第49話 風雷の沈黙 ~えいゆうたち~
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──風は、止まっていた。
いつもなら、彼女の髪を揺らすはずの風が、あの日だけは沈黙していた。
葉隠霞は、屋上の手すりに指をかけながら、遠くで交わされる言葉を聞いていた。
「彼がいれば、間違いなくできる」
「あいつの、あの能力はこのためにある」
そんな声が、風に乗って耳に届いた。
霞は知っていた。
彼らが何をしようとしているのか。
そして、彼がその中心に置かれようとしていることも。
心の奥で、何かが叫んでいた。
「やめろ」と言え。
「そんなことは許されない」と叫べ。
でも、声は喉の奥で絡まって、風にならなかった。
霞は、ただ見ていた。
彼の背中が遠ざかるのを。
仲間たちの目が、彼を“道具”として見ているのを。
そして、自分の胸の奥にある小さな野心。
『これが成るなら、あたしが上に行ける』。
その囁きが、風よりも強く吹いていた。
止めなかった。
止められなかった。
その瞬間、霞は自分の中の『風』を裏切った。
彼が消えたあと、風が戻ってきた。
でもそれは、優しさを見失っていた。
髪を引き裂くような、雷を孕んだ風だった。
霞はその風を受けながら、ただ呟いた。
「・・・あたしが(も)、見殺しにしたんだ。」
──歓声が、耳に刺さる。
「やったぞ!」
「これで道が開ける!」
仲間たちの声が、風のように吹き抜けていく。
葉隠霞は、その輪の外。
隅の方で、紙コップの祝杯を手にしていた。
中身は甘い炭酸。
でも、喉を通るたびに、苦味が広がる。
眉間に力が入る。
笑えない。
でも、笑わなきゃいけない。
「これでよかったんだ。これで、もっと上へ行けるんだ」
そう言い聞かせる。
何度も、何度も。
霞の視線は、誰にも向いていない。
ただ、空の隅を見ていた。
そこに、彼の姿があるような気がして。
でも、風は何も運んでこない。
雷も、まだ沈黙している。
仲間たちは、未来を語る。
「こんな田舎から、もっと都会へ。いや、世界だって目指せるさ」
「あたしたちならやれる」
その言葉が、霞の耳に届くたび、胸の奥で何かが軋む。
彼女は、紙コップを口元に運びながら、心の中で呟いた。
「・・・あたしは、風を裏切った」
でも、口に出すことはない。
この場では、風も雷も、乙女心も、すべて隠しておかなければならない。
祝杯の泡が弾ける音が、まるで誰かの声のように聞こえた。
霞は、眉を寄せたまま、その音に耳を澄ませていた。
──夜の風は、静かだった。
胸の奥に残るざらつきは、まだ消えていない。
祝杯の泡の苦味も、喉に残っている。
でも──それでも、霞は前を向いた。
「・・・あたしが選んだんだ」
誰かに言うわけじゃない。
風に向かって、雷に向かって、そして何より、自分自身に向かって。
「だったら、背負って進むしかない」
風を裏切ったなら、風に償うしかない。
雷を呼んだなら、その雷で道を切り開くしかない。
霞は、髪をかき上げる。
赤と金のメッシュが、月光にきらめいた。
その色は、罪の印でもある。
でも同時に、力の証でもある。
「彼の分まで、あたしが進む」
「この手で、風を正す」
「この足で、雷を導く」
「この心で、乙女を貫く」
それは決意表明。
誰に対するものでもない、自分自身へのケジメだった。
風が、そっと吹いた。
今度は優しく、背中を押すように。
霞は、目を閉じてその風を受けた。
そして、静かに歩き出した。
──風が、止まった。
いや、違う。風が『引いた』のだ。
まるで、何かを恐れて逃げるように。
葉隠霞は、仲間たちの歓声の中でその異変を感じ取った。
空気が重い。
風がざわめかない。
雷が息を潜めている。
そして──空が、黒く染まり始めた。
「行こうぜ! 英雄たちの凱旋だ!」
誰かが叫ぶ。
その声に、霞は眉を寄せる。
風が教えている。
『まだ終わっていない』と。
その瞬間、空から何かが降ってきた。
──カマキリ。
刃のような前脚を振りかざし、拠点の柵を一撃でへし折る。
続いて、カナブンの群れが唸りながら突進してくる。
金属のような羽音が、空気を裂く。
そして最後に、巨大な蜂が現れる。
腹部の毒針が、雷のように閃く。
仲間たちは悲鳴を上げ、散り散りに逃げる。
「なんだよこれ!」
「聞いてないぞ!」
英雄のつもりだった彼らの顔が、恐怖に染まる。
霞は、風を呼ぼうとする。
でも、風はまだ怯えている。
雷も、まだ沈黙している。
「・・・そうはさせないってことか」
霞は、葉団扇を握りしめる。
「英雄? 笑わせんな。本物の英雄は、ここで立つんだよ」
風が、ようやく戻ってきた。
雷が、指先に集まり始めた。
霞の髪が揺れ、赤と金が閃く。
──風雷の乙女、葉隠霞。
今、真の戦いが始まる。
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