第89話 宴(校長視点) ~逸らし続ける~
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宴のざわめきが、遠くから波のように届いてくる。
その音を、校長は高所から見下ろしていた。
ダンジョン内に設けられた中継拠点の見張り台。
本来は警戒と通信の監視のための場所だが、今は誰も気に留めていない。
教師たちは下で浮かれ、杯を交わし、笑い声を響かせている。
校長はそこに加わらなかった。
加われなかった。
手すりに肘をつき、彼は静かに宴を見下ろす。
その目は、笑い声の先ではなく、もっと遠くを見ていた。
数字の羅列。
予算案。
報奨金の配分。
成功報告書の草案。
「世界初の快挙」 その言葉が、どれほどの金を動かすか。
どれほどの名声をもたらすか。
それを思えば、杯を掲げる理由は十分にあった。
だが、彼の胸に湧き上がるのは、熱ではなく、冷えた空洞だった。
かつて、息子がいた。
優秀で、誠実で、未来を託せると思った。
だが、ダンジョンに呑まれ、帰らなかった。
その死の報せから間もなく、一人の女が現れた。
「彼の子を身ごもっています」
そう言った女を、彼は見なかった。
聞かなかった。
認めなかった。
彼に残されたものは、金と肩書きだけだった。
それで十分だと、何度も自分に言い聞かせていた。
だが、宴の喧騒を見下ろすこの高さが、どこまでも孤独であることに、彼は気づいていた。
見張り台の上、校長は静かに宴を見下ろしていた。
だが、彼の目が本当に見ていたのは、酒でも教師たちでもなかった。
駆馬だった。
ずっと、目で追っていた。
意識していないつもりだった。
ただ、気になるだけ。
ただ、目に入るだけ。
ただ、視界に残るだけ。
だが、その『ただ』が、周囲に歪んだ波紋を広げていた。
教師たちは気づいていた。
校長の視線が、あの少年にだけ向いていることを。
それは『期待』ではなかった。
『監視』とも違った。
もっと曖昧で、もっと重いもの。
だからこそ、教師たちはカルマを避けた。
生徒たちは、教師の態度を真似た。
誰もが、カルマを『触れてはいけない存在』として扱った。
「校長が見てるから」 その言葉は、誰にも口にされなかった。
でも、誰もが知っていた。
カルマが『全校を上げてないがしろにされる』原因は、そこにあった。
誰も彼を見ない。
でも、校長だけが見ている。
その歪んだ構図が、彼を孤独に沈めていった。
校長はそれを知らない。
いや、知っていたのかもしれない。
ただ、認めなかっただけかもしれない。
見張り台の上、彼はまたカルマの姿を探す。
迷宮の奥、画面の中、報告書の断片。
どこかに、あの子がいる。
「・・・あの子は、まだ生きているか?」
その呟きは、風に流れて消えた。
宴の喧騒は続いていた。
誰も、校長の視線の意味を問わなかった。
誰も、カルマの孤独の理由を語らなかった。
ただ、迷宮だけが知っていた。
その視線が、どれほど冷たく、どれほど重かったかを。
見張り台の上、校長は駆馬の姿を探していた。
迷宮の奥、報告書の断片、映像のノイズ。
そのどれにも、彼の姿はない。
ずっと、目で追っていた。
それは『見守り』だったはずだ。
そう思っていた。
だが、いつからか苦しくなっていた。
駆馬を見るたびに、息子の面影がよぎる。
あの子の目に、あの子の声に、あの子の孤独に——自分が切り捨てた『過去』が、静かに揺れていた。
それでも、何もできなかった。
何も言えなかった。
何も渡せなかった。
だから、校長は『処理』を選んだ。
「駆馬に重要な役割を担ってもらう。『武器』になってもらう」。
その案が出たとき、誰もが一瞬ためらった。
だが、校長だけは頷いた。
それは合理的な判断だった。
戦術的な選択だった。
そして、感情的な逃避だった。
『苦しいなら、いっそ消してしまおう』。 その思考は、静かに彼の中に沈んでいた。
誰にも見せず、誰にも語らず。
ただ、決裁印だけが彼の意志を代弁した。
カルマは『武器』になった。
誰も疑問を持たなかった。
それが『校長の判断』だったから。
見張り台の上、校長はまたグラスを傾ける。
酒の熱が、胸の冷えを誤魔化してくれる。
それだけが、彼の慰めだった。
「・・・あの子は、もう消えたか?」
その呟きは、風に溶けて消えた。
だが、迷宮は聞いていた。
その言葉が、どれほど冷たく、どれほど重かったかを。
校長の部屋の金庫には、一通の封筒が眠っている。
厚手の紙に、古びたインクで書かれた遺言書。
その筆頭には、たった一つの名前が記されている。
——駆馬。
彼は、その名を記した記憶を持っていない。
いや、正確には『思い出さないようにしている』。
あの夜、酒に酔い、誰にも見られぬように書き上げた。
それは、感情を整理するための行動だった。
ただの『整理』。
そう思い込んでいた。
だが、時折ふと、夢に見る。
あの女が、雨の中で立ち尽くしていた姿を。
「この子は、あなたの孫です」。そう言って差し出された手を、彼は見なかった。
見なかったはずだった。
けれど、なぜか覚えている。
その手が、震えていたことを。
その目が、何かを訴えていたことを。
「もし、あの時——」
校長は、グラスを置いた。
酒の熱が、胸の奥で冷えていく。
駆馬の名を、彼はずっと見ていた。
見ていたのに、何も与えなかった。
何も語らず、何も残さず。
ただ、『武器』として戦場に配置した。
それが、彼なりの『けじめ』だった。
過去との決別。そして責任の取り方。
そう思っていた。
「・・・やれやれ、まったく」
校長は、見張り台から視線を落とす。
宴の灯りが揺れていた。
その奥に、かつての自分がいた。
そして、今の自分がいる。
だが、あの子はもう、そこにはいない。
彼の視線の届かない場所へと、流れていった。
・・・そのはずだ。
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