第70話 泥の吐露◇稲田みずほ視点◇
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泥が静かに沈黙する。
女子Dの最後の声が、泡になって消えた。
その泡が、泥の表面で小さく弾けるたび、みずほの胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「・・・沈んじゃった」
誰に言うでもなく、呟いた。
カルマに命じられたから。
場所を守るためだから。
そう言い聞かせてきた。
でも、『それだけで済ませていいのかどうか、わからなくなってきている』。
彼女の制服は、泥のようにひび割れている。
でも、袖をまくった腕には、まだ陽に焼けた色が残っている。
田んぼで働いていた頃の記憶。
稲穂の匂い。
泥の感触。
誰かと笑い合った夏の日。
泥だらけになって、空を見上げて笑った、あの午後。
「・・・あの頃の泥は、もっと優しかったのに」
今の泥は、熱を持っている。
誰かの後悔。
誰かの言えなかった言葉。
「ごめん」「待って」「好きだった」
それらが、泥の中で蒸気になって、彼女の足元を撫でてくる。
「わたしも、言えなかった言葉がある」
誰かに謝りたかった。
誰かに言いたかった。
でも、言えなかった。
その記憶が、泥の中で熱を持っている。
「カルマ様は、これを『正義』って呼ぶのかな」
彼女は、カルマの言葉を思い出す。
「罪を沈めろ」「場所を守れ」「声を上げろ」
それは、命令だった。
でも、その命令に従うことで、自分が『誰か』でなくなっていく気がしていた。
「わたしは、まだ『誰か』でいたいのかもしれない」
泥の静寂を破るように、ウシガエルがゆっくりと這い出してきた。
『泥田坊』とは姉妹のような、主従のような関係。
その背中から伸びる無数の腕。
どれも、誰かに届こうとしている。
でも、届かない。
届かないまま、泥に沈んでいく。
みずほは、その腕を見つめながら思う。
「わたしも、誰かに届きたかったんだよね」
その『誰か』が誰なのか、もう思い出せない。
でも、届きたいという気持ちだけは、まだ残っている。
彼女は、泥の上に腰を下ろす。
稲穂色の髪が、泥の匂いを撫でる。
風が吹くたび、赤いネクタイが揺れる。
まるで、問いかける舌のように。
「・・・ひーきーかーえせー」
その声は、もう警告ではなかった。
誰かに届いてほしいという、最後の祈りだった。
◇泥のウシガエル(残滓たちの視点)◇
彼女が腰を下ろすと、
泥の温度が少しだけ変わる。
稲穂色の髪が揺れ、赤いネクタイが風に問いかける。
その姿は、かつての『誰か』に似ていた。
わたしたちは、もう名前を持たない。
言葉も、声も、記憶も曖昧になった。
でも、彼女の姿だけは、まだ忘れていない。
彼女は、まだ『揺れている』。
命令に従いながら、問いを抱えている。
罪を沈めながら、罪を見つめている。
それが、わたしたちにはわかる。
だから、腕を伸ばす。
泥の中から、空へ向かって。
それは、彼女を引きずり込むためではない。
彼女が沈まないように、支えるため。
「・・・まだ、戻れるよ」
そんな言葉が、泥の蒸気に混ざっていた。
彼女が気づくかどうかは、わからない。
でも、わたしたちは、
彼女が『こちら側』に来ないことを、どこかで願っている。
そして、『こちら側』に来る日を期待して待っている。
彼女が立ち上がるたび、
泥の温度が変わる。
それは、まだ『人間だった頃の熱』が残っている証。
わたしたちは、
その熱を忘れない。
忘れたくない。
だから、見つめている。
問いかけるでもなく、責めるでもなく。
ただ、静かに、見つめている。
◇女子D(泥の中の心情)◇
「・・・いや、いやよ。わたしは・・・だれ?」
泥の中で、声が泡になって弾ける。
誰かの手が、わたしの手を握っている。
優しい。
懐かしい。
でも、名前が思い出せない。
「この手、知ってる・・・はずなのに」
自分を泥に沈めた相手の姿が、ぼんやりと見える。
稲穂色の髪。
赤いネクタイ。
ひび割れた制服。
それは、かつての『誰か』に似ている。
でも、違う。
違うから、怖い。
違うから、悲しい。
「わたしは、まだ・・・人間でいたいの」
泥が熱を持っている。
皮膚を撫でるたび、記憶が曖昧になる。
「ごめん」「待って」「好きだった」
誰かが言えなかった言葉が、わたしの中にもある。
でも、言えない。
もう、言葉が出てこない。
「ねえ、・・・あなたは、まだ人間なの?」
問いかけたつもりだった。
でも、声は出なかった。
泡になって、泥に溶けていった。
わたしは、沈んでいく。
でも、まだ『誰か』でいたい。
名前を思い出したい。
誰かに届きたい。
その願いが、泥の中で熱を持っていた。
◇
泥の表面で、小さな泡が弾けた。
「・・・あなたは、まだ人間なの?」
みずほは、その声が自分に向けられたものだと、わかっていた。
でも、答えは返せなかった。
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