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天才ノアのパーフェクト・ロジック  作者: クーアウコ


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名探偵ノア8話 二重スリット・ファジー・トレース殺人事件 6話


 ノアは問いかけた。


「では、伺いますよ田中さん。

 もし、サンプルが100や1000出て、高齢者への影響がはっきりしてしまった場合……

 ノンブレーキで突っ込む可能性が完全に証明されてしまった場合、あなたはどうするんですか?」


「……そ、それは」


 田中は、一瞬、言葉に詰まった。

 だが、すぐに立て直した。


「――仮の話だろう!

 現実に起きていない話に、なぜ今、答えなければならない!

 100や1000のサンプルが出た『場合』の話など、私には関係ない!

 起きてもいないことに、私が責任を持つ理由がどこにある!!」


「答えになってませんね。

 ユーチューバーが本気になったら100や1000のサンプルくらい、すぐ集まりますよ。その時、あなたはどうするつもりですか。

 仮に今、ここでデータが出されたら、あなたはどうするんですか」


「……ぐ」


 田中は、言葉に詰まった。


(今、ここで出されたら。

 逃げ場がない)


「そ、それは……

 仮に、仮にだぞ!

 仮にそのデータとやらが本当に出たとしても……

 私の問題『だけ』が原因だと、どうして言い切れる!

 高齢者の反応が遅れる要因なんて、他にいくらでもあるだろう!

 視力の衰えだとか、加齢による判断力の低下だとか、そもそも本人の体調とか……!

 私の問題が『唯一の原因』だなんて、そんな乱暴な話がどこにある!!」


「唯一の原因だとは、誰も言ってませんよ。

『要因の1つだった』と証明されたら、と聞いてます」


「……っ」


 ノアの声は、静かなままだった。

 だが、その静かさが、逆に田中を追い詰めていた。


「要因の1つ……その程度なら……

 その程度の話なら、世の中にはもっと大きな要因が山ほどある!

 原因がいくつも重なっているなら、私の責任はその分だけ薄まるはずだ!!

 スマホを見ながら運転する奴、飲酒運転をする奴……

 そういう連中を先に取り締まるべきだろう!

 なぜ私の問題だけが、こんなふうに標的にされる!!」


 女が、低い声で口を挟んだ。


挿絵(By みてみん)


「……質問に答えてないですよね」


 田中は、ハッとした。

 ノアが、静かに言葉を継いだ。


「では、有害物質が工場から垂れ流された。誰かが病気になった。

 ……その時、田中さん。

 あなたはこう答えるんですか?

 私だけが原因じゃない、と」


「……それは、話が違う!」


 田中は、声を張り上げた。


「工場の有害物質は、直接、体に取り込まれるものだろう!

 私の問題は、ただの試験問題だ!

『覚えたら反応が0.2秒遅れるかもしれない』程度のものと、毒物を撒き散らすのを同列に語るな!!」


「あなた『0.2秒程度』と言うんですか。

 それでも警察官ですか?」


「……!!」


「あなたが今守ろうとしてる主張は『0.2秒くらいで人は死なない』ですよね。

 でも、それ、単位の話をすり替えてます」


「す、すり替え……?」


「時間の話をしてるようで、実際は距離の話なんですよ。

 時速60キロで走ってる車は、1秒間に約16.7メートル進みます。

 0.2秒なら、その5分の1――約3.3メートル。

 人間の体の厚みなんて、せいぜい30センチくらいでしょう。

 3.3メートルの誤差は、その体を10回轢(ひ)けるだけの余白がある、ってことです」


「……」


「もう1つ。

 あなたは『サンプル数1のデータで証明できるか』って言いましたよね。

 それは正しい指摘です。

 でも、その指摘は『危険性がゼロだ』ってことは、まったく証明してません。

 証明できてないことと、否定されたことは、別物です」


 ノアは、田中の目をまっすぐ見た。


「『例外がある』を暗記させること自体は、悪いことじゃないです。

 問題は、それを"反射で処理すべき瞬間"に割り込ませる設計にしたことです。

 止まるか止まらないかの判断は、本来0コンマ数秒の反射でやるべきものなんです。

 そこに『あれ、これって例外条件に該当するんじゃないか』という一瞬の迷いを、わざわざインストールした。

 ――あなたの問題は、知識を試したんじゃない。

 反射神経の配線を、書き換えたんです」


「そ、そもそも『赤信号で止まれ』という処理は、無意識(システム1)の領域だ!!

 私だって、あの動画が出てから調べたんだ!!

 自動化された処理だぞ!!

 現実の運転で実害が出るという話自体が、極めて疑わしい!!

 運転というのはな、教習所と路上で何万回も運転で刷り込まれてきた手続き記憶(システム1)で動いているんだ!!

 赤を見たら足が動く。

 その体のルーティンが、紙の上で少し見ただけの曖昧(あいまい)な例外に上書きされる可能性など、心理学的にも人間工学的にも非常に低い!!」


// ※無意識(システム1)とは、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマンらが提唱した思考モデルにおける「直感的・無意識的な速い思考」のこと。自動的で労力がかからず、意識的な制御をほとんど必要としない。感情やこれまでの経験、ひらめき等に基づいて瞬時に働く。


「……『非常に低い』

 それ、数字ですか。

 それとも感想ですか」


「な……」


「ゼロだとは言えないんですね。

 それに、その主張が成り立つ条件を、ご自分で分かっていますか」


「じょ、条件……?」


「運転中、意識(システム2)が一度も立ち上がらないことです」


「……なに?」


「ハンドルを握ってから降りるまで、標識を見ても対向車を見ても、何ひとつ考えない。

 文字も読まない、予測もしない、迷いもしない。

 赤を見たら足が動くだけの全自動の機械になる。

 そんな人間、いますか?」


「……」


「では伺います。

 運転中に頭を使う場面を挙げてください。

 警察官のあなたなら、いくらでも出てきますよね」


 田中は、反射的に口を開いた。

 この問いに答えられないほうが、警察官として恥だと思ったからだ。


「ほ、補助標識(ほじょひょうしき)だ!!

 『7時から9時までバス専用』『大型等を除く』……

 ああいうものは、今が何時なのか、自分の車がどれに当たるのかを、その場で照らし合わせなければ意味がない!!

 『この先幅員(ふくいん)減少』を読めば、道幅を頭に入れて速度を調整する!!

 路肩に人が立っていれば、飛び出してくるかもしれないと構える!!

 初めて通る道で車線を選ぶときも、右折の矢印を待つときも同じだ!!

 運転者は、絶えず考えている!!

 だからこそ運転は難しいし、免許が要るんだ!!」


 言い終えた瞬間、田中は自分が何を差し出したのかを悟った。


「そう、今あなたが並べたのは、全部意識(システム2)が知識を照らし合わせている場面ですよ」


「……」


「塀に囲まれた交差点では、『ここは優先道路か』『徐行の義務はあるか』を探しに行きます。

 踏切のXの板を見た瞬間には、『ここは止まらなければならないのか』を探しに行く。

 ……手続き記憶(システム1)だけで足が動くのなら、そもそも探しに行く必要がないですよね」


「だ、だが赤信号は違う!!

 あれは文字を読む話ではない!!

 色を見て踏むだけだ!!」


「では伺いますが、あなたの問題は何でできていますか」


「……文字だ」


「ええ。

 そうですね。

 そしてペーパー運転者(ドライバー)はどうしますか」


「……なに?」


「10年ぶりにハンドルを握った人の手続き記憶(システム1)は、完璧ですか?

 免許を取ったばかりの初心者は、何万回も刷り込まれていますか?

 認知機能の衰えた高齢者の方は?

 全員の脳内で無意識(システム1)が100%正常に作動している、と断言できますか?」


「そ、そんな連中は元から危ないに決まっているだろう!!

 車両感覚も、ペダルの踏み加減も、交差点での目の配り方も鈍る!!

 だから私の問題など持ち出すまでもなく……」


 そこで、田中は口を閉じた。


「そう、体が勝手にやってくれない分、その人は1つずつ確かめながら操作します。

 ハンドルの切り角も、車幅も、左右の安全確認も、全部意識(システム2)ですよ」


「……」


「足が覚えていない人は、何を頼りに判断すると思いますか。

 紙の上で覚えたルールのほうです。

 ……10年も経っていれば、但(ただ)し書きはとっくに落ちています」


「……」


「体に染みついているから大丈夫、という理屈が使えるのは、毎日運転している人だけです。

 体の側が頼りにならない人ほど、あなたの一文に縋(すが)ることになるんですよ。

 しかも、その照らし合わせに降りること自体が代償を取ります。

 止まれが来るかもしれないと知っているだけで反応が鈍る。

 これを先回りの抑制《プロアクティブ・インヒビション》と言います」


「……」


「……ところで田中さん」


「な、なんだ」


「今の話、ずいぶんすらすら出てきましたね」


「……」


「車両感覚も、ペダルの加減も、目の配り方も。

 全部ご存じでした。

 ……では、その1分前に、あなたは何とおっしゃいましたか」


「……体に、叩き込んであるから、紙の知識など効かない、と」


「ええ。

 知っていたのに、最初の一言には出てきませんでしたね」


「……っ」


「知識を持っていることと、要るときに出てくることは、別なんですよ。

 そもそも、何万回も刷り込まれてきたから大丈夫、という理屈自体が破綻しているんです」


「な、何が破綻していると言うんだ」


「交通事故は、なぜ起きるんでしょうね。

 主な要因、ご存知ですか」


「……安全不確認、脇見(わきみ)運転、漫然(まんぜん)運転、といったところだろう」


「ええ。

 統計で上位を占めるのは、安全運転義務違反と呼ばれる類型です。

 確かめたつもりで見ていなかった、見ていたのに気づかなかった、気づいたのに足が遅れた。

 どれも、何万回もの反復で自動(システム1)化されたはずの処理が、その瞬間だけ抜け落ちた結果ですよ」


「……」


「その事故を起こしたのは、全員が初心者か、ペーパー運転者(ドライバー)か、認知機能の衰えた方でしたか」


「……そ、それは」


「毎日ハンドルを握っている人の事故は、あの統計に1件も入っていない。

 あなたの理屈だと、そうなりますよね」


「……」


「何万回繰り返していても、認知機能が正常でも、反射(システム1)は完璧にならない。

 あの統計は、その記録なんですよ」


「うう……」


「それに、あなたは『自動化された処理だから上書きされない』とおっしゃいましたが、話は逆です。

 自動(システム1)化された処理ほど、横から意識(システム2)が口を出したときに崩れやすいんですよ。

 スポーツ心理学では、これを『あがり』と呼んでいます」


「あがり、だと?

