名探偵ノア9話 二重スリット・ファジー・トレース殺人事件 7話
だが、それでも彼は、震える声を絞り出した。
「そ、それは……試験制度そのものへの不満だろう!
私に言われても困る!
免許を取るのに試験対策が必要なのは、当たり前のことじゃ――」
「すり替えるな!!お前は自由意志だと言ったでしょう!!
どこが自由意志なの!!」
「そ、それは……
もちろん、免許を取る以上、私の問題を避けて通れないのは事実だ!
だが、それは『免許を取る』という選択自体が自由意志だという意味で言ったんだ!
誰も、免許を取れと強制されているわけじゃない!
取らないという選択肢だって、あるだろう!!」
女の怒りが最高潮になる。
「はぁ?
お前のゴミ問題があるって、誰が事前に知らせた?
そもそも、うちの子はお前のゴミ問題を受験していない!!
受験したのは、どこの人間ともしれない高齢者だ!!」
「……あ」
田中は、言葉を失った。
その一言は、これまでの理屈のどこにも当てはまらなかった。
「自由意志で受験した本人の話」ではない。
「受験者本人が被害者」の話でもない。
――受験したのは、加害者の方だった。
「そ、それは……
だが、道路を使う以上、免許を持つ全ての人間の行動が、間接的に他人に影響することは……
社会というのは、そもそもそういう相互作用の上に成り立って……」
「質問に答えろ!!」
女の怒声が、田中の言葉を叩き潰した。
「うちの子は、免許なんて取ってない!!
試験も受けてない!!
お前の問題を覚えたことも、見たことすらない!
なのに、お前の問題を覚えた誰かのブレーキが0.2秒遅れたせいで、死んだかもしれないんだよ!!
――これのどこに『本人の自由意志』があるの!?
うちの子は、選んですらいない!!」
「そ、それは……」
田中の口が、また開いては閉じた。
(違う。
これは、想定していた反論じゃない)
これまでの理屈は、すべて「覚えた本人」を前提にしていた。
『自由意志で覚えたのだから、自己責任だ』
だが、今、目の前で子供を失ったと訴えているのは、その「覚えてノンブレーキで突っ込んだ本人」ではない。
そして亡くなったのは『問題を作ったことも覚えたことも選んだことも一切ない、無関係の子供』だった。
「わ、私の問題を覚えた人間が、事故を起こしたという証拠は……」
「じゃあ、サンプルが1000出て、結果が出たら……お前はどうする気?」
「……」
「なるほどね。
お前はこれまで謝罪ゼロだし、今後どのような結果が出たとしても今後も謝罪する気ゼロ。
そういう理解でいいかしら」
「……ちが、う」
絞り出した声は、自分でも情けないほど掠れていた。
田中は、立ったまま、女の顔から目を逸らせなかった。
逸らせば、それだけで「認めた」ことになる気がした。
「私は……謝罪をしないと決めたわけじゃない。
ただ、何に対して謝ればいいのか、その、根拠が――」
「根拠、根拠って」
女の声が、今度は静かだった。
さっきまでの怒声より、その静けさのほうが田中には恐ろしかった。
「あなた15年間、その『根拠』とやらを振りかざして受験者を落とし続けてきたんでしょう。
曖昧な言葉で、引っ掛けて、間違えさせて。
その時は根拠なんて要らなかったじゃない。
『車には自転車も含まれる』『緊急車両は例外』――
そうやって、人を落とすときの根拠はいくらでも思いつくのに」
「……」
「なのに、自分が疑われる番になった途端、『根拠がない』。
都合が良すぎない?」
田中は、何かを言い返そうとした。
(違う。それとこれとは話が別だ)
だが口を開く前に、その言葉自体がたった今自分が使った「話が違う」の焼き直しだと気づいてしまった。
ノアが、静かに割って入った。
「田中さん。もう一度聞きます。
さっきの質問、答えてくださいね」
「な、なにを……」
「サンプルが1000出て、あなたの問題が要因の1つだと証明された場合。
あなたはどうするんですか」
「ま、待て……待ってくれ。
是正なら、もうされているんだ!!
2021年の6月に、警察庁から通達が出ている!!
『学科試験の適正な管理について』だ!!
