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天才ノアのパーフェクト・ロジック  作者: クーアウコ


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名探偵ノア13話 二重スリット・ファジー・トレース殺人事件 11話

 そして、田中は最後の地獄へ突入することになる。

 とある日――


 夕暮れの住宅街に、車のエンジン音がひとつ、遠ざかっていった。

 街灯がまだ点いていない時間帯だった。

 空は、青でも橙(だいだい)でもない、中途半端な色に沈んでいた。

 その色の中に、3つの人影が立っていた。


「また、お前か……」


 声が、勝手に喉から漏れた。

 ひと目で分かった。


挿絵(By みてみん)


 あの探偵2名が、また被害者を連れてきたのだ。

 距離はまだ十メートル以上あるはずなのに、その気配だけで、田中の膝はすでに笑い始めていた。


挿絵(By みてみん)


 あまりの剣幕と迫力に、田中は尻餅をついた。


 アスファルトの冷たさが、尾てい骨から背骨を伝って脳天まで突き抜けた。

 被害者が地獄の底から響くような声を出す。


「あの問題を作ったのはお前か……」


 ノアが補足する。


「田中さん、こちら事故に遭われた方です」


 被害者はプリントされた紙、1枚を持っていた。

 紙の端は、何度も握りしめられたせいで、しわが幾重にも折れ、毛羽立っていた。

 それは、取り寄せた実況見分調書《じっきょうけんぶんちょうしょ》の写しだった。

 「見通しの悪い交差点」「徐行せず進入」という文字の下に、赤いペンの線が何本も重ねて引かれていた。

 そして、片手が無かった。

 空いた右の袖口が、風もないのに、わずかに揺れた。


「お前が……お前のせいで……

 片手がないせいで、警察官にもなれず……。

 そして、お前は警察官か……!!」


 その言葉の中に、皮肉と絶望が同じ重さで詰まっていた。

 ――叶わなかった夢を、まさにその夢を奪った側の人間が、今も現役で身につけている。

 その事実だけで、連(れん)の声は震えていた。


「俺は小林(こばやし) 連(れん)だ!!

 あの引っ掛け問題のせいで事故を起こした!!

 ゴミ問題を作った人間の顔を見るため、会いに来た!!

 塀に囲まれた交差点だった!!

 左右なんか、何も見えなかった!!

 それなのに、頭の中で『見通しが悪くても、徐行しなくていい場合がある』って声がしたんだ!!

 優先道路の話だなんて、とっくに抜け落ちてた!!

 アクセルを戻さないまま鼻先を出したら、横から来た車とぶつかった!!

 弾かれた俺の車は、歩道にいた女の子を巻き込んだ!!

 俺の右腕は、そのとき潰れたんだ!!」


 ところが、田中はこんなときでも保身のことを考えていた。


(私(わたし)ノ人生(じんせい)を護(まも)ル……!ナントシテモ……!)


 田中には被害者の言葉は全く耳に入っていなかった。

 頭の中では現状をいかに乗り切り、かつ誤魔化すか、全細胞が自己保身へと向かって働いていた。

 言い訳の候補が、脳内で瞬時に何十パターンも並び、そのどれもが薄っぺらいことも、同時に理解していた。


「頼む、待ってくれ…!!」


「ふざけるな!!

 何を待つっていうんだ!!

 立て!!

 然るべき所に出ろ!!」


挿絵(By みてみん)

 

 一歩引いて見ていたノアが異常に気づく。


(おかしい……。

 何故私達を目の前にして、臨戦態勢に入らない……?

 わずかな言い訳すら、纏(まと)っていない。あれじゃ裸と同じ。論戦に勝てると思っているの…?

 言い訳に頼らなくても……いや…ありえない!

 連(れん)さんがみなぎらせているオーラは以前とは違う!!

 いかに田中でも完全に言い訳無しで対抗できるレベルじゃない……!!

 ならば間合いか?この距離ならば相手が仕掛けてきても十分に言い訳を発動させ、迎え撃てるという自信…!!

 それならばあり得(う)る。

 けど、何故?

 そうは見えない…!!

 あれは……そう、そうだ、あれはまるで……母親のよう。

 身を挺して、かつ自分を守っているような…!!

 そんなバカな!?あいつは…!!そんなやつじゃない!!

 けど……ならなぜ、あんな意味深な言い方を…?

 どうすりゃいい!?なんて言えば…!?)


 ノアが必死で自分の直感に抗(あらが)っている時、連(れん)の瞳には事故の時に横たわった少女と無くなった右腕が重なっていた。


 返答次第では田中の社会的生命が消える。

 でも田中はどう答えていいか分からない。

 極限まで張り詰めた空気の中で田中が選択した答えは……


「待ってくれ!!私は……!!

 どうしても学術データを知らなきゃいけないんだ!!」


 自分の罪の確定から逃げるため、遅延させることだった。

 そして、田中は本気で無実を信じていた。


「がくじゅつでーた…?

