本編12話 物理レイヤーハック ~パンチ穴の規格を殺し、インデックスを制御する少女~
ここは第1基盤世界で、ジャポンだ。
治療医事課にて――
「クソッ、まただ…」
俺は、紙カルテの最終ページで無残にちぎれ飛んだインデックスシールを見ながら、深く息を吐いた。この治療院は未だに紙カルテ運用だ。
数千枚にもなる記録の検索性を確保するため、俺が地道にインデックスを付けている。
ところが、現場はこの紙の束を容赦なく破壊していく。
看護師や医師が、インデックスシールそのものを掴んで乱雑にページをめくる。
シールが不自然な角度で折り曲がっているのにも気づかずに、そのままカルテを雑に扱う。
あるいは、インデックスだけをハンドル代わりにして、カルテの重さを支えようとする。
まるでこの脆弱な目印に恨みでもあるかのように、過剰な負荷をかけ続ける。
その結果、シールは紙の繊維ごと引き裂かれて飛ぶ。
そのたびに、俺の非効率な修復作業が発生する。
新しいシールを取り出し、裏表両面に手書きで文字を書き込み(このアナログな手間がどれほどの時間的コストか、誰もわかっていない)、慎重に元の位置に貼り直す。
もちろん、俺は医師や看護師の忙しさを理解している。
業務のスピードを落とさせないよう、至って冷静に修復作業に徹しているつもりだ。
だが、作業中にふと、冷たい感情が湧き上がるのを止められない。
お前ら、たかが紙のシールに、何の恨みがあるのだ。
なぜこんなにも、目の前の小さなシステムの破壊に無頓着でいられるのだ。
その理不尽な憎悪は、シールやカルテではなく、非合理性と、それを理解しない人間の無関心に向けられている。
そして、この終わりのない修復作業が、俺の理性をじわじわと蝕んでいくのを感じた。
その苛立ちの周波数を聞き分けたように、ノアはいつものフラットな声質で問いかけてきた。
「どうしたんですかユーキさん」
「ああ、ノアくん。もう限界だ。この高すぎる障害発生率は許容できない。
決めた、インデックスシートに仕様変更する。もうこの状況は我慢ならない」
「ん?インデックスシートってなんですか」
(ノアは本当に実務の知識に疎いな……まあ、社会人に成り立てだからな)
「いいか、インデックスシートというのはだな…タブと台紙を一体化させ、構造そのもので強度を担保する物だ。
物理レイヤーにおける『|単一障害点《シングルポイントオブフェイラー 》』の排除だよ」
「なるほど。
でも今から注文するとなると、結構時間かかりますね。
2週間くらいでしょうか」
2週間……注文から届くまでの時間がかかることは、当然初期段階から認識していた。
だが、ノアの無感情な口調でその待機期間を改めて告げられると、「その間も手作業を強いられる」という事実にうんざりした。
「ああ、その通りだ。
リードタイムは確実に2週間……
この期間に生み出される技術的負債を、俺1人で肩代わりしなければならない」
この2週間の間にも、不注意な使用者によって生み出される技術的負債を想像し、看護師やDrへの複雑な感情が再燃する。俺は改めて深い溜息を吐き出した。
「じゃあ、私がその間の代替品をつくりますよ」
俺は驚愕し、身を乗り出した。
「なんだと?そんな短期的な回避策が可能なのか?
どうやって、そのプロトタイプを即日開発するつもりだ」
「まあ、任せて下さい」
彼女が小さく握りこぶしを作ると、俺は即座に安堵した。
よかった、これで俺の時間を食い潰していたクソみたいな手作業から解放される。
ノアの合理的解決能力への信頼性は、いつも期待値を裏切らない。
1時間後――ノアのデスクからは、インクと紙の匂いが立ち込めていた。
「出来ましたよ、ユーキさん!」
「えっもう?設計からプロトタイピングまで1時間だと?」
「えー、皆さんも来て下さい」
なんだなんだ?と治療事務員たちが彼女のデスクの周りに集まる。
そこには、彼女がエクセルで印刷したサンプルのインデックスシートの裁断前の厚紙があった。A4で横向きの紙だ。
インデックスタイトルとともに、インデックスをうまく切れるようにハサミの切り取り線が印刷されていた。
左に印刷するだろうインデックスシートの図形があり、右に文字列があった。
それは次のとおりだ。
診療情報提供書 0
訪問看護 100
診断書 200
自立支援 300
主治医意見書 400
「?ノアくん、これは何だ?」
「はい。これは印刷するタイトルと、インデックスの位置です。
数字を変えると上下に移動します。
これで厚紙の色と高さを自由に指定できますね。
レセコンは新規ソフトインスール禁止ですが、これで代替できます」
ノアが数字を動かすと、インデックスが上下した。
そのVBAの動作は、一時しのぎとは思えないほど滑らかだった。
