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『使い捨てられた補助スキル持ち、迷宮の主になって制服妖怪と学園祭を始める』  作者: 葉月奈津・男
マイルド(全年齢)版

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第70話 泥の吐露◇稲田みずほ視点◇

2/2

 


 泥が静かに沈黙する。

 女子Dの最後の声が、泡になって消えた。

 その泡が、泥の表面で小さく弾けるたび、みずほの胸の奥がきゅっと締め付けられる。


「・・・沈んじゃった」


 誰に言うでもなく、呟いた。

 カルマに命じられたから。

 場所を守るためだから。


 そう言い聞かせてきた。

 でも、『それだけで済ませていいのかどうか、わからなくなってきている』。


 彼女の制服は、泥のようにひび割れている。

 でも、袖をまくった腕には、まだ陽に焼けた色が残っている。


 田んぼで働いていた頃の記憶。

 稲穂の匂い。

 泥の感触。

 誰かと笑い合った夏の日。

 泥だらけになって、空を見上げて笑った、あの午後。


「・・・あの頃の泥は、もっと優しかったのに」


 今の泥は、熱を持っている。

 誰かの後悔。

 誰かの言えなかった言葉。


「ごめん」「待って」「好きだった」

 それらが、泥の中で蒸気になって、彼女の足元を撫でてくる。


「わたしも、言えなかった言葉がある」


 誰かに謝りたかった。

 誰かに言いたかった。

 でも、言えなかった。

 その記憶が、泥の中で熱を持っている。


「カルマ様は、これを『正義』って呼ぶのかな」


 彼女は、カルマの言葉を思い出す。

「罪を沈めろ」「場所を守れ」「声を上げろ」

 それは、命令だった。

 でも、その命令に従うことで、自分が『誰か』でなくなっていく気がしていた。


「わたしは、まだ『誰か』でいたいのかもしれない」


 泥の静寂を破るように、ウシガエルがゆっくりと這い出してきた。

『泥田坊』とは姉妹のような、主従のような関係。

 その背中から伸びる無数の腕。

 どれも、誰かに届こうとしている。


 でも、届かない。

 届かないまま、泥に沈んでいく。


 みずほは、その腕を見つめながら思う。

「わたしも、誰かに届きたかったんだよね」


 その『誰か』が誰なのか、もう思い出せない。

 でも、届きたいという気持ちだけは、まだ残っている。


 彼女は、泥の上に腰を下ろす。

 稲穂色の髪が、泥の匂いを撫でる。


 風が吹くたび、赤いネクタイが揺れる。

 まるで、問いかける舌のように。


「・・・ひーきーかーえせー」


 その声は、もう警告ではなかった。

 誰かに届いてほしいという、最後の祈りだった。



 ◇泥のウシガエル(残滓たちの視点)◇


 彼女が腰を下ろすと、

 泥の温度が少しだけ変わる。

 稲穂色の髪が揺れ、赤いネクタイが風に問いかける。

 その姿は、かつての『誰か』に似ていた。


 わたしたちは、もう名前を持たない。

 言葉も、声も、記憶も曖昧になった。

 でも、彼女の姿だけは、まだ忘れていない。


 彼女は、まだ『揺れている』。

 命令に従いながら、問いを抱えている。

 罪を沈めながら、罪を見つめている。

 それが、わたしたちにはわかる。


 だから、腕を伸ばす。

 泥の中から、空へ向かって。


 それは、彼女を引きずり込むためではない。

 彼女が沈まないように、支えるため。


「・・・まだ、戻れるよ」

 そんな言葉が、泥の蒸気に混ざっていた。

 彼女が気づくかどうかは、わからない。


 でも、わたしたちは、

 彼女が『こちら側』に来ないことを、どこかで願っている。

 そして、『こちら側』に来る日を期待して待っている。


 彼女が立ち上がるたび、

 泥の温度が変わる。

 それは、まだ『人間だった頃の熱』が残っている証。


 わたしたちは、

 その熱を忘れない。

 忘れたくない。


 だから、見つめている。

 問いかけるでもなく、責めるでもなく。

 ただ、静かに、見つめている。



 ◇女子D(泥の中の心情)◇


「・・・いや、いやよ。わたしは・・・だれ?」


 泥の中で、声が泡になって弾ける。

 誰かの手が、わたしの手を握っている。


 優しい。

 懐かしい。

 でも、名前が思い出せない。


「この手、知ってる・・・はずなのに」


 自分を泥に沈めた相手の姿が、ぼんやりと見える。

 稲穂色の髪。

 赤いネクタイ。

 ひび割れた制服。


 それは、かつての『誰か』に似ている。

 でも、違う。

 違うから、怖い。

 違うから、悲しい。


「わたしは、まだ・・・人間でいたいの」


 泥が熱を持っている。

 皮膚を撫でるたび、記憶が曖昧になる。


「ごめん」「待って」「好きだった」

 誰かが言えなかった言葉が、わたしの中にもある。


 でも、言えない。

 もう、言葉が出てこない。


「ねえ、・・・あなたは、まだ人間なの?」


 問いかけたつもりだった。

 でも、声は出なかった。

 泡になって、泥に溶けていった。


 わたしは、沈んでいく。

 でも、まだ『誰か』でいたい。

 

 名前を思い出したい。

 誰かに届きたい。


 その願いが、泥の中で熱を持っていた。


 ◇


 泥の表面で、小さな泡が弾けた。


「・・・あなたは、まだ人間なの?」


 みずほは、その声が自分に向けられたものだと、わかっていた。

 でも、答えは返せなかった。



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