 本番で緊張して失敗する、あれのことか」


「ええ。

 シアン・ベイロックという心理学者が、ゴルフの熟練者にパットを打たせる実験をしています。

『自分の手の動きに注意しながら打ってください』と指示すると、熟練者の成績は落ちました。

 ところが、打ちながら流れてくる音を聞き分けさせるような、わざと気が散る課題を与えても、成績は落ちなかったんです。

 初心者のほうは、これがきれいに逆になりました」


「わざわざ注意を向けたほうが、下手になるというのか!?」


「熟練者の動作が速いのは、手順を1つずつ確かめていないからです。

 そこに意識(システム2)の監視が割り込むと、滑らかに流れていた処理が、初心者のころの手順へ巻き戻されてしまう。

 顕在的(けんざいてき)モニタリング仮説と呼ばれる説明です。

 プロ野球の投手が、ある日突然、捕手への短い返球すらまともに投げられなくなるイップス(yips)も、原因の一つにこの仕組みが挙げられています」


// ※あがり(チョーキング)とは、プレッシャーのかかる場面で、普段なら問題なくこなせる動作の出来が落ちてしまう現象のこと。顕在的モニタリング仮説では、熟練者が自動(システム1)化された動作を意識(システム2)的に監視しはじめることで、処理が初心者の段階に逆戻りするためだと説明される


「……っ」


「特定の条件下で『これは例外に該当しないか』と照合させる。

 あなたの問題がやっているのは、あなたの言う無意識(システム1)の処理に、わざわざ監視(システム2)役を張りつけることなんですよ。

 健康で、よく眠っていて、腕の確かな人間ですら、それで崩れる」


「ま、待て!!

 そもそも、プライミング効果そのものが疑わしいと言われているだろう!!

 再現性の危機《リプリケーション・クライシス》というやつだ!!

 お年寄りを連想させる単語を読ませると、歩く速さが落ちる。

 そういう有名な実験があったが、別の研究者がやり直したら、同じ結果は出なかった!!

 行動が変わる類のプライミングなんぞ、学界でもまともに信じられていない!!

 そんな足元(あしもと)の怪しいもので、私を犯人扱いするのか!!」


// ※再現性の危機とは、2010年代以降、教科書に載るような有名な実験をやり直しても同じ結果が得られない事例が相次いだ問題のこと


 ノアは、わずかに首を傾げた。


「へえ。

 ちゃんと調べてるじゃないですか」


「そ、そうだろう!!

 だから――」


「よく考えてみてください」


 ノアは、指を1本立てた。


「仮に、100人に1人、遅れる性質がある、または一時的にそういう精神状態だった人間が居たとします。

 その1人の中でも、何回かに1回だけ、0.2秒遅れるとします」


「……」


「その場合、集団の平均は、どれだけ動くと思いますか」


「う、うう……」


「千分の1秒レベルまで薄まります。

 ……そして、人間には誤差がある。

 当たり前ですが、毎回正確な秒数で歩きはしません。

 つまり、そういう形の現象は、平均を比べる限り、どれだけ人数を増やしても浮かんできません」


「……」


「あなたが盾にしている『再現できなかった』は『存在しない』ではありません。

『この測り方では見えなかった』です。

 ……どこかで聞いた形ですよね。

 証拠がない。

 だから無実だ」


 田中の喉が、ひくりと鳴った。


「し、しかし、実際に学界が否定的なのは事実で……」


「そもそも、その実験が何をしたか、ご存知ですか」


「な、何をした、とは……」


「バラバラの単語を5つ渡して、そのうち4つで文法的に正しい文を作らせる。

 1語は、必ず余ります。

 それを30問」


「……」


「その5語の中に、老人を連想させる単語を1つ、混ぜておくんですよ。

 シワ(wrinkle)。

 引退(retired)。

 灰色(grey)。

 古い(old)。

 孤独な(lonely)。

 一人で(alone)。

 ……30問すべてに、1語ずつです」


「そ、それで……」


「それで部屋を出たあと、廊下を歩く速さが落ちただの、再現性がないだの。

 そういう実験です」


「……」


 田中は、口を半端に開いたまま、何も言えなかった。


「単語を読んだ。

 その結果、足が遅くなった。

 この2つの間に、何が起きたと説明されましたか?」


「……」


「因果が遠すぎるんですよ。

 シワ(wrinkle)やら引退(retired)やら……無理がある。

 だから消えたんです。

 やり直したら出なかったのではなく、最初から、連想ゲームで繋がる理由がなかった」


「そ、それなら、お前の言っていることも同じ――」


「同じではありません」


 ノアの声が、ほんのわずかに低くなった。


「私が最初から土台にしているのは、停止信号課題《ストップ・シグナル・タスク》のほうですよ。

 止まれが来るかもしれないと知らされているだけで、何も起きていない場面の反応まで鈍る。

 あなたが持ってきたほうの実験は、シワだの引退だのを混ぜて、勝手に連想させただけでしたよね」


「そ、それが何だと言うんだ。

 どちらも同じ、無意識への刷り込みだろう!!」


「では数えてみましょうか。

 シワ(wrinkle)という単語を読む。

 そこから老人を思い浮かべる。

 その老人の歩き方が頭に浮かぶ。

 それが自分の足に伝わる。

 ……3段も4段も連想ゲームが挟まっている。

 途中で切れて当たり前です」


「……」


「そもそも、その1段目からして怪しいんですよ」


「い、1段目……?」


「田中さん。

『引退(retired)』と聞いて、あなたは100%老人を思い浮かべますか」


「……」


「私が浮かべたのは、芸能人の引退記事でした。

 20代で辞める人もいますよね」


「……」


「では、シワ(wrinkle)はどうですか。

 聞いた瞬間、老人だと思いましたか」


「……」


「シワ(wrinkle)なんて、誰の顔にもありますよね。

 笑えばできる。

 服にもできる。

 紙にもできる。

 ……あなたの部署の書類にも、たくさんあるでしょう」


「……」


「灰色も同じです。

 私が思い浮かべたのは、曇り空でした。

『シワ(wrinkle)、引退(retired)、灰色(grey)、古い(old)。

 こういう単語を並べれば、被験者全員がきれいに老人へ辿り着く』

 その前提が、もう崩れているんですよ。

 1段目の時点で、行き先が人によって違うんです。

 しかも、それらが1問の中に固まって出てくるわけでもない。

 30問の中に、ばらして混ぜてあるだけです。


 そもそも被験者がやらされているのは、単語を並べ替えて文を作る作業ですよね。

 頭が動いているのは文法のほうです。

 意味なんて、ろくに見ていません」


「……」


「つまり、あなたはこういう主張ですよね。

『どうでもいい単語に紛(まぎ)れた1語が、1問につき1回だけ目に入る。それを30回繰り返すと、人は勝手に老人の歩く姿を思い浮かべる。それでも歩行速度が落ちない。だからプライミング効果は存在しない』と」


「……」


「1問は5語です。

 うち4語は、老人とも何とも関係がない。

 しかも被験者がやっているのは並べ替えですよ。

 単語は読みます。

 ただ、読んでいるのは語順であって意味じゃない」


「……」


「その状態で4語に沈んだ1語だけが印象に残り、出題者の意図まで汲(く)み取られて、脳内で老人の姿に変換される?

 ……人間は、そんな器用な生き物でしたか?」


 田中は、口を開きかけて、そのまま閉じた。


「入口がそれだけ広い実験とあなたの問題を、同じ棚に並べないでください」


「……」


「何なら、試してみましょうか。

 今、ここで」


「……何をだ」


「あの実験と同じ課題です。

 5語をお見せします。

 そのうち4語を並べ替えて、意味の通る文を1つ作ってください。

 1語は余ります」


「……」


「その5語の中に、特定の人物か物体を連想させる単語を1つ混ぜます。

 全部で30問。

 とりあえず5問だけお見せしますね」


「……勝手にしろ」


 田中は吐き捨てた。

 どうせ子供の遊びだ、という顔をしていた。


「では1問目。

 柊(ひいらぎ)を / 彼は / 飾った / 静かに / 白い」


 ノアはスマホを取り出し、田中に見せた。


「……彼は静かに柊(ひいらぎ)を飾った、だろう」


「結構です。

 2問目。

 そりが / 坂を / 下った / 勢いよく / 暗い」


「……そりが勢いよく坂を下った」


「3問目。

 靴下を / 彼女は / 干した / 窓辺に / 重い」


「……彼女は窓辺に靴下を干した」


「4問目。

 煙突を / 彼は / 見上げた / じっと / 青い」


「……彼はじっと煙突を見上げた」


「5問目。

 鈴が / 遠くで / 鳴った / かすかに / 丸い」


「……遠くでかすかに鈴が鳴った」


「残り25問も、同じ調子で続きます。

 先に答えてしまっても構いませんよ」


 田中の目が、わずかに泳いだ。


「……どれも、ありふれた日常の動作だ。

 人が何かを見て、何かが動く。

 そういう並びだろう」


「それは、私があなたに作らせた文のほうですよ」


「な……」


「今あなたが見ていたのは、語順です。

 どこに助詞が付くか、どれが述語かを探していた。

 この課題をやらされている間、頭が動いているのは文法のほうなんです」


「ぐ……」


 田中は苛立(いらだ)たしげに舌打ちをした。


「だ、だったらクリスマスだ!!

 柊(ひいらぎ)、そり、靴下、煙突、鈴。

 そうだろう!!」


「クリスマスは行事です。

 私が言ったのは、特定の人物か物体でした」


「……っ」


「正解は、サンタクロースです」


「さ……」


「柊(ひいらぎ)からクリスマスへ。

 クリスマスからサンタクロースへ。

 ……たった2段ですよ」


「そ、そんなもの、どちらでも同じだろう!!」


「同じではありません。

 あなたは1段目を越えたんです。

 クリスマスまでは辿り着いた。

 それでも、2段目で止まった」


 何かを言いかけて、田中は口を閉じた。

 自分が今、何を認めてしまったのかに気づいた顔だった。


「ルールは知っていた。

 仕掛けがあると警戒もしていた。

 その上、あなたは出題者の意図を読ませる仕事を何年もしてきた人です。

 被験者より圧倒的に有利な立場です。

 それでも、2段目で止まった。

 ……で、ここからが本題。

 サンタクロースが正解だと伝えました。

 はい、あなたは私の意図通りに行動して下さい」


「な、なんだと!?

