名探偵ノア5話 二重スリット・ファジー・トレース殺人事件 3話
運転免許試験センターの建物の周りには、紙が貼られた。
『幸福ホルモン中毒者♡』
『サル山のボス♡』
『ここにATたんがいます♡』
『引っ掛け問題製造工場♡』
『全知全能の神様のお住まい♡』
田中は震えていた。
「……なんだこれは」
彼は会議室に呼ばれた。
上司と、広報担当と、弁護士がいた。
「田中君、この騒ぎ、どうするつもりだ」
上司の声は冷たかった。
「……私は、ただ、正確な問題を……」
「『ATたん』って呼ばれてるぞ、うちの部署が」
田中の顔が歪んだ。
「あの本が悪いんです!私たちを侮辱している!名誉毀損で訴えましょう!」
弁護士が首を振った。
「無理ですね。あの本はフィクションです。
『警察本部の運転免許試験担当課、田中』なんて一言も書いてない。
一般論として『引っ掛け問題を作る人の心理』を描写しているだけです」
「でも、明らかに私たちのことを――」
「『自分のことだと思った』のは、あなたの側の問題です」
田中は絶句した。
そうだ。
あの本には「田中」とは書いていない。
ただ「引っ掛け問題を作る人」の心理を、一般論として書いていただけだ。
なのに、なぜ自分たちが攻撃されている?
答えは簡単だった。
「当てはまったから」だ。
田中は震える手でスマホを開いた。
SNSには、彼の部署を攻撃する投稿が溢れていた。
『運転免許の問題作ってる奴、絶対あの本読んで顔真っ赤にしてるだろ』
『ATたん♡今日も元気に引っ掛け問題作ってる?♡』
『問題作成者の本音が暴露されてて草』
『あの本のおかげで、なんで免許の問題があんなに意地悪なのか分かったわ』
田中は叫びたかった。
――違う!
――私は受験者のために問題を作っているんだ!
――安全な運転者を育てるために!
――ふざけるな!
――これは極端だ!誇張だ!
――現場の苦労も知らない素人が!
――私の作成した問題は教育的で、必要不可欠なものだ!
――私のプロ意識が、こんな下世話な分析で片付けられてたまるか!
――世間は愚かだから、これくらい厳しく管理しないと事故が減らないんだ!
――注意深さを試すための必要なふるいだ!
――試験の目的を単なる言葉遊びとしか見ていない幼稚な連中だ!
――法規の厳密さを理解せず、感情論だけで批判している!
――自分は安全のために、あえて厳しい試験を行っているのだ!
――車という言葉に「自転車」が含まれるのは、法律がそう定義しているからだ!!
――法律で決まっている以上、例外を提示するのは義務だ。それを『引っ掛け』と呼ぶのは世間の怠慢だ!
――単なる嫌がらせではなく、注意深い運転者を育てるための『罠』という名の教育だ!
――赤信号の例外、緊急車両を出題するのは、正確な知識を持っているかを確認するためだ!!
――踏切の例外も、交差点の例外も、条文にそう書いてあるから出題しているんだ!!
――文句なら車の定義を決めた政府に言え!!
――もし、あの子が。
ふいに、26歳のあの日の交差点が、脳裏をよぎった。
――もし、あの運転手が、もっと「例外」に敏感だったら。
――あの子は、死なずに済んだんじゃないか。
――私はただ、あの子のような犠牲者を、もう出したくないだけなんだ。
それは、嘘ではなかった。
少なくとも、その想いだけは、本物だった。
だが、その瞬間、彼は気づいた。
あの本に、こう書いてあった。
『ATは「善意偽装型」を使う。
「あなたのため」「社会のため」という言葉で、自分の支配欲を正当化する』
田中が今、言おうとしていたことは――
「受験者のため」
「安全な運転者を育てるため」
――まさに、その「型」だった。
そして、「政府のせいにする」「法律のせいにする」という「被害者偽装型」でもあった。
「…………」
田中は口を閉じた。
何を言っても、あの本の「型」に当てはまってしまう。
反論すれば「被害者偽装型」。
怒れば「発狂型」。
黙れば「先延ばし型」。
「善意だ」と言えば「善意偽装型」。
逃げ場がない。
翌週。
田中の部署は「問題の見直し委員会」の設置を発表した。
記者会見で、上司はこう言った。
「受験者の皆様のご意見を真摯に受け止め、より実践的な問題作成に努めてまいります」
田中はその会見を、自宅のテレビで見ていた。
「……私は、何も悪いことをしていない」
田中は呟いた。
15年間、真面目に働いてきた。
問題を作り、受験者をふるいにかけ、安全な運転者を社会に送り出してきた。
それが、たった一冊の本で――
「あの本が悪い。あの作者が悪い」
田中は自分に言い聞かせた。
だが、心のどこかで、小さな声が聞こえた。
――本当に?
――本当に「受験者のため」だったか?
――引っ掛け問題を作成するたびに、お前は何を感じていた?
――受験者が引っ掛け問題で間違えるたびに、お前の中で何が満たされていた?