「名前の場所に選択マスが移動すると、左のインデックス図形もそのタイトルに変わります」
ほぉー、いつもながら丁寧な仕事だ。
一時しのぎにしては勿体ない、過剰品質だ。
それにしても…
「ノアくん、このインデックスは角度が鈍角になってないか?」
インデックスは通常四角に近い台形のはず(80度程度)だが、彼女のは45度程度と大きく角度を低くしている。
「ああ、それは切りやすいようにしています。
あまり角度を鋭利にしちゃうと、ハサミで切りにくいでしょう。
ちなみにインデックスじゃない部分は少しだけ普通のA4用紙より短くしてます。
これによってインデックス以外の紙部分が飛び出ることのないように工夫してます」
な、なるほど…自分で作らなくてよかった。
UX(ユーザー体験)や人の作業効率まで考慮に入れているとは。
やはり彼女に任せて正解だった。
それにしても彼女は恐ろしいところまで気が利く。
(ノアは、インデックスの用紙がもたらす『視覚的なノイズ』までを設計対象に含めていたのだ。
人が紙の端のわずかなズレにすら無意識に認知リソースを浪費することを、完全に予測し排除している……)
「強度が弱いので、ハサミで切った後はインデックス部分にテープを張って下さい。
この「ー」は、パンチ穴を開ける際に中央部分を合わせて使って下さい」
なるほど、厚紙だから折り曲げてパンチ穴の基準点を作るというアナログな手法は使えないものな。
物理的な制約まできっちり考慮している。
と、治療事務員の1人が彼女の印刷したサンプルの一つを手に取り
「ノアちゃん、これパンチ穴の基準の線がずれてるよ?」
パンチ穴の線が、ずれている?俺は目を疑った。パンチ穴の論理的整合性が崩れているのか?
「ああ、それはずらさないとインデックスの位置が重なってしまうんですよ」
<i1225248/51659>
衝撃的だった。
パンチ穴をずらしてインデックスの位置を変えるなんて聞いたことがない。
彼女はこんなローテクの物理レイヤーにまでその知性を消費している。
やめろ、そこまでしろとは頼んでいない!!!
俺は頭を抱えた。
この発想は、規格(パンチ穴の基準)そのものをハックしている。
「ん~、どういうこと?」
治療事務員は理解できなかったのか、再度彼女に訪ねた。
その呑気さが、この状況の異常性を際立たせる。
「えー、何ていうんですかね……」
ノアが返答に困っていると、ようやく事務員が理解したようで、
「あー、……多分わかった」
なんて呑気な返答だ。うそだろう!?
俺以外この異常な状況を理解できないのか!?
(……わかった、ではない!
「パンチ穴の規格を意図的に破壊し、インデックスの位置を物理的に制御する」という、このローテクでありながら極めて高度なロジックの異常性を、なぜ、なぜその一言で片付けられる!)
俺は、周囲の治療事務員たちの「理解できたこと」への安堵と、ノアへの「素朴な賞賛」の間に、巨大で深い断絶を感じた。
それは、俺が技術者として、世界から隔絶しているという、冷たい確信だった。
ノアの天才性は、彼女自身が規格外であるだけでなく、周囲の人間の認知レベルを、規格外の事態を「当然」と受け入れるように書き換えてしまう。
まるで彼女のロジックが、静かに、だが絶対的に、この事務室の『常識のコンフィグファイル』を上書きしてしまったかのようだった。
俺は、たった1人、ノアが繰り出す異次元の論理を理解し、その凄まじさを知っている。
それは、特権であると同時に、呪いだった。
ノアの側には天才の論理があり、事務員たちには無邪気な賛辞がある。
俺は、彼女が放った『論理の核弾頭』の威力を正確に測定できてしまう、唯一の観測者だ。
他の連中はそれを『綺麗な花火』だと思って眺めている。
この認識の乖離こそが、俺を蝕む真の毒だ。
(俺は、ノアの論理の凄まじさを誰よりも正確に理解できるが、それを誰も理解しない世界で、たった1人でこの狂気のシステムを見守り続けるしかないのか。
俺の知識は、この異常性を理解するためだけに消費され、そして誰にも共有されない――)
俺は、自分がこれから2週間、規格を無視したプロトタイプを使い続け、その非論理的な優位性を理解できない人々に囲まれながら、ノアの論理の絶対的な正しさを証明し続ける監視者となる運命を呪った。
俺の喉の奥で、「ほめていいですよ」というノアの声と「すごいね!」というエルフ・ドラゴニュート達治療事務員の軽薄な称賛と、「パンチ穴をずらす」という論理の暴力が、音もなく混ざり合い、吐き気に変わっていった。
その問題解決に費やされた知性のリソースは、国家級の課題に匹敵するはずだ。
それを、2週間凌ぐための紙切れに使ったのか……