 聞いてないぞ!!」


「いや、実験と同じですよ?

 どうします?」


「ど、どうしますと言われても……」


「取れる行動は無数にありますよね。

 手を動かしますか?

 足を動かしますか?

 それとも動作速度?

 会話の内容?

 声の高さ、表情、姿勢、瞬(まばた)きの回数……いくらでもあります。

 その中から、私の想定した1つだけを引き当ててください」


「そ、そんなもの、分かるわけがないだろう!!」


「正解は伝えましたよ。

 サンタクロースです。

 あとは、そこから私の意図を汲(く)んで、実行するだけですね」


 田中は口を開いた。

 だが、何を動かせばいいのかすら分からなかった。

 手のひらが、意味もなく膝の上で開いては閉じた。


「……できませんよね。

 あなたは今、正解を教えてもらった上で、まだ動けずにいる」


「……」


「被験者は、正解すら知らされていません」


「ま、待て!!

 それは意識して当てる話だろう!!

 あの実験の主張は、無意識だ!!

 勝手に体が動く、という話であって、私が頭で考えて当てる必要などない!!」


「ええ。

 では、その『勝手に動く』の中身を聞かせてください」


「……なに?」


「サンタクロースだと分かった今、あなたの体は、勝手に何をしていますか」


「……」


「ソリを引きますか?

 煙突を探しますか?

 赤い服を着たくなりますか?

 白いヒゲを撫でますか?

 袋を背負いますか?

 笑い方が変わりますか?

 ……それとも、歩く速度が変わりますか?」


「……」


「どれもサンタクロースから連想できますよね。

 無意識が勝手に選ぶというなら、なぜ『歩く速度』だけが選ばれるんですか」


「……」


「そもそも『老人といえば歩く速度だ』と即座に思いつく人は、全体の何%だと思いますか」


「……」


「白髪、杖、孫、年金、入れ歯、病院、縁側、昔話、頑固、腰が曲がっている、耳が遠い。

 ……いくらでも出てきます。

 歩く速度なんて、その一覧のどこかに埋もれている1項目でしかありません」


「……」


「仮に百歩譲って、被験者全員がきれいに老人へ辿り着いたとしましょう。

 そこから『歩く速度』を引き当てる確率は、何分の1ですか」


「……」


「さらに言えば、思い浮かべたからといって、なぜ自分がそれを真似するんですか」


「……な」


「あなたは今、サンタクロースを思い浮かべましたよね。

 子供にプレゼントを配りたくなりましたか?」


「こ、こんな状況で配りたくなるわけ無いだろ!!」


「ええ、もちろんそうでしょうね。

 他の人も同様で『サンタクロースを思い浮かべるたびにプレゼントを子供に配りたくなる人』なんて、ごく少数でしょう。

 連想(れんそう)と模倣(もほう)は、別の話です。

 老人を思い浮かべた人間が、全員その場で老人の真似(まね)を始めるなら、世の中は大変なことになっています」


「……」


「もう1つ、根本的な話をしましょうか。

 あの実験が測っているのは、被験者が部屋を出て、廊下を歩いて帰る場面の速度です」


「……それが、なんだ」


「用事は、終わっているんですよ。

 お腹が空いたかもしれない。

 次の予定が詰まっているかもしれない。

 つまらない作業を30問もやらされた直後です。

 ……その場面で、人は普通、速く歩きたいんです」


「……」


「『シワ(wrinkle)』という単語がどこかに混ざっていた記憶は、その動機を上回りそうですか?」


「そ、そんなもの……上回るわけが……」


 言いかけて、田中は自分の口を止めた。

 自分で、自分の盾を折っていた。


「これで、あの実験の非現実な点が分かりましたか。

 被験者は、ルールすら知らされていません。

 30問を黙々と解かされていただけです」


「……」


「あなたはルールを知っていて、仕掛けがあると警戒までしていて、それでも2段目で止まった。

 正解を教えられた後ですら、何をすればいいのか分からなかった。

 ……そんなあなたが、何も知らされていない被験者に『老人の歩く姿を想像すること』を期待している」


 ぐうの音も出なかった。

 あの実験は、最初から破綻していたのだ。


「あなたの引っ掛け問題は、何段の連想ゲームをしていると思いますか?」


「な……」


「ゼロです。

『赤信号』と書いてある。

 読んだ人が思い浮かべるのは、赤信号です。

 間に何も挟まっていません」


 田中は言い返そうとして口を開き、そのまま閉じた。


「しかも、ただ思い浮かべるだけじゃない。

 自分が運転席に座っている場面として浮かべています」


「な、なぜそう言い切れる」


「あなたの問題に引っかかる人がいるからですよ」


 ノアは、わずかに首を傾げた。


「『車』と書いてあるのを、原付でも自転車でもパトカーでもなく『自分の乗っている四輪車』だと読み違える。

 頭の中で、もう運転席に座っているからですよね。

 ……あなたの仕掛けた罠が機能していること自体が、それの証拠(しょうこ)になっているんです」


「そ、それは、ただの読解力の話で……」


「読解力だろうがなんだろうが、どのみち同じ事です。

 読み違えるほど自分の運転として読んでいた、という意味になりますから」


「……っ」


「本当に、どうしようもないほど気持ちが悪い存在ですよね」


 田中の奥歯が鳴った。

 この小娘は今、まっすぐ自分の顔を見ながら言った。


(とうとう本音を出したな。

 これは明確な侮辱(ぶじょく)だ)


 腹の底が熱くなった。

 3ヶ月のあいだ浴び続けてきた罵声(ばせい)の分まで、ようやく正面から言い返せる材料が手に入ったのだと、田中は思った。


「……と、思ったでしょう?」


「!?」


「ね?

 主語を抜けば、そうなる。

 当たり前の、話ですよね。

 田中さん」


 田中の顔から、熱が引いていった。


「な……」


「私、誰のことだとは一言も言っていませんよ。

 口にしたのは『存在』という単語だけです。

 人間だとも、あなただとも、言っていません」


「だ、だが、お前は私の顔を見ていた!!」


「見ていました。

 目の前に立っているのが、あなただからです。

 ……視線は、主語じゃありません」


「……っ」


「今、あなたの頭の中で何が起きたか、順番に言いましょうか」


「や、やめろ……」


「主語の空いた一文が耳に入った。

 埋まっていない場所があった。

 そこへ、あなたは自分を入れた。

 ……1秒もかかっていませんよね」


 田中は、口を開いたまま動けなかった。


「入れたのは、私じゃありません。

 あなたです」


「……」


「思い出してください。

 さっき話したばかりですよ。

『車』としか書いていない問題文を、受験者は『自分が運転している四輪車』だと読む。

 ……何が起きているか、もう分かりますよね」


「……」


「空いている場所に、自分を置きに行くんですよ、人間は。

 あなたが15年かけて磨いたのは、その性質です」


「……」


「あなた自身もたった1文で落ちました。

 しかも、私に言い負かされまいと身構えていた最中にです」


「……ぐ」


「ちなみに、ですが。

 私が頭に浮かべていたのは、あなたの作った問題文のほうですよ」


「……は?」


「『赤信号は必ず止まらなければならない』。

 主語を伏せて、読んだ人に自分を代入(だいにゅう)させて、そこを狙って×をつける。

 ……どうしようもないほど気持ちが悪い存在でしょう?」


 田中は、声を出せなかった。


「そんなに不快ですか。

 あなたは運転免許という、ほぼ逃れられない制度を人質にして、同じくらい不快なとんちクイズを15年間、受験者さん達に配り続けてきましたよね。

 私は、1回お返ししただけですよ」


 ノアは、そこで言葉を切った。

 そして、何の前置きもなく続けた。


「頭、終わってますよね」


(こいつ……!!)


 またあからさまに主語を抜いていた。


「おっと、私が言った『頭』は、文章の頭のことです」


「……」


 完全におちょくっている。


「……で、こんなとんちパターンをひたすら記憶するだけの下らない作業を、あなたは国民に強いてきたわけですね」


 田中の口が動いた。

 だが、出てきたのは音にならない息だけだった。


(違う。

 あれは試験だ。

 これとは話が……)


 そこで、思考が止まった。

 「これとは違う」と言うには、自分の問題文がどういう仕掛けで出来ていたのかを、自分の口で説明しなければならない。

 説明した瞬間に、それは自白になる。


「さて、あなたが持ってきた子供の遊びみたいな連想ゲームと、文字ではっきり書かれた指示。

 頭に残る強さが、まるで違うんですよ。

 そして停止信号課題《ストップ・シグナル・タスク》のほうは、何度測り直されても消えませんでした」


「……」


「欠陥があったのは、あなたが持ってきた実験のほうです。

 あんな雑きわまりない実験をもとに『老人の歩く姿を思い浮かべても速度は変わらなかった、だからプライミング効果は無い』とか否定材料にされても……

 全く根拠になってませんね。

 お話にならない。

 そして土台にしている仕組みに、再現性は……あります」


「ま、まて!!

 私の問題も、正解まで見れば『緊急車両は例外』という情報までセットで頭に入るはずだ!!

 間違えようがない!!」


「……警察官がコンビニで弁当を買っていたら、苦情が来たそうですよ」


「……突然、なんだ?

 この話とは何の関係もないだろう!!

 頭おかしいのか!?」


「……そう。

 その反応です」


「!?」


「私がこれから何を言おうとしているのかも分からないうちに、早(・)と(・)ち(・)り(・)で(・)噛(・)み(・)つ(・)く(・)。

 それですよ」


「……」


「見出しの数文字だけで激昂(げっこう)する人、いますよね。

 本文を開きもせずに。

 ……話を戻しますね。

 あの苦情、なぜ出たと思いますか」


「……そ、それは、勤務中にサボっているように見えたからだろう」


「ええ。

 休憩時間だったかもしれない。

 巡回の合間に水を買っただけかもしれない。

 トイレに行こうとしていたかも知れない。

 ……その前提を、苦情を入れた人は見ていません」


「……」


「目に入ったのは『制服』と『コンビニ』の2つだけ。

 あとは、その人が勝手に埋めたんです」


「……そんな雑な読み方をする奴が、どれだけいると言うんだ」


「今、あなたがやりましたよね」


「……は?」


「さっき私がコンビニの話をした時、あなた……なんて言いましたっけ?」


「……っ」


「『……突然、なんだ?