 がくじゅつでーた……何?」


 連(れん)の口から漏れたその言葉には、理解を拒む響きがあった。

 まるで異国語を初めて聞いたときのような、間の抜けた戸惑いだった。

 ノアが口を挟む。


「知らないといけない?田中さんの言う知らないといけないことって」


「ノアさん。

 俺が聞いてるんだ。

 ……でーたって何?」


「……査読(さどく)を通った学術データは……

 私が無実かどうか、知るモノです……

 まだ……まだ分からない。

 証拠(エビデンス)がない。

 誰も……誰も正式には証明してない。

 危険かどうか分かるまでは、断定できない。

 何も無いかもしれない。

 もっと慎重になるべき……。

 だから……だから……まってくれ!!」


 声が裏返っていた。

 地面に尻をついたまま、田中は手のひらを表にし、前に突き出していた。

 その姿は、命乞いというより、何かにすがりつく子供のそれに近かった。


挿絵(By みてみん)


「学術データ…ってこと?分析結果ってこと?

 はぁ…はぁ…勝手なこと…いいやがって…!!」


 連(れん)は懸命に戦っていた。

 その「戦い」は、田中に対してだけではなかった。

 連(れん)の中では、今すぐ殴りかかりたい衝動と、それをしてはいけないという理性が、拮抗していた。

 残った左手が、何度も開いては閉じた。


「勝手だよ……!!」


 戦い方すら見つけられない、自分自身と……

 殴れば、田中と同じ場所に堕ちる。

 だが殴らなければ、この痛みはどこにも行き場を持たない。

 その板挟みの中で、連(れん)の声は、怒声と嗚咽(おえつ)の中間をさまよっていた。


挿絵(By みてみん)


「畜生……っ

 誰が…っ。

 誰がお前の…お前の言うとおりになんか…っ」


 連(れん)が田中へと、にじり寄る。

 その一歩は、ゆっくりだった。

 だからこそ、逃げ場のない田中には、何よりも恐ろしかった。

 ノアが止める。


挿絵(By みてみん)


「連(れん)さん!ちょっと待って!!

 引っ掛け問題と事故を結ぶ学術データがないってのは、本当でしょう」


「……それで?」


「学術データが確定するまで分からない、証拠(エビデンス)がないってのも、多分本当です」


「……だから?」


「待ちましょう。学術的なデータがでるまで」


「『恐らく、多分』で待てって?

『引っ掛け問題による事故が1件も発生してないかも』ってのも、またおそらくか?

 多分?

 全部?

 本当?

 それ、確率何%だ?

 何千万人が十年間運転して、思い込みや条件の抜け落ちによる事故が一件もない確率、何%だよ!!


 ふざけるな!!ふざけんなよ!

どうかしてるんじゃないのか!?こんな…こんな奴の言うことを聞くのか!?

聞けるわけないだろ!?」


 連(れん)の声は、もはや田中にではなくノアに……いや、この場に立ち会う理不尽そのものに向けられていた。

 空いた右の袖が、激しく振られる腕の動きにつられて、ばさばさと音を立てた。

 田中がぼそっと喋る。


「……データが出たら責任を取ります」


挿絵(By みてみん)


「ずるい…ずるいぞ…チクショー!

 なんの責任を取るっていうんだよ!

 どうせまた口先だけだろ!!

 それとも申し訳程度の金か!?

 お前は何が出来るんだ?

 腕すら折れないくせに!!


 俺達にはあんな酷いことしたくせに!!

 なんの責任だよ!!

 失われた命と、お前のせいで人を轢(ひ)いてしまった加害者に対して、お前はなんの責任を取れる!!

 なんの責任を取れるっていうんだぁー!」


 連(れん)の絶叫は、住宅街の壁に反響し、しばらくの間、静かな夕暮れの中に、生々しい傷跡のように残り続けた。

 どこかの家の窓が、カーテン越しにわずかに揺れた。

 誰かがこの声を聞いている。

 だが、誰も外には出てこなかった。

 そして、田中がか細い声で応答する。


「データが出れば、部署としても正式に……!!」


「何が部署だ!!

 この期(ご)に及んで保身か!!

 このド三流!!

 自分の腕ぐらい折ってみせろ!!

 立って歩け!!

 前へ進め!!

 お前には、立派な腕がついてるじゃないか!!」


「そ、そんな事を言われても……」


「お前がやったのは、禁忌(きんき)だったんだよ!!

 試験問題って名前を借りただけの、人体実験だ!!

 壊した人生は、錬成じゃ戻らない!!

 なら、せめて――等価交換くらいはやってみせろよ!!」


「じ、自己犠牲…?

 私が…何を差し出せと言うんだ……!!

 私の……私のこれまでの15年間は……!!

 私にも、家族が……守るべきものが……!!」


 言った直後、田中は気づいた。

 ――守るべきもの。

 目の前の男からそれを奪った側が、今、同じ言葉を口にしている。

 連(れん)の目がすっと細くなった。


「……お前も、か!?」


「な……」


「お前も、守るべきものがある、って言うのか!!

 なら聞くけどな!!

 俺の…俺の守りたかったものは、誰が守ってくれた?

 俺の未来は、誰が等価で払ってくれた?

 払ったのは俺だけだ!!

 お前は、何も、払ってない!!」


 田中は、口を開いたまま、言葉が続かなかった。

(違う。

 そういう意味じゃない)

 だが、その先に続く言葉が、もうどこにも見当たらなかった。

 いつもならここで出てくるはずの盾――「証拠がない」「法律で決まっている」「善意だった」――そのどれもが、今この瞬間だけは、喉の奥で凍(こお)りついたまま、出てこなかった。


 その時だった。

 田中の視界から、色が抜けた。


 夕暮れも、連(れん)の空いた袖も、住宅街の輪郭も、すべてが一瞬で白く塗りつぶされた。

 音も消えた。

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