを睨みつけていた男たちの姿が、自分の輪郭にぴたりと重なっていく。


「……道路の上に、保留という状態はありません」


「……」


「頭の中で止まっているのはあなただけで、外側は1秒も止まっていないんですよ。

 証拠がない。

 ここから出てくる結論は『断定できない』まで、です」


「そ、そうだろう!!

 だから私は――」


「『だから放置していい』は、そこから出てきません」


「わ、私は……疑わしきは罰せず、と言いたいだけだ……。

 証明されていない罪で人を裁くのは、法治国家として――」


「それ、借りてくる場所を間違えていますよ」


 ノアは即答した。


「刑事の原則が被告人側に倒れているのは、国家という巨大なものが、個人という小さなものを潰しにかかるからです。

 あの原則が守っているのは、権力に対して丸腰の人間なんですよ」


「……」


「では、今この場で被告人席に座っているのは誰ですか。

 制度です。

 試験です。

 ……そして、その原則で守られるのは、問題文を書き直す手間です」


「……」


「仮にあなたが間違っていて、問題文を直したとしましょう。

 その時、失われるものは何ですか」


「……」


「『緊急車両は赤信号でも進むことがある。○かXか』

 と書き換えるだけです。

 踏切なら『信号機のある踏切で、青信号が出ているときは、一時停止せずに通過できる』。

 交差点なら『優先道路を通行しているときは、見通しの悪い交差点でも徐行しなくてよい』。

 どれも、条件を文の頭に移すだけです。

 工場は止まりません。

 紙の印刷代すら変わらない」


「……」


「では逆に、あなたが間違っていた場合。

 その時、失われるものは何ですか。

 ……人の命ですよ。


 片方は問題文の書き換え。

 片方は人命です。

 この天秤(てんびん)、釣り合うと思いますか?」


 そこへ、結城が静かに口を挟んだ。


「……ノアくん。

 俺は一つ引っかかってるんだが」


「なんですか」


「なら、何故ここまで騒ぎが大きくなる前に誰も直さなかったんだ。

 アスベストやタバコの件なら、まだ話は分かる。

 あっちには守るべき工場があった。

 止めたら金が飛ぶ人間が、確かにそこにいた。

 だから認めなかった。

 それなら分かる。

 ……だが、今回は違うだろう。

 問題文を1行書き換えるだけだ」


「そこです」


 ノアは、田中を見た。


「田中さん。

 あなたの問題には、守るべき工場がないんですよ。

 ……なのに、直さなかった。

 何故だと思いますか」


「……そ、それは……」


 田中は、しばらく黙っていた。

 そして、絞り出すように言った。


「……私の、意地だ。

 いや……役所の、メンツだ。

 そう言いたいんだろう。

 自分たちの作ったものが間違っていたと、認めたくないだけだと」


「それだけではありませんね」


「……なら、他に何があると言うんだ」


「あの問題を直すというのは、『過去の出題は妥当だった』という前提を、自分の手で外すことです。

 外した瞬間、積んであったものが全部ぐらつく。

 過去の合否判定。

 落とされた人たち。

 教材。

 講習。

 ……どこまで波及するか、誰にも見積もれません」


「……」


「見積もれないコストは、どう扱われると思いますか。

 無限大として処理されるんですよ。

 金なら比べられます。

 でもこれは測れない。

 測れないから、常に『とんでもなく大きいかもしれない』という顔をして、担当者の前に居座り続ける」


「……」


「……お気づきですか。

 それも、慎重なんですよ。

 あなたと同じ形の、慎重です」


 田中の背筋が、冷えた。


「しかも、勘定が合わないようにできています。

 直す手間を払うのは、その場にいる組織の人間です。

 一方で、直した効果は数字にすら出ません。

 防げた事故は、起きなかった事故として統計に溶けるだけですから。

 直した瞬間『それまでは何だったんだ』と国民からは叩かれ、組織や同僚からは恨まれる。

 ……この設計で、自分から動く人は出てきません。

 だから、誰も直さなかったんですよ。

 超音速旅客機のコンコルドと同じですね。

 止めようと言い出した人間が、袋叩きにされるわけです」


「そ、そんな……」


「善意の人しかいなくても、同じ結果になるんです。

 悪人は1人も要りません。

 ……だから、名前がつかない。


 ……ですが、田中さん。

 私はまだ、言っていない事があります」


「……言っていない、事……?」


「合格率の話ですよ」


 田中の顔から、一瞬で表情が抜けた。


「合格率を一定の幅に収めるために、必ず何割か落とす必要がある。

 ……そのために、点差を作る装置が要ります。

 あなたの問題は、実際に働いていたんですよ。

 安全のためではなく、選抜のために。

 だから消えなかったんです。

 消したら、代わりの落とし方を誰かが用意しなければならない」


「ち、違う……」


 田中の声は、もう音として成立していなかった。


「違う。

 私は……あの交差点を見たんだ。

 26の時に。

 青信号で……子供が……

 私は、あれをもう一度起こさないために――」


「ええ。

 その気持ちは、本物だったんでしょうね」


 田中は、俯(うつむ)いたまま動かなかった。

 その肩が、小刻みに震えていた。


「私は、慎重になるな、とは言っていません」


「……え」


「『まだ分からないから、測ろう』

 これは正しい慎重です。

 むしろ、そうすべきです。

 ……私が言っているのは、そちらではありません」


「……」


「『まだ分からないから、何もしない』

 こちらです。

 測らないまま、結論だけを宙に浮かせておく慎重。

 ……同じ言葉で呼ばれていますが、中身はまるで別物ですよ」


「……」


「見分け方は、簡単です。

 その人が、測ろうとしているかどうか。

 それだけです」


 ノアは、田中に背を向けた。


「そして、田中さん。

 覚えておいてください。

 データというものは、いつか出ます。

 出ないままにはなりません」


「……」


「その日が来たとき、あなたがさっき口にした『慎重』は、弁護になりません」


 田中が、顔を上げた。


「……なぜ、だ」


「その日から遡って、誰かがこう数えるからです。

 あなたが慎重でいた期間に、何人が交差点を通ったのか」


 田中の全身から、血の気が引いた。


「……弁明のつもりで残した言葉が、そっくりそのまま日付入りの罪状になる。

 今日この場で、あなたはそれを口にしました。

 私も、彼も聞いています」


 ノアは、連(れん)を示した。


 連(れん)は、ずっと黙っていた。

 殴らなかった。

 残った左手は、開いたまま、もう固まらなかった。


「……俺はさ」


 ようやく、連(れん)が口を開いた。


「腕がなくなった日から、ずっと考えてたんだ。

 どうすれば元に戻るのかって。

 ……戻らないって、途中で分かった」


「……」


「だから、今日はもう、返してもらいに来たんじゃない」


 連(れん)は、空いた袖を一度だけ握った。

 袖の中に、握り返してくるものはなかった。


「……あんたが、待つのをやめるかどうかを、見に来たんだ」


 田中は、何も言えなかった。

 言葉は、喉の途中で全部止まっていた。


 3人は、そのまま歩き出した。

 誰も振り返らなかった。


 街灯が、一斉に点いた。

 自分の影が、アスファルトの上に長く伸びるのを、田中はぼんやりと眺めていた。


 影は、自分より先に、道の向こうまで届いていた。

 どこまで届いているのかは、そこからでは見えなかった。

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