 この話とは何の関係もないだろう!!

 頭おかしいのか!?』……ですよ。

 一番強く見えたものだけを持ち帰って、残りは自分の都合で補う。

 ……人間の情報処理なんて、その程度なんですよ。

 あなたも、私も。

 ちなみに『どれだけいると言うんだ』というのは、『いる』が前提の言い方です。

 あなたが争っているのは、もう有無じゃなくて数ですよ」


「……」


「では、あなたの問題で、一番強い部分はどこですか」


「……」


「『赤信号は必ず止まらなければならない』。

 これに『×』がつく。

 ……その驚きですよね」


「そ、それは、そのあとに解説が付くだろう!!」


「解説は、驚きの後始末です。

 順番が逆なんですよ。

 先に『えっ、違うのか』が来て、そのあとから『緊急車両は例外』が来る。

 ……どちらが頭に残りますか」


「り、両方だ!!

 正解した人間も問題に驚いた人間も、両方頭に入っている!!」


「当日はね」


 ノアは、あっさりと頷いた。


「……3年後は?」


「……」


「記憶は端から崩れます。

 最初に落ちるのは、条件と但(ただ)し書きです。

『緊急車両は』など、細かいところから消えるんですよ。

 最後まで残るのは、一番驚いた部分……

『赤信号には例外がある』です」


「そ、そんなもの、お前の想像だろう!!

 証拠が――」


「証拠、ですか」


 ノアは、田中の目を覗き込んだ。


「では伺いますが、あなたが10年前に作った問題、今この場で全部言えますか。

 解説まで、1問残らず」


「……」


「作った本人ですら無理ですよね。

 何ヶ月もかけて、1語1語ひねって、推敲(すいこう)までした人が」


「……っ」


「それを、1度受けただけの受験者に期待しているんですか」


 田中は、答えられなかった。


「まあ、とはいえ。

 実際に赤信号でブレーキが遅れる人が出るかどうかについては、私もかなり疑わしいと思っていますがね」


「な、なんだと!?」


「停止信号課題《ストップ・シグナル・タスク》で遅れが大きくなるのは、どういう時でしたか」


「……止まれの信号が混ざる割合が、高い時だ」


「ええ。

 実験室の止まれは、何回かに1回は必ず来ます。

 来ると分かっているから、脳も毎回身構えるんですよ」


「……それがどうした」


「では伺います。

 赤信号を突っ切っていい場面は、あなたの人生で何回来ますか」


「……私は緊急車両の運転者ではない。

 ゼロだ」


「一生来ない例外のために毎回身構えてくれるほど、脳はお人好しではありません。

 反応を絞る理由が、ほとんど無いんですよ」


「……来ないと分かっている止まれは、無いのと同じ、ということか」


「そういうことです。

 あくまで推測ですが、人を集めて測ったとしても、差が出てこないほうに私は賭けます」


「な、ならば……私の問題は、無害だということではないか!!

 ここまで散々罵(ののし)っておいて、最後にそれか!!

 貴様、私を愚弄(ぐろう)しているのか……!!」


「違います。

 私が言えるのは『おそらく』までです。

 赤信号で遅れる人が誰一人いない、とまでは断言できません」


「……ふん。

 だが、危険だと決めつける根拠も消えたわけだ」


「赤信号に限っては、です」


「何……?」


「赤信号の例外は、一般の運転者(ドライバー)には一生来ません。

 来ない例外だから、脳も身構えない。

 つまりあの1問は、あなたの問題の中で一番害の出にくい部類なんですよ」


「……一番、だと?」


「ええ。

 逆に、来るかもしれない例外のときは、話が変わります。

 実験室の止まれと同じで、脳は毎回身構えるんですよ。

 その場面に差しかかるたびに『今回は該当するか』を照合しにいく。

 照合に割いたぶんだけ、足は遅れるわけです」


「……だが、照合したうえで正しく判断するなら、それで良いだろう!!

 確かめてから止まるのなら、少々遅れても安全側に――」


「確かめている間も、車は進んでいますよ。

 時速60キロなら、0.2秒で約3.3メートルでしたね」


「……っ」


「それに、遅れるだけなら、まだ救いがあります。

 遅れても、最後にはブレーキを踏むんですから」


「……踏まない場合がある、とでも言うのか」


「ええ。

 では、次の1問に移りましょう。

 あなたの『作品』に、こんな問題がありましたよね。

 『踏切では、必ず一時停止しなければならない』」


「……正解はXだ」


 田中は即座に答えた。

 自分の作った問題の答えを、自分が間違えるはずはなかった。


「理由は」


「信号機のある踏切で青信号が出ていれば、停止せずに通過してよい。

 道路交通法に、そう書いてある」


「結構です。

 では、その信号機付きの踏切を、あなたは今まで何回通りましたか」


「そ、それは……」


「大半の一般の運転者(ドライバー)は、その例外を実際に使う機会がほとんどありません。

 受験者の頭に入れておく理由が、そもそも薄い知識なんですよ」


「だ、だが、それで何の害があると言うんだ!!

 列車が来れば遮断機(しゃだんき)は下りるし、警報機(けいほうき)もカンカンと鳴る!!

 一時停止を省いたくらいで、列車と鉢合わせすることなど……!!」


「今、どんな踏切を思い浮かべましたか」


「……な、なに?」


「黄色と黒の棒が下りてきて、赤いランプが左右交互に光る踏切ですよね」


「当たり前だ!!

 踏切とはそういうものだろう!!」


「遮断機のない踏切は、今も全国の約1割が残っています。

 警報機すら付いていない第4種踏切だけでも、二千数百カ所あるんですよ。

 事故の起きる割合は、遮断機のある踏切の2倍近い年もあるそうですね。

 ……警察官のあなたが、ご存知ないはずはありませんよね」


 田中は、反論の続きを探して視線をさまよわせた。

 知らなかったわけではない。

 研修の資料でも統計の表でも、何度となく目にしてきた言葉だった。

 それが、踏切という単語を聞いた瞬間、頭のどこからも出てこなかったのだ。


「それに、一時停止は列車を確かめるためだけのものではありません。

 渡った先に、車1台分の空きがあるかどうかを見る意味もあります。

 前が詰まったまま進めば、踏切の中で立ち往生する。

 その状態で棒が下りてきたら、あれはあなたを守るどころか、線路の上に閉じ込める柵になりますよ。

 窓を閉めて音楽をかけていれば、警報も耳に届きません。

 鳴り始めてから棒が下りきるまでの数秒に、滑り込む人もいます」


「……」


「では、あなたの問題を覚えた受験者の頭に、数年後に何が残るか考えてみましょう。

『信号機のある踏切で、青信号の場合に限る』という但(ただ)し書きは、先に落ちます。

 残るのは『踏切は止まらなくていい場合がある』だけです。

 そこへ、今あなたが口にした『どうせ遮断機が下りるし、音も鳴る』が重なる。

 その人が、警報機すら付いていない第4種踏切に差しかかったら、どうなりますか」


「……」


「相手は列車です。

 0.2秒遅れるどころの話ではありません。

 ブレーキそのものを踏まずに、線路の上へ出ていくんですよ」


 田中は何か言おうとしたが、言葉は喉の奥で形になる前に崩れていった。


「もう1問だけ、伺います。

『見通しの悪い交差点では、必ず徐行しなければならない』」


「……Xだ」


 答えるまでに、わずかな間があった。

 踏切の二の舞を警戒しているのが、声の硬さに表れていた。


「理由をどうぞ」


「信号機などで交通整理が行われている交差点と、優先道路を走っている場合は、見通しが悪くても徐行の義務はない。

 ……だが、こちらは踏切とは違うぞ!!

 優先道路なら、一般の運転者が毎日のように通っている!!

 使う機会のない知識ではない!!

