第172話 宴(教師陣視点) ~酔わせる苦さ~ 後編
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盃を片手に、彼はまだ『職務中』だった。
宴の喧騒から少し離れた場所。
仄暗い通路の端に設置された中継器の前。
酔いの回った足取りで、彼は機器のランプを確認し、軽く端末を叩いた。
通信は、沈黙していた。
受信は、ないに等しい。
だが——『ないに等しい』は、『ない』とは違う。
ログの片隅に、奇妙な断片が浮かんでいた。
まるで、井戸の底から泡が一つ、また一つと浮かび上がるように。
ノイズ混じりの信号。
送信されなかったデータ。
受信されることなく、ただ『待機』している何か。
内容までは覗けない。
文字化けしたコードの断片が、画面の端で瞬いては消える。
それでも——彼の背筋を、一瞬だけ冷たいものが撫でた。
「……気のせいだ」
そう呟いて、彼は端末の蓋を閉じた。
背を向け、宴の明かりの方へと歩き出す。
手にしたボトルを、ぐいとあおる。
喉を焼く液体の熱が、さっきの違和感を押し流していく。
背後の中継器が、かすかに“ピッ”と鳴った。
誰も、それを聞いていなかった。
◇
宴の片隅。
女教師は、スマホの画面をじっと見つめていた。
そこに映るのは、ダンジョンを進む生徒たちの、少し前の映像。
その中の一人。
緊張で引きつりながらも、前を向いて歩く男子生徒の姿に、彼女は目を細めた。
「きっと、心にも体にも浅くはない痛みを残して帰ってくるわね」
囁くように呟いた声は、どこか甘く、どこか冷たい。
まるで、怯える小動物を撫でるような優しさ。
けれどその手は、檻の鍵でもあった。
「どう慰めてあげようかしら」
その言葉には、慈しみのような響きと、観察者のような距離感が同居していた。
癒すというより、導く。
導くというより、仕上げる。
仕上げるというより、支配する。
そんな『手入れ』のような響き。
彼女の口元が、ゆっくりと歪む。
笑っているのか、ほくそ笑んでいるのか、判別のつかない表情。
「おい、少しは隠せ。よだれを垂らしそうな顔になっているぞ」
隣から声が飛ぶ。
男性教師が苦笑しながら、グラスを押し付けてきた。
女教師は不満そうに眉をひそめたが、すぐに『優雅な仮面』をかぶりなおす。
グラスを受け取り、涼やかな仕草で酒を口に含む。
その目は、もう一度スマホの画面へと戻っていた。
「……あの子、どこまで形を整えてあげられるかしらね」
その声は、誰にも聞こえないように、泡のように消えていった。
宴の片隅。
女教師は静かに笑っていた。
グラスの中で揺れる琥珀色の液体を見つめながら、彼女の思考は遠く、校舎の奥へと沈んでいく。
彼女の家には、記憶が積もっていた。
几帳面に書かれたノート。
丁寧に畳まれた制服。
決して破られることのない誓約書のコピー。
それらはすべて、 かつて彼女の『指導』を受けた生徒たちの痕跡。
彼らは、よく言うことを聞いた。
目を伏せ、声を潜め、彼女の言葉に頷いた。
まるで、彼女の望む通りに動く人形のように。
「教育って、素晴らしいわよね」
誰にともなく呟いたその声は、静かで、少し寂しげだった。
けれど、その奥には、確かな熱があった。
彼女にとって『教える』とは、『整える』ことだった。
心を削り、形を揃え、余計な感情を削ぎ落とす。
そうして初めて、『完成』に近づく。
尊敬は、従順の種。
信頼は、支配の鎖。
依存は、育成の果実。
アルコールが喉を通り過ぎるたび、 胸の奥に達成感が灯る。
それは酔いのせいではない。
彼女の中にある、静かな高揚。
誰かの未来を、自分の手で『整えて』いく充足感。
「……あの子も、きっと素直になるわ」
スマホの画面に映る生徒の顔を見つめながら、彼女は静かに微笑んだ。
その笑みは、優しさの仮面を被っていた。
けれど、仮面の下では、支配の悦びが、じわじわと滲み出していた。
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