問題の正誤や、問題文が分かりづらくならないよう審査しろと、はっきり書いてある!!
組織はとっくに手を打っているんだ!!」
// ※学科試験の適正な管理について(通達)とは、2021年6月に警察庁交通局運転免許課長から各都道府県警察などへ出された通達。問題の正誤や分かりにくさの審査、イラストや平易な文章の活用、全ての漢字への振り仮名、交通ルールの意義を問う問題の出題などを求めている
「……嘘ですね。
『是正は、もうされている。○かXか』。
正解はXです。
『もう』と言い切った時点で、あなたの業界では疑ってかかる一文ですよ」
「な……!?」
田中の口から、反射的に言葉が飛び出した。
「ば、馬鹿を言え!!
それは○だ!!
通達の日付も、発出元もはっきりしている!!
『もう』どころか、5年も前の話だぞ!!」
言い終えてから、田中は自分の口が何をしたのかに気づいた。
出題者として15年、受験者に解かせてきた形式の問いに、自分が受験者の側で、しかも即答していた。
「……今、何秒で答えましたか」
「……っ」
「条件を確かめる前に、手が○を付けましたよね。
私の出した一文の、どこが問われているのかも読まないうちに」
「う、嘘ではない!!
通達は実在する!!
調べれば、すぐに出てくるぞ!!」
「通達が出たのは本当でしょう。
嘘なのは『是正されている』のほうです」
「な……」
「通達というのは、上から配られた指示です。
紙が届いたという記録にはなっても、現場が変わったという記録にはなりません。
そもそも、問題の作成と出題を適正にしろという指示なら、2012年の時点でもう出ていますよね。
2021年のものは、その改正版です」
「そ、それは……」
「では伺いますが、その通達で審査を任されているのは、どなたですか」
「……運転免許試験の、担当課長だ」
「あなたの課の課長ですね。
分かりづらい問題かどうかを、その問題を作ってきた課の中で審査する。
……あなたの一文は、その審査を通ったわけです」
「と、通ったのは、問題に欠陥がないからだ!!」
「ええ。
通って当然なんですよ」
「……なに?」
「『赤信号は必ず止まらなければならない』。
この文、分かりづらいですか?」
田中は、答えに詰まった。
「難しい漢字も文法のねじれもない、小学生でも読める一文です。
あの通達が測っているのは、正誤と読みやすさでしたよね。
正解はX、緊急車両は例外で、法律の上でも正しい。
あなたの問題は、その物差しを両方とも満たしているんです。
だから、何度審査しても引っかからない」
「……」
「私が問題にしているのは、読みづらさではありません。
読みやすい一文で、反射の手前に例外を刷り込んでいることです。
その害は、あの通達の物差しに最初から入っていないんですよ」
「……」
「ついでに言えば、その通達には、交通ルールの意義を問う問題を積極的に作れ、とも書いてありますね。
赤信号の意義は、止まることです。
あなたの一文が頭に残すのは『止まらなくていい場合がある』のほうでしょう。
意義を問うどころか、意義に穴を開けています」
「そ、それでも……!!