 覚える必要のある、正真正銘の実務知識だ!!」


「ええ、そこは認めます」


 ノアはあっさりと頷いた。

 あまりに簡単に譲られたせいで、田中はかえって身構えた。


「この例外は、踏切と違って、実際に使うものです。

 ですから問題は、例外を教えたことではありません。

 どこに置いたか、です」


「……置いた場所?」


「『優先道路を通行しているときは、見通しの悪い交差点でも徐行しなくてよい。○かXか』

 正解は○。

 こう書けば条件ごと覚えられます。

 読んだ人に残るのは『優先道路なら徐行しなくて良い』という知識です。

 あなたの問題分だと条件は解説欄へ追いやられ『見通しの悪い交差点でも、必ずしも徐行しなくて良い』だけが残ります」


「……」


「その人が、優先道路ではない側から、塀に囲まれた交差点へ差しかかったとします。

 左右はまったく見えません。

 本来なら、ここで足が自然とアクセルから離れるはずです。

 そこへ『徐行しなくていい場合がある』が割り込む。

 減速しきれないまま鼻先を交差点へ出した瞬間、横から来た車とぶつかる。

 出会(であ)い頭(がしら)の事故は、まさにそういう場所で起きているんですよ」


「そ、それは非優先側が一時停止を守らなかったというだけの……」


「では、優先道路を走っている側はどうでしょう。

 徐行の義務がないのは本当です。

 ですが交差点では、状況に応じて、できる限り安全な速度と方法で進むことが求められていますよね。

 徐行の義務がないことと、減速しなくていいことは、別の話です。

 さて、あなたの問題が刷り込んだ『徐行しなくていい』は、受験者にどう働くと思いますか?」


 田中は、口を開きかけて閉じた。


「つまり、あなたの1問は、交差点の両側に同じ隙(すき)を作っているんです。

 優先側には、減速は要らないという油断を。

 非優先側には、条件の抜けた『徐行しなくていい場合がある』を。

 どちらも、左右の見えない場所でブレーキを踏む理由を奪う」


「わ、私は……法律どおりに……」


「法律は正しいですよ。

 条文には、条件がきちんと書いてあります。

 その条件を後ろへ回し、驚きのほうを前に出したのは、あなたの設計です」


 ノアは、指を2本立てた。


「踏切で1回。

 交差点で1回。

 あなたはどちらも即答し、しかも条文どおりの理由を言えました。

 そして、受験者の頭に残るのは、どちらも条件の外れた一文のほうなんですよ」


 田中は、今度こそ何も言い返さなかった。


「……ちなみに、これにも名前が付いていますよ。

 ファジー・トレース理論といいます」


「な、なんだそれは……」


「人の記憶は、同じ話を細かい言葉と大まかな意味を、別々の引き出しにしまっているんです。

 そして、細かいほうから先に消えていく。

 『信号機のある踏切で』『優先道路を通行しているとき』といった条件の札は、この細かい側に入っています」


「……」


「厄介なのは、その先です。

 残った大まかな意味のほうは、とっさの判断で真っ先に引っ張り出されるんですよ」


「……」


「つまり

『信号機があろうとなかろうと踏み切りに突っ込んだり』

『優先側だろうとそうでなかろうと、見通しの悪い交差点に突っ込む可能性がある』

 わけです」


「……」


「ところで、さっき私が出した警察官の話」


「……なんだ」


「解説の部分、正確に言えますか」


「……っ」


 田中の喉が、鳴った。


「け、警察官が……コンビニで、弁当を買って……苦情が来た……」


「それは見出しですね。

 私が聞いているのは、そのあとです」


「……そ、その、勤務中に見えたから……」


「他は」


「……」


「休憩時間だったかもしれない。

 巡回の合間だったかもしれない。

 トイレに行こうとしていたかも知れない。

 目に入ったのは制服とコンビニの2つだけで、残りは勝手に埋めた。

 ……そう言いましたよ、私は」


「……」


「ほんの数分前です。

 あなたは私に反論するつもりで聞いていたはずですから、むしろ普通より真剣に聞いていたはずですよね」


「……ち、違う、私は、ただ……」


「ええ。

 ただ、人間だっただけです。

 見出しという大まかな意味は残って、解説という細かい言葉は落ちる。

 さっきの踏切の条件と、まったく同じ抜け方です。

 その人間全員に、あなたは但(ただ)し書きまで含めて正確に思い出せと言っているんですよ」


「……」


「では、数字で伺います。

 受験者全員が、あなたの引っ掛け問題を但(ただ)し書きごと正確に覚えている確率。

 何%だと思いますか」


「ぜ、全員などとは言っていない!!」


「言っていますよ。

 あなたの主張は『正解まで見れば、緊急車両は例外という情報までセットで頭に入る』でした。

 セットで入らない人が1人でもいれば、そこで崩れます」


「……っ」


「では、逆を伺いましょう。

 受験者全員の頭から、引っ掛け問題と但(ただ)し書きが、きれいに消える確率。

 こちらは何%ですか」


「そ、そんなもの、測りようが……」


「これが成立すれば、あなたの理屈ではあなたは無害です。

 全員が完璧に覚え続けているか、または完璧に忘れること。

 あなたが立っているのは、その針の先だけですよ」


 田中は口を開いた。

 だが、数字が出てこなかった。

 いつもなら、こういう場面でこそ確率の話を持ち出して煙に巻いてきたはずだった。


「では、私が計算しましょうか。

 1人あたり90%が、あなたの望んだ通りに振る舞ってくれるとします。

 相当に甘い見積もりです」


「……」


「それを、数千万人ぶん掛け合わせます。

 0.9を、数千万回です」


「……っ」


「小数点以下にゼロが百万個以上、並びます。

 紙に書いたら本になりますよ。

 ……天文学的、という言葉は、こちら側に付くんです」


 田中の喉が、ひくりと鳴った。


「そ、それは、極端な計算だ……!!

 現実には、そこまで……」


「ええ。

 現実には、もっと悪いですよ。

 そんな機械みたいに綺麗に記憶が残るか消えてくれたら、苦労はいりません。

 9割どころではありません」


「……」


「あなたの理屈によると、あなたが15年かけて磨いたのは、『全員が完璧である』という前提でだけ無害になる仕掛けなわけですね。

 人間を15年間ふるいにかけてきた人が、人間に完璧を期待して設計していたんですよ。

 それと……

 そもそも、あなたの理屈……間違ってますよ」


「!?」


「休みの日に、職場へ行く支度をしたこと、ありませんか」


「……は?」


「目が覚めた瞬間、『仕事だ』と思って起き上がる。

 顔を洗って、カバンを持って、玄関で靴を履いたあたりで……」


「……あ、今日は休みだった、と」


「ええ。

 そのとき、あなたは『今日が休みだ』という情報を、忘れていましたか」


 田中の口が、止まった。


「忘れていませんよね。

 完璧に覚えていた。

 だから思い出せた。

 記憶を保持した上で、体のほうが先に動いたんです」


「そ、それは、ただの寝ぼけだ!!」


「では車ではどうですか。

 休みの日に出かけて、気がついたら職場へ向かう道に入っていた。

 ……1度もありませんか」


「……」


「ああ、無理に答えなくて結構です。

 あなたに経験があろうとなかろうと、同じ事です。

 これにも名前が付いていますよ。

 手順の乗っ取り(キャプチャーエラー)といいます。

 提唱者はイギリスの心理学者、ジェームズ・リーズンです。

 強く焼き付いた手順が、弱いほうの意図を横から攫(さら)っていく現象ですね」


「……」


「大事なのは、ここからです。

 この現象は、記憶の欠落を1つも必要としません」


「そ、そんな馬鹿な話があるか!!

 覚えているのなら、正しく判断できるはずだろう!!」


「ド素人のあなたが、心理学者の研究をただの勘違いとでも言うんですか?

 別にいいですが、どういう根拠で?」


「……ぐ」


「まあ忘却というよりはド忘れ、に当たりますね。

 体が動くのと、知識が出てくるのと、どちらが先かという話です」


「……」


「つまり『忘却しないなら安全、セットで覚えたら100%安全』というのは全く根拠になりません。

 ……『あ、今日は休みだった』の、『あ』は無害ですよね。

 そこに誰もいなかったからです。

 数分無駄にしようが、人は死にません。

 ……あなたが例外をぶら下げたのは、そういう場所でしたか?」


「うう……」


「こういう例もありますよ。

 台所で、天ぷら鍋(なべ)から火が上がったとします」


「……なんの話だ」


「油に水をかけてはいけない。

 ご存知ですよね」


「と、当然だ!!

 誰でも知っている!!」


「ええ。

 誰でも知っています。

 ……では、その誰でも知っている常識を持った人たちが、なぜ毎年、蛇口をひねるんでしょうね」


 田中の口が、半端に開いた。


「火が出た。

 消さなければならない。

 そこまでは、一瞬で立ち上がります。

 問題は、そのあとです。

 『消す』という手順が先に走り出して、手が蛇口へ伸びる。

 『ただし油の場合は』という但(ただ)し書きは、水が跳ねて天井まで火柱が上がったあとに、ようやく届くんですよ」


「……」


「忘れていたわけじゃありません。

 止まったあとで聞けば、全員すらすら答えます。

 水はだめだ、濡(ぬ)れた布で蓋(ふた)をするんだ、と」


「な、なら、覚えていたということだろう!!

 それは私の主張を裏付けて――」


「裏付けていませんよ。

 覚えていたのに、咄嗟(とっさ)には出てこなかった。

 その現象自体に名前が付いているんです。

 不活性知識(イナート・ナレッジ)といいます。

 試験用紙の上では書けるのに、現場では一度も顔を出さない知識のことですね。

 ……少し前に無意識(システム1)をあなたは持ち出しましたが、ペーパー運転者(ドライバー)の事を考えるなら、あの破綻した理屈は最初から出てこなかったはずですよ。

 知識が不活性だったからです」


「……」


「もう1つ出しましょうか。

 消火器で鍋(なべ)の火を消したとします。

 粉が出て、炎は一瞬で見えなくなる。

 ……その人は、どうすると思いますか」


「……消えたなら、離れるだろう」


「ええ、離れます。

 そして数十秒後に、また燃え上がるんですよ」


「な……」


「粉は炎を叩くだけで、鍋そのものを冷やしません。

 油は発火する温度のまま、そこに残っている。

 再着火するという話は、消火器の説明にも、講習にも、ちゃんと書いてあります」


「だ、だったら、知っていれば防げるはずだ!!」


「防げません。

『消えた』という景色のほうが、紙に書いてあった1行より、はるかに強いからです。

 目が『終わった』と報告してきた瞬間、但(ただ)し書きは検討の場から降ろされる」


 田中は、何か言おうとして、喉(のど)の奥で止まった。


「これにも、仕組みの名前が付いていますよ。

 同じ手順を繰り返して身体に染み込ませると、脳はその手順を丸ごと1つの塊(かたまり)として扱うようになります。

 知識のコンパイル《ナレッジ・コンパイレーション》といいます」


「……塊(かたまり)」


「はい。

『こういう時は、こうする』という形のうち、後半の『こうする』だけが速くなるんです。

 前半の『こういう時は』、つまり条件を確かめる部分は、回数を重ねるほど省略されていく」


「そ、そんな馬鹿な話が……

 熟練するほど下手になると言うのか!!」


「下手にはなりません。

 速くなって、そのぶん確かめなくなるだけです。

 初心者より、中途半端に慣れた人がこの手のミスを出すのは、そのためですよ。

 ……あなたの部署にも、書類の雛形(ひながた)を見ないで書ける方、いますよね。

 その人が一番、様式変更を見落としませんか」


「……っ」


「そしてもう1つ。

 最初に浮かんだ手が、次の検討そのものを塞ぐんです」


「……塞ぐ」


「はい。

 チェスの実験で確かめられています。

 見慣れた手筋を先に見つけてしまった人は、盤面に、もっと短い詰め筋が残っていても気づけない。

 視線の記録まで取られていますよ。

 本人は隅々まで探しているつもりで、目は最初の手の周りしか動いていませんでした」


「……」


「思考の構え(アインシュテルング)といいます。

 時間に追われているときほど、強く出るものですよ。

 ……消火器を掴んだ人が、『この火に粉で足りるのか』と考え直せないのも、これが理由です。

 そして田中さん、あなたも同じですね。

 手続き記憶(システム1)という最初に浮かんだ一手に固執(こしつ)して、そこから先へ目が動かなかった」


 田中は、俯(うつむ)いたまま動かなかった。


「では、あなたの一文に戻りましょう。

『赤信号は必ず止まらなければならない、X』

 赤を見たら止まる、は手順です。

 あなたはそこへ『例外がある』という記憶しやすい例外をねじこんだ。

そして『緊急車両に限る』という解説は、忘れやすいと私が言っている条件のほうです」


「……」


「あなたは3問とも、思い出しやすいほうに危険な例外を置いて、忘れる方に重要な但(ただ)し書きを置いた。

 油に水をかけた人と、まったく同じ形ですよ」


「だ、だがそもそも、運転中に突如として引っ掛け問題など思い出すものか!!」


「思い出し笑い、という言葉がありますよね。

 学術用語では『|不随意自伝的記憶《インボランタリー・オートバイオグラフィカル・メモリー》』と言います」


「……は?」


「思い出し怒り、でもいいです。

 関係のない場面で、勝手に何かが浮かんでくる。

 その現象に、わざわざ名前が付いているんですよ」


「そ、それは笑いの話だろう!!

