名探偵ノア7話 二重スリット・ファジー・トレース殺人事件 5話
このあと、ネットは盛大に炎上した。
星屑Kスケの動画は、公開から半日で100万再生を突破した。
コメント欄は、地獄と化した。
Kスケが動画内で何気なく口にした一言――
「ブレーキ未使用の事故、原因が解明されてないヤツ」
――これが、火に油を注いだ。
誰かが、動画のその部分だけを切り抜いて拡散した。
タイトルはこうだった。
『【衝撃】運転免許の引っ掛け問題、高齢者の事故と関係アリ?』
この見出しが独り歩きした。
本編を見ていない人間を巻き込み、見出しだけで怒り始めた。
『子供の命を犠牲にして食う飯はうまいか?』
『もう、何人か……あるいは10人以上、死んでたりしてね』
『こいつら、少しでもそのリスクを考えたことあるのかな?能無しどころか害悪だわ』
『まさか、うちの子が轢かれたのって……!!この人殺し集団!!』
『うちの子供には、人殺し集団の出す害悪ゴミ問題に触れさせないようにしなきゃ。こんなの覚えちゃったら困るわ』
――世の中は甘くない!試験にこれくらいで惑わされる人間は、実際の道路でも事故を起こす!
「…………」
田中はテレビを消した。
窓の外には、まだ紙が貼られていた。
『「私のプライドと正確な知識」と交換で、交通事故の確率を上げちゃうねぇ♡』
『「注意深い運転者」を育てようねぇ♡子供の命と引換えにねぇ♡』
田中は布団に潜り込んだ。
眠れない夜が、また始まった。
そしていつまでも、誰かに、何かに、論理に、法律に、善意に、責任を転嫁し続けた。
===
とある日の夕方、田中は自宅へ帰宅する途中だった。
背後に、妙な気配を感じた。
振り返ると、5メートルほど後ろに、30代くらいの女と、高校生くらいの探偵のような服装をした少女が立っていた。
30代の女は、田中をまっすぐに睨みつけていた。
田中はゾッとした。
思わず足を速めようとした瞬間、前方にいた人物にぶつかり、尻餅をついた。
ぶつかった相手が、小さく声を上げる。
「痛っ……ちょっと、気をつけてくださいよ、田中さん」
見上げると、そこにいたのは、後ろの少女と似たような服装をした、30代くらいの男だった。
見覚えのない顔だ。
「な、何だお前は……なぜ私の名前を……!?」
田中は慌てて地面に手をつき、よろめきながらも立ち上がった。恰好悪いところを見られたという羞恥が、かえって彼の虚勢を強めた。ズボンについた砂を、意味もなく手で払う。
「後ろの女性が、あなたに言いたいことがあるそうでして。
ちょっと調べさせてもらいました。
……例の引っ掛け問題を作った担当者のお一人は、あなたですね」
背後の女が、こちらへ歩み寄ってくる。
「……あなたですね。
うちの子を殺したのは。
……ノンブレーキで突っ込んできた高齢者に、うちの子はやられました」
女の声は、震えていた。
怒りというより、もっと底の方から絞り出されたような、掠れた声だった。
田中は、立ったまま動けなかった。
目の前に立つ女の顔は、蒼白だった。
化粧もろくにしていない。
この数日、まともに眠れていない人間の顔だった。
「……な、なぜ私だと分かる」
声が、情けないくらい上ずった。
女の後ろから、探偵風の少女――ノアが、静かに口を開いた。
「あなたの部署、SNSで特定されてますよ。
……まあ、特定というほど大した推理でもないですけどね。
部署名から個人名まで、もう出回ってます」
「そ、それは……根拠のない誹謗中傷だ!
私は、公式にはまだ何も認められて――」
「認められてなくても、あなたは反論してますよね。
今、ここで」
田中は、言葉を飲み込んだ。
(違う。
そういう意味じゃない)
隣に立っていた30代の男――結城が、少し困ったような顔で割って入った。
「……田中さん、落ち着いて聞いてください。
この方は、うちの探偵事務所に相談に来られた依頼人です。
息子さんを、去年の冬に亡くされています。
運転していたのは78歳の男性で、赤信号でブレーキを踏まなかった。
それだけです」
「そ、それが、私と何の関係が――」
「関係あるかどうかを、あなたご自身の口から聞きたいそうです」
女が、震える声で続けた。
「……動画で見ました。
あなたが作った問題を覚えたせいで、ブレーキが0.2秒遅れるかもしれないって。
下手したらノンブレーキになるかもしれないって。
『例外がある』って教え込まれた人が、とっさの判断で迷うって。
……うちの子を轢いた人、去年、免許の更新講習を受けたばかりでした」
「それは――」
田中の声が、上ずったまま止まらなくなった。
「そ、それは、単なる仮説だろう!
サンプル数1のデータで、何が証明できる!
私の問題が実際に事故の原因になったなんて、どこにも証拠はない!!」
ノアが、ため息とも呼べないような、短い息を吐いた。
「証拠がない、というのはつまり『否定する証拠もない』ということですよね。
あなたは今、『無罪の証拠』の話をしているんじゃなくて、『有罪の証拠が足りない』という話をしている」
「な、何が言いたい」
「何も。
ただ、あなたが今言った『証拠がない』は、あなたを守る盾にはなっても、彼女の子供が生きて帰ってくる理由にはならないってことです」
田中は、口をぱくぱくと動かした。
言葉が出てこなかった。
(違う。
私は、悪意でやったわけじゃない)
「わ、私は……安全な運転者を育てるために、問題を作ってきただけだ!
厳しい試験でふるいにかけることが、事故を減らす……そのための、必要な……」
「善意、ってことですか」
結城が、静かに聞き返した。
「……そうだ!
善意だ!
結果として、万が一、何らかの副次的な影響があったとしても、それは意図したことじゃない!
私が目指していたのは、あくまで――」
「田中さん」
女が、田中の言葉を遮った。
「私、あなたの善意の話を聞きに来たんじゃないんです。
……うちの子が死んだ理由を、あなたの口から聞きたかっただけです」
田中は、答えられなかった。
目の前にいるのは、記者でも、SNSの匿名アカウントでもない。
実際に、子供を失った母親だった。
(ここで「法律で決まっているから」と言えるか?
「私に責任はない」と言えるか?)
言えば、自分がずっと守ってきた「善意の物語」が、今この瞬間、目の前の人間の顔の前で崩れる。
それが分かっていた。
だから田中は、ただ立ち尽くしたまま、女の顔から目を逸らせなかった。