組織として是正に動いたことには変わりない!!」
「では、現実を見ましょうか。
通達が出たあとも、あなたの問題は配られ続けましたよね。
書店にもネットにも、今年の日付が入った『引っ掛け問題100問』が並んでいます。
教習所の案内には『必ず、絶対、すべて、という言い切りはまず疑え』と、今も堂々と書かれている。
通達の前と後で、受験者が覚えさせられている中身は、何も変わっていないんですよ」
「そ、それは民間が勝手に……」
「民間が対策を売るのは、本番にそういう問題が出るからです。
出なくなったのなら、そんな本は誰も買いません」
「……っ」
「是正というのは、結果が変わることを言います。
通達が出たことではありません。
それに、田中さん。
その通達のおかげで引っ掛け問題が減ったというデータ、お持ちですか」
「そ、それは……」
「お持ちでないでしょうね。
学術データが出るまで待てとおっしゃる方が、自分に都合のいい紙だけは、効き目を確かめないまま信じている。
……あなたは今、通達が出た日付を盾にしたんですよ」
田中は、何か言い返そうとして、口を閉じた。
「では、もう一度聞きます。
サンプルが1000出て、あなたの問題が要因の1つだと証明された場合。
あなたはどうするんですか」
逃げ場を塞ぐように、ノアの声は一定の温度を保ったまま田中に向けられていた。
田中の中で、何かが軋んだ。
15年間積み上げてきた「正しさ」が、たった数分の対話で、粉々に砕かれていくのを感じていた。
それでも――それでも、彼はまだ、立ったまま、その瓦礫の上に立とうとしていた。
「……仮に、そのデータが出たとしても」
声が震えていた。だが、止まらなかった。
「私は……試験制度そのものの見直しを、上に提言する。
それはする。だが――」
「だが?」
「私個人が頭を下げる理由にはならない。
私は、制度の中の一人の作成者に過ぎない。
制度自体に欠陥があったなら、それは制度の責任だ。
私が謝るべき問題じゃない」
女が、乾いた声で笑った。
「……ほら、やっぱり。
何を言っても、あなたはあなたを守る言葉しか出てこないのね。
さっきの『謝罪する気はゼロだろう?』という質問に対しての『違う』はなんだったの?」
「……そ、それは……」
田中は、声を絞り出した。
「『違う』と言ったのは……
まだ、何に謝るべきか、判断がついていなかったからだ!
謝罪する気がない、というのとは、違う!」
「あなた、さっきこう言ったじゃない。
『私個人が頭を下げる理由にはならない』『私が謝るべき問題じゃない』って」
「……そ、それは……」
田中の喉が、ひくりと動いた。
「あれは……仮定の話への回答だ!
サンプルが1000出た『場合』の話であって……」
「じゃあ、どっち?」
「……ぐ……」
田中は、口を開いた。
閉じた。
また開いた。
(どっち。
「まだ判断がついていない」のか。
「頭を下げる理由はない」のか)
自分の中でその2つが同時に成立していたことに、今初めて気づいた。
都合のいい時にはどちらか一方を出し、都合が悪くなればもう一方に切り替える。
それを、無意識にやっていた。
「わ、私は……」
声が、掠れた。
「……分からない」
ノアが、静かに言った。
「田中さん。
答えられない、というのが答えです。
あなたは、都合よく使い分けられる二つの言い訳を、無意識に持っていた。
1つは『まだ判断していない』という時間稼ぎの盾。
もう1つは『責任は制度にある』……逃げるための盾。
それを両方とも、無自覚に使い分けていたんです」
「そ、それは……無意識に、そんな……」
「無意識だからこそ、悪質なんですよ」
ノアの声は、変わらず静かだった。
「意識的に嘘をつく人間は、まだ罪悪感を持てます。
でも、無意識に自分を守る理屈が次々に出てくる人間は、罪悪感すら感じず永遠に逃げ続けられる。
――あなたが15年間、そうやって生きてきたみたいに」
女が割り込んだ。
「もう結構よ。
ウンザリだわ。
嫌でも責任を、取らせるから」
田中は、その一言に、体の芯まで凍りついたような感覚を覚えた。
――責任を、取らせる。
これまでの理屈は、すべて「まだ証明されていない」という一点にすがっていた。
その一点が崩れる未来を、今、目の前で突きつけられている。
「そ、それは……脅迫か……?」
「……脅迫?
どうとでも捉えればいい。
私には、もう何も残ってない」
「な、何を考えている……
まさか、暴力に訴えるつもりか……!?
それこそ、法治国家において――」
「はっ」
女の口から、乾いた笑いが漏れた。
「別に『暴力はダメだ』という法律はない。
これをやったら罰が待ってる、そういう法律があるだけ」
「……」
「私は、もう失うものがない。
息子はもういない。
仕事も、辞めた。
あなたが大事にしてる『社会的な立場』も『プロフェッショナルとしての誇り』も、私にはもう何もない。
そういう人間が、罰を怖がると思う?」
「…………」
田中は、さらに後ずさろうとした。
だが、背中がすぐに、マンションの外壁に当たった。
もう、下がる場所がなかった。
「わ、私を脅して、何になる……!
仮に、私に危害を加えたところで、息子さんは戻らない……!
それは……それは、ただの八つ当たりだ……!」
「八つ当たり、ね。
そんな定義なんて、どうでもいい。
とにかく、罰は私が決める」