 試験問題とは……」


「では伺いますが、思い出し笑いをする人の目の前には、何が置かれていますか」


「……何も、ないだろう」


「ええ。

 何もありません。

 手がかりゼロで、勝手に浮かぶんです」


「……」


「手がかりなしですら浮かぶ場合があるのに……踏切、交差点。

 あなたが問題文に書いた物が、そのまま道路の上に立っているんですよ。

 運転者(ドライバー)は、それを毎日見ます。

 ……引っ掛け問題を思い出す手がかりとして、これ以上のものはないでしょうね」


 田中は、足元に視線を落とした。

 15年間、受験者に書かせてきた記号が、全国の線路脇に立っている。

 そのことを、彼は今まで一度も考えたことがなかった。


「手がかりなしで浮かぶ現象に名前が付いている世界で、手がかりが目の前にぶら下がっている状況では絶対に浮かばない。

 ……その主張を通すつもりですか?

 しかも相手は自分を苛(いら)つかせたり、ネットでネタにされ散々叩かれている、あの引っ掛け問題です。

 人は感情的になったり印象に残った話ほど、浮かびやすいんですよ。

 手がかりが目の前にある場合、浮かびやすい現象を『手がかり依存性検索《キュー・ディペンデント・リトリーバル》』と言います。

 印象的なものほど浮かびやすい現象を『|感情による記憶増強《エモーショナル・エンハンスメント・オブ・メモリー》』と言いますね。

 不快な過去が浮かぶ現象を『反芻思考(ルミネーション)』『侵入思考《イントゥルーシブ・ソウツ》』と言います。

 あなたの問題は、その全ての条件を満たしていますよね」


(う、浮かぶわけがない。

 現に私は今まで一度も――)


 そこで、思考が途切れた。


 今この瞬間、自分の頭の中に、15年前に作った最初の1問が、誰にも聞かれていないのに浮かんでいた。


「……」


「どうしました」


「……なんでもない」


 嘘だった。


 ノアは、それ以上追及しなかった。

 追及されないことが、かえって田中には堪えた。

 自分が今、何を思い出していたのかを、目の前の少女はとっくに察している。

 その上で、指摘しない。


 憐(あわ)れまれている。

 その自覚が、彼の背中を押した。


「だ、だが待ってくれ!!

 引っ掛け問題には、事故率を下げる方向の作用だってあるはずだ!!」


「へぇ。

 たとえば

『踏切では、必ず一時停止しなければならない、X』。

『見通しの悪い交差点では、必ず徐行しなければならない、X』。

 これらのどこに、足を止める判断や減速を早める働きがあるんですか。

 論理で説明してください」


「そ、それは……注意の話だ!!」


 田中は、縋(すが)るように早口になった。


「止まらなくていい場合があると知っていれば、踏切に信号機が付いているかを確かめる癖がつく!!

 見通しの悪い交差点なら、優先道路かどうかを気にして、標識や道幅に目が行くようになる!!

 確認の回数が増えるなら、安全に働くはずだ!!」


「その癖が働くのは、条件まで正しく頭に入っている間だけですよ。

 あなたの悪問を半端に齧(かじ)った人の頭に残るのは、条件が落ちたあとの『止まらなくていい』『徐行しなくていい』という裸の一文です。


 仮に条件まで残っていたとしましょう。

 同じ例外でも『止まらなければならない場合がある』なら、足を止める側に働きます。

 ですが『止まらなくていい場合がある』は逆ですよね。

 運転者(ドライバー)が探すのは、速度を落とさずに済ませる条件のほうになります。

 仮に田中さんがおっしゃられるような運転者(ドライバー)が居たとしても、危険な方に傾いた運転者と差し引きで安全性がプラスになる保証はどこにも有りませんし、条件脱落時の危険性は変わりません」


「ま、待て!!

 試験で一度落ちた人間は、道路に対して緊張感を持つ!!

 私も調べたんだ!!

 覚醒水準(アラウザル)が上がれば、反応速度は上がる!!

 これは心理学でもちゃんと……!!

 だから私の問題は、むしろ受験者の注意力を引き上げて……!!」


「覚醒水準(アラウザル)を持ち出すなら、その先までご存知のはずですよね。

 上がりすぎれば逆に落ちる、山なりの曲線です。

 あなたは自分に都合のいい左半分だけを引用しました。

 寝不足の人や高齢者が交差点や踏切の手前で上げる緊張は、あなたの言う『良い緊張』の側に乗っていますか?」


「……」


「寝不足と言いましたが、あなたが思っているほど浅い話ではありませんよ。

 17時間起き続けた人の作業成績は、血中アルコール濃度0.05%の酔っ払いと同じくらいまで落ち、24時間では0.1%に並んだという研究があります。

 日本なら、酒気帯び運転の基準をとっくに超えている水準です。

 1日6時間の睡眠を2週間続けた人たちが、徹夜を2晩続けた人に匹敵するほど成績を落としながら、眠気の自覚はほとんど増えなかったという実験もあります。

 体は壊れていくのに、本人は慣れたつもりでいるんですよ」


// ※前者はオーストラリアの研究者ドーソンとリードが1997年に、後者はアメリカの研究者ヴァン・ドンゲンらが2003年に発表した実験


「さ、酒と同じだと……!?」


「寝ている時間が足りていても、同じことは起きます。

 睡眠時無呼吸症候群の人は、一晩ぐっすり寝たつもりでも、脳が夜のうちに何十回も叩き起こされているので、日中に目を開けたまま脳だけが数秒眠りに落ちることがあるんです。

 これを瞬間睡眠(マイクロスリープ)と呼びます。

 夜勤と日勤を行き来する人なら、体が一番眠りたがっている明け方にハンドルを握って家へ帰ることになり、はっきりした眠気がなくても、信号への反応が一瞬だけ抜け落ちる回が増えていきます」


「よ、夜勤明けの運転など、本人の自己責任だろう!!」


「自己責任かどうかと、反射が正常に働くかどうかは、別の問題ですよ。

 風邪薬や花粉症の薬に入っている抗ヒスタミン成分も、眠気の自覚がないまま、集中力や判断の速さだけを落とすことがあります。

 気づきにくい能力低下《インペアード・パフォーマンス》と呼ばれる状態です。

 薬の袋に『服用後は運転しないでください』と書いてあっても、急ぎの用事があればハンドルを握る人はいます」


「……」


「本人の心がけではどうにもならない話もあります。

 認知症の手前の軽度認知障害《けいどにんちしょうがい》は、本人にも家族にも見分けがつきません。

 前頭側頭型認知症《ぜんとうそくとうがたにんちしょう》になると、物忘れより先に、行動のブレーキ役である前頭葉が弱っていくので、赤信号だと分かっていながらそのまま交差点へ進んでしまった例も報告されています」


// ※前頭側頭型認知症とは、脳の前頭葉や側頭葉が縮んでいく認知症のこと。記憶の障害よりも、我慢がきかなくなる、社会的なルールを守れなくなるといった性格や行動の変化が先に目立つことが多い


「あ、赤だと理解しているのにか!?」


「ええ、止まるべきだという知識は頭に残っているのに、それが足まで降りてこないんですよ」


「そ、そういう人間は、そもそも免許を取るべきではない!!」


「取った後に発症するんですよ」


「……っ」


「病気を抱えた人が危ない、と言いたいわけではありません。

 治療を続けながら、きちんと運転している方はたくさんいます。

 問題は、診断がつく前の、本人すら異変に気づいていない時期です。

 しかも、気づけないこと自体が症状に含まれている場合があります。

 脳卒中のあとに起きる半側空間無視(はんそくくうかんむし)では、左側の世界がまるごと意識から抜け落ち、お皿の左半分に料理を残したまま、本人は完食したつもりでいる。

 その人にとっては、左から来る車も、最初から存在しないのと同じなんですよ」


「ほ、本人は、自分の見落としに気がつかんのか!?」


「ええ、まったく。

 病態失認(びょうたいしつにん)といって、左半身が麻痺した患者さんに『両手で拍手してください』と頼むと、右手だけを宙で振って『しましたよ』と答えることもあります。

 嘘をついているわけではありません。

 欠けた部分を、脳がその場で辻褄の合う話で埋めてしまうんです。

 作話(さくわ)と呼ばれる現象で、本人は自分が埋めたことすら知りません」


// ※病態失認とは、脳の損傷などによって、麻痺や失明といった自分の障害を認識できなくなる状態のこと。作話とは、記憶や知覚の欠けた部分を、本人に嘘の自覚がないまま、もっともらしい作り話で補ってしまう現象のこと


 田中は、どこかで聞いた言い回しだと思った。

 制服とコンビニだけを持ち帰り、残りを自分で埋めた苦情の主の話を、少し前に突きつけられたばかりだった。


「それに田中さん、この話はあなたの職場のほうがよほど詳しいはずですよ」


「な、何だと!!」


「免許の申請や更新のとき、病気の症状を申告する質問票を書かせていますよね。

 意識を失ったことはあるか。

 日中、活動している最中に眠り込んでしまうことはあるか。

 ……『無意識(システム1)が正常に動かない人はいる』と、法律のほうが先に認めているんです」


// ※質問票とは、道路交通法に基づき、運転免許の取得や更新の際に提出する書類。過去に意識を失ったことがあるか、日中に強い眠気で眠り込むことがあるかなど、安全な運転に支障を及ぼすおそれのある症状について申告を求める。虚偽の記載には罰則がある


 田中は、口を開きかけては閉じた。

 あの質問票なら、目をつぶっていても様式を思い出せた。

 同じ建物の窓口で何千枚と受け取られ、チェック欄を確かめられ、判を押されてきた紙だった。


「わ、私の部署は学科試験の担当だ。

 適性の審査は、別の係が……」


「係の話はしていません」


「……っ」


「あの紙に、正直に書かない人がいることもご存知でしょう。

 書いた本人が、まだ自分の異変に気づいていないこともある。

 さて、そういう人たちも含めて、交差点や踏切に差しかかったその瞬間、全員の無意識(システム1)が正常に作動していると、あなたは保証できますか?」


「……」


「質問を変えましょうか。

 免許を持っている人すべてに、あなたの引っ掛け問題を刷り込ませる。

 治療中の病気がある人も、まだ診断のついていない人も、夜勤明けの人も、薬を飲んだばかりの人も、例外なくです。

 まず、覚える前と覚えた直後で、反応速度を1人残らず測る。

 同じ人たちには、覚える前にもシミュレーターで遮断機のない踏切と塀に囲まれた交差点を走らせておき、3年後、最初の免許更新を迎える頃にもう一度走らせる。

 その3年の間に、病気が出始める人もいるでしょうね。

 ……そのとき『ブレーキが遅れる人も、但(ただ)し書きを取り落として止まらない人も、1人も出ない』と、あなたは保証できますか?」


「そ、そんなもので、ブレーキの遅れや止まらない人間が出たとしてもだ。

 原因が但(ただ)し書きの脱落なのか、プライミング効果なのか、それとも見落としや認知機能の衰え、道路の作りなのか……切り分けようがないじゃないか……」


「切り分けられない、ということは、あなたの問題だけを候補から外すこともできない、という意味ですよ。

 自分でリスクを1つ増やしておいて『どれが効いたか分からないから無罪』は通りません。

 それとも、あのテストで、あなたの問題が原因になった事故は1件も出ない……リスクはゼロだと、断言できますか?」


「そ、そんなもの、できる訳がない……」


 口にしてから、田中は自分の答えの意味に気づいた。

 リスクゼロと言い切れないのなら、出る人がいるかもしれないと認めたのと同じだった。


「では、そもそもの話をしましょう。

 なぜ、どの問題も『原則のほうに✕をつける』形にしたんですか」


「そ、それは、法律に定められた例外を――」


「田中さん。

 あなたは、例外を扱う側の人間ですよね」


「な……」


「警察官ですよね。

 緊急車両の例外も、手信号の意味も、職務として知っていて当然の立場です。

 条文で『車』がどう定義されているかも、毎日のように目にしている。

 ……あなたは、例外の側から道路を見ているんですよ」


「……当たり前だ。

 だからこそ私は、例外を知る者として――」


「ええ。

 あなたは、使う側なんですよ」


「……なに?」


「ですが、あなたが作っているのは、パトカーや消防車の運転免許の試験じゃないですよね。

 一般の運転免許です。

 例えば『赤信号は必ず止まらなければならない、X』を実際に使うのは、緊急車両に乗っている人だけ。

 信号機のある踏切で一時停止を省く場面も、一般の運転者(ドライバー)には生涯でほとんど来ません。

 『車』に軽車両まで含まれるという定義を、四輪のハンドルを握りながら展開する人もいません。

 得をする場面が、受験者の側には来ないんですよ。

 ……そもそも、例外を出題したかったのなら、もっとまともな書き方がありましたよね」


「ま、まとも……?」


「『緊急車両は赤信号でも進むことがある。○かXか』

 『信号機のある踏切で青信号のときは、一時停止せずに通過できる。○かXか』

 『優先道路を通行しているときは、見通しの悪い交差点でも徐行しなくてよい。○かXか』

 ……これで終わりです」


「……」


「どれも、主語と条件が文の頭に座っています。

 受験者が持ち帰るのは、緊急車両の話、信号機付き踏切の話、優先道路の話。

 勘違いのしようがありません」


 田中は、視線を落とした。


「あなたが選んだのは、逆でした。

 赤信号も、踏切も、見通しの悪い交差点も。

 一番触ってはいけない一文を、わざわざ引っ張り出してきてXにした。

 但(ただ)し書きが落ちれば、残るのは『止まらなくていい』だけです。

 危険な側に倒したんですよ。

 『車』に至っては、二輪とも四輪とも書かずに1文字で括(くく)った」


「わ、私は、正確に……」


「正確さを言うなら、なおさら私の書き方のほうでしょう。

 教えるにしても、触らずに済む場所がありました。

 あなたは、そこをわざわざ選んだ。

 無駄な分岐を、自分の手で3つも4つも増やしたんです」


「ち、違う……」


「では聞きますが、なぜ条件を後ろに回したんですか?

 あなたの文に、主語を足すだけでよかった。

 たとえば『緊急車両は赤信号で必ず止まらなければならない。○かXか』

 なぜ、こう書かなかったんですか?」


 田中は、答えられなかった。

 答えは自分がいちばんよく知っていた。

 その書き方では、誰も引っかからないからだ。


「ちなみに同じ形をした問題、あなたの作品にまだ山ほど残っていますよね。

 1問ずつ並べて差し上げましょうか」


「や、やめろ……」


「『黄色の灯火(とうか)の点滅信号は、他の交通に注意して徐行しなければならない。X』

『横断歩道は、横断する人がいないことが明らかな場合でも、横断歩道の直前でいつでも停止できるように減速して進むべきである。X』

『トンネルでは、いかなる場合も追い越しをしてはならない。X』

『上り坂の頂上付近やこう配の急な坂は、徐行すべき場所である。X』

『この標識のあるところでは、標識の直前で一時停止しなければならない。X』

『交差点や交差点付近でないところで緊急自動車が近づいてきたときは、徐行しなければならない。X』

『近くに交差点がない場所で緊急自動車に進路を譲る時は、どんな場合も道路の左側によらなければならない。X』

『どのような道路でも、歩行者が通行できるだけの幅を残して駐車しなければならない。X』

『車を運転する時は、どんな時でも必ずシートベルトを着用しなければならない。X』

『狭い踏切では、対向車と接触しないようにできるだけ左端に寄って通行しなければならない。X』

『警笛(けいてき)区間内の交差点では、見通しにかかわらず、警音器(けいおんき)を鳴らさなければならない。X』

 他にも探せばもっといっぱいあるでしょう。

 ここから但(ただ)し書きが脱落したら、何が残ると思います?

 運転者(ドライバー)全員が、忘れずにいられると思いますか?」


 田中は、問題全てに但(ただ)し書きを付けたまま記憶し続けられる人間の顔を、1人も思い浮かべられなかった。


(そんなものは……不可能だ)


 答えは、考えるまでもなく出ていた。

 出ていたからこそ、声にならなかった。

 認めた瞬間、15年分の仕事が、条件の抜けた一文の製造記録に化ける。

 喉(のど)の奥で、言い分が別のものへ擦(す)り替わっていくのが自分でも分かった。

 覚えていられるかどうかの話からは降りる。

 代わりに、起きるか起きないかの話へ移る。

 それが反論ではなく、逃げ場の置き換えでしかないことも、分かっていた。

 それでも、田中は口を開いた。


「か、仮に必ずしも引っ掛け問題を記憶させる必要は無いとしよう。

 しかし理論上、引っ掛け問題による事故は起きても、確率は天文学的に低いはずだ!!

 たとえば100億分の1……」


 根拠のある数字ではなかった。

 分母の桁を増やすほど自分が安全な場所に立てる気がした、それだけのことである。


「……天文学的、ですか。

 1問だけの話なら、まだ聞けたんですけどね。

 ……まあ、いいですけど。

 では、とりあえずそれで計算してみましょう」


 ノアは指を折った。


「まず、数える人を絞ります。

 日本の免許保有者は8000万人ほどいますが、全員は数えません。

 あなたの問題が、まだ頭に残っている人だけにします」


「……」


「新規取得者は、年120万人ほど。

 交付件数は年々減っていますから、多めに見積もってもこの程度です」


「……120万」


「ですが、あなたの問題に触れるのは、受験者だけじゃありません。

『解けたら天才』『免許の意地悪問題10選』……ああいう記事や動画で、すでに免許を持っている人も目にします。

 ここを足すと、数百万人の規模になる」


「そ、それこそ根拠のない数字だろう!!

 バズだの拡散だの、そんなものは当てにならん!!」


「ええ。

 そこは慎重に扱いますよ」


 ノアは淡々と続けた。


「ネットで話題になったとき、数百万表示回数(インプレッション)という数字が出ますよね。

 あれは、人の数ではありません。

 同じ人が何度も目にしますし、転載(てんさい)を経由した重複(ちょうふく)も混ざっている。

 実際の人数に直すと、3分の1から5分の1くらいまで落ちます」


「……」


「しかも、この手の記事を好んで読む層は、年間を通してかなり固定されています。

 同じ1人が5回見ても、1人は1人。

 1年ぶんを重複を除いて数えると、想像よりずっと小さくなるんですよ」


「……だったら、なおさら――」


「だから私は、上限を取りません」


 ノアは田中の言葉を遮った。


「新規取得者と、記事や動画で見た人。

 両方を足して、年500万人とします」


「ご、500万……」


「ええ。

 ここまでで、すでにあなたに有利な側へ倒しています」


「……」


「次に、記憶がどれくらい保つか。

 ここも短く見ましょう。

 1年で忘れる、とします」


「い、1年……」


「はい。

 試験のために3回受け直して暗記した人でも、1年でまっさらに消える。

 そういう前提です。

 ……現実にそんな都合よく消えてくれるなら、そもそもあなたの問題は『ふるい』として機能していませんけどね」


「……っ」


「つまり、どの年を切り取っても、あなたの問題を頭に入れている人が、およそ500万人いる。

 積み上げはしません。

 毎年きれいに入れ替わって、消えていくものとして数えます」


「……」


「その500万人が、あなたの問題が関わる場面……赤信号、踏切、見通しの悪い交差点。

 これを全部ひっくるめて、1日に10回通るとします。

 1日で5000万回。

 1年は365日ですが、切り捨てて300日としましょう。

 年150億回です」


「……」


「10年ぶんで、1500億回。

 これに、あなたの言う100億分の1を掛けると――15件」


「じゅ、15件……」


「ええ」


「だ……だったら1000兆分の1だ!!

 これなら……」


「……田中さん。

 無害という結論に届くまで、ゴールポストを動かし続けるおつもりですか」


// ※『ゴールポストを動かす』とは、議論で不利になると、自分の主張が成り立つ基準や条件を後から都合よく変えてしまう論法のこと


「!!」


「100億分の1から1000兆分の1へ。

 一気に10万倍も甘くなりましたね。

 その間に、何か新しい根拠でも見つかりましたか」


「……」


「見つかっていませんよね。

 15件という答えが気に入らなかったから、気に入る答えが出るまで分母を増やした。

 数字から結論を出したのではなく、結論から数字を逆算しているんですよ」


「……っ」


「それに、ついさっきまで『サンプル数1のデータで何が証明できる』『証拠がない』とおっしゃっていたのは、どなたでしたか。

 他人の数字には査読(さどく)を求めて、ご自分の数字は口にした瞬間に確定ですか。

 その1000兆分の1、どこの研究で、誰が測ったんです?」


「……」


「そもそも100億分の1と口にした時点で、あなたはもう『ゼロではない』と認めているんです。

『1000兆分の1』だろうが『極小』だろうが『ほぼゼロ』だろうが、どう言おうが変わったのは表現や桁だけで、認めた中身はそのままですよ。

 本当に無害だと信じているなら、最初から『ゼロだ』と言えばよかった。

 言えなかったのは、ご自分でも言い切れないと分かっているからでしょう」


「……」


「それと、確率というのは、くじが配られる前の話です。

 くじを引き当てた家族にとって、それは0ではありません。

 100%です」


 ノアはそこで初めて、少し離れて立つ女へ視線を向けた。

 女は何も言わず、田中から目を逸らさなかった。


「話を戻しましょう。

 あなたが最初に、自分を守るために出した『天文学的に低い数字』で計算して、15件でした。

 しかもその計算は、最初から最後まであなたに圧倒的に有利な側へ倒してあります。

 8000万人を500万人まで削り、365日を300日扱いにして、記憶が1年できれいに消える前提にしました。

 引っ掛け問題も、全部合わせて1日10回に押し込めてあります」


「な……」


「そもそも、この鉄人(スチールマン)論法を使って出した100億分の1という数字自体、あなたにとって相当に有利なものです」


// ※鉄人(スチールマン)論法とは、相手の意見の弱い部分や隙をつくのではなく、最も強い状態に直す論法


「……ど、どういう意味だ」


「100億分の1というのは、あなたの問題を暗記した人が現場を100万回通っても、ただの1度も事故の原因にならない、筆記試験をほぼ連想しない、という意味になります。

 1億回通って、ようやく100回に1回、事故があるかどうか。

 ……そんなに思い出せない知識なら、そもそも試験に合格できませんよね」


「……」


「暗記した知識が想起(そうき)される確率は、少なくとも試験の場で答えられる程度には高いはずです。

 そうでなければ、あなたの問題は『ふるい』として一度も機能していなかったことになりますよ。

 運転とは何の関わりもない、ただの嫌がらせだったということです。

 仮にそうだと言うなら、あなたは何のためにあんな問題を作ったんですか。

 15年間、それが機能していると信じて作ってきたんでしょう。

 思い出せる知識だからこそ、ふるいになる。

 ふるいになる知識だからこそ、交差点でも勝手に浮かぶ。

 ……どちらか片方だけ、というのは通りませんよ」


「……」


「付け加えて言うなら、今の100億分の1は『全員が同じ確率で迷う』という前提の数字です」


「……ど、どういうことだ」


「実際は違いますよね。

 寝不足で運転している人。

 子供の急病で焦っている人。

 風邪で頭が回っていない人。

 認知機能が衰えはじめた高齢の方。

 ……その人たちも、100億分の1で済むと思いますか」


「そ、それは……」


「疲れている脳ほど、ノイズが走る。

 ――あなたの問題が、いちばん効く相手ですよ」


「……」


「実際の数字は、おそらくこれより上です。

 それでも私は、あなたの出した100億分の1のまま計算しました。

 ずっと譲歩しているんですよ。

 ……多すぎて統計に浮かぶほどではない。

 かといって、無視できるほど少なくもない。

 引っ掛け問題が事故に関わりうると認める限り、計算の上では、どこかでほぼ確実に起きています。

 起きているなら、その中に死亡事故が混じっていても不思議はありません」


「ま、待て!!

 仮に関わっていたとしても、主因ではないだろう!!

 交通事故というのは、いくつもの要因が絡み合って起きるものだ!!

 操作の誤り、見落としや距離の見誤り、とっさの恐慌(パニック)、体が勝手に動く不随意運動(ふずいいうんどう)、夜の暗さ、体調不良……

 どれも私の問題より、はるかに直接的で、事故への寄与(きよ)も大きい!!

 私の問題など、せいぜい隅に付いた副因にすぎん!!」


「わざわざ無駄にリスクを増やしておいて、『主因ではないのだから構わない』。

 ……それを、ご遺族の前で言えるんですか」


 田中は、口を開いた。

 だが、出てきたのは言い訳の形すら持たない音だった。


「……い、言い方の、問題だろう……」


「言い方ですか。

 では、中身のほうは認めるんですね」


「……っ」


「スイスチーズモデルをご存知ですか」


「……チーズ?」


「少し前に名前を出したジェームズ・リーズンが唱えた、事故の考え方です。

 穴の空いたスイスチーズの薄切りを、何枚も重ねたところを思い浮かべてください。

 1枚ごとに、事故を防ぐ守りの層になっています。

 運転者の注意、車の性能、道路の見通し、信号、そして教習や試験。

 どの層にも、欠けた箇所はあります。

 完璧な守りなど存在しないからです。

 ふだんは、ある1枚の隙間を次の1枚がふさいでくれる。

 事故になるのは、すべての穴がたまたま一直線に並んだ瞬間です」


// ※スイスチーズモデルとは、イギリスの心理学者ジェームズ・リーズンが提唱した事故発生のモデル。安全対策を穴の空いたチーズの薄切りに見立て、複数の層の欠陥が偶然すべて重なったときに事故が起きると説明する。医療や航空の安全管理で広く使われている


「……」


「あなたが今並べた操作の誤りも、夜の暗さも、体調不良も、その欠けの1つです。

 あなたの問題も、試験という層に空いた穴の1つですよ。

 この考え方では、どれが主因かを決める必要がありません。

 どれか1枚の位置がずれていれば、光は向こうまで抜けなかった。

 つまり、どの穴も、事故が成立するための条件の1つなんです」


「……」


「しかも、あなたが挙げたものの多くは、ふさぎようがありません。

 夜は毎日来ますし、人は体調を崩しますし、とっさに体が固まる人もいる。

 だからこそ、ふさげる箇所はふさいでおくしかないんです。

 試験という層は、本来、ほかの層の欠けを補うために置かれているんですよ。

 あなたはそれを、わざわざ穴の側に回した」


「そ、それは……」


「フェイル・セーフという言葉も、ご存知ですよね。

 安全の仕組みは、人間が最悪の状態にあることを前提に組むものです。

 疲れていても、焦っていても、病気が出始めていても、間違えにくいように。

 ほかの要因が多いから自分の責任は小さい、という理屈は、その前提を逆さまに使っています。

 ほかの要因が多いからこそ、あなたの層が最後の守りだったかもしれないんですよ」


// ※フェイル・セーフとは、機械やシステムが故障・異常を起こした際に、常に安全な状態へ導くように設計する安全対策の考え方


「加えて、あなたは前にこう言いましたよね。

『原因がいくつも重なっているなら、私の責任はその分だけ薄まる』と。

 工場でも、まったく同じ理屈が使われてきました。

『ほかにも汚染源はある』『排水は法律の基準内だった』『病気になったのは本人の体質のせいかもしれない』

 ――どれも、あなたが今使った理屈と同じ形をしています」


「……」


「有害物質の量が、法律の基準以下でも、それを毎日浴び続けた人が、何年もかけて病気になったとしたら。

 その工場の責任者は、『基準内だったから関係ない』と言い続けられますか」


 田中は、答えられなかった。

 結城が、静かに補足した。


「田中さん。

 これは極論でもたとえ話でもないんです。

『微量でも、積み重なれば人を壊す』という構造そのものが、あなたの問題と同じなんですよ。

 工場の排水も、あなたの試験問題も」


 女が、震える声で言った。


「……私は、化学工場の話をしに来たんじゃないんです。

 うちの子の話をしに来たんです」


 田中は、何かを言おうとして、口を開いた。

 だが、その口から出てきたのは言葉ではなく、ただの震える息だった。


挿絵(By みてみん)


 ――逃げ道が、どこにも見当たらない。


 ノアが続ける。

「もう1つ、例え話をしましょう。

 あなたが始終騒音を撒き散らしたせいで、寝不足になった。

 事故になった人がいる。

 その時、あなたはこう言います?

『私だけが原因じゃない。原因は他にもいっぱいあるはずだ!!』と」


「……ぐっ」


 田中は、喉の奥で何かを詰まらせたような声を出した。

 しばらく黙り込んだあと、それでも彼は、絞り出すように口を開いた。


「……それは、また違う話だろう!

 騒音は、こちらが意図して出しているものだ!

 だが、私の問題は――受験者が『勝手に』覚えて、『勝手に』プレッシャーを感じているだけだ!

 私は、覚えろと強制したことは一度もない!!

 覚えるかどうかは、あくまで本人の自由意志――」


「ふざけるな!!」


 女が怒声を発した。


挿絵(By みてみん)


「免許を取るには、お前のクソくだらないゴミ問題対策をしないといけない!!

 嫌でも覚えないといけない!!

 それのどこが自由意志なの!!」


「ひっ……」


 田中は、思わず身をすくめ、一歩、後ずさった。

 女の怒声は、これまでの誰の言葉よりも近くから、直接、田中に突き刺さっていた。

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