第150話 風雷は吹きて惑わず ~帰り着く場所~ 後編
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風が、彼女の髪を逆立てる。
雷が、皮膚の下で脈打つ。
霞の瞳は、赤と金に染まりながらも、どこか遠くを見ていた。
──かつて、自分もその隊列の中にいた。
風を読み、雷に怯えながら、それでも前に進んでいた。
誰かの隣に立つことを、選んでいた。
「……あたしは、もう隣には立てない」
その言葉に、風が揺れた。
雷が、胸の奥で軋んだ。
けれど、霞は団扇を振る。
風が、逃げる者の背を切り裂き、雷が、地を焼き、命の輪郭を焦がす。
「逃げても無駄だよ。風は、どこまでも追いかける。雷は、心の奥まで届く」
その声は、誰にも届かない。
風が、かき消した。
雷が、焼き払った。
霞は、力を振るい続ける。
それは、怒りでも、憎しみでもない。
ただ、『役割』としての行動。
ダンジョンの守護者としての、当然の振る舞い。
けれど──ほんの一瞬だけ。
逃げる背中の中に、見覚えのある髪型があった。
昼休みに、隣で笑っていた誰か。
教室の隅で、くだらない話をしていた、あの時間。
風が、その記憶を運んできた。
雷が、胸の奥で弾ける。
霞は、団扇を止めた。
雷が、指先で震える。
風が、問いかける。
「それでも、振るうか?」
霞は、目を閉じる。
まぶたの裏に、誰かの笑顔が浮かんだ。
それを、風が吹き飛ばす。
雷が、焼き尽くす。
「……あたしは、もう『人間』じゃない。だから、迷う必要もない」
団扇が再び振るわれる。
風が唸り、雷が咆哮する。
逃げる者たちの背に、容赦なく襲いかかる。
──葉隠霞。
かつての仲間を見送りながら、力を振るう。
その心は、風に引き裂かれ、雷に焼かれながらも──確かに、進んでいた。
──風が、止んだ。
雷も、沈黙した。
空気が、やけに澄んでいる。
まるで、何もなかったかのように。
霞は、立っていた。
足元には、焼け焦げた残骸が静かに横たわっていた。
炭になった二本の影。
まるで、地面に立てかけられた木の枝のように、黒く、細く、折れ曲がっている。
皮膚は焼け落ち、骨と肉の境界も曖昧になっていた。
けれど、制服の焦げ跡だけが、かろうじて『人間だった』ことを物語っていた。
名前も、顔も、もう思い出せない。
あるいは、思い出さないようにしているだけかもしれない。
「……やり過ぎたか?」
ぽつりと漏れた言葉に、風は応えない。
雷も、もう何も言わない。
ただ、静寂だけが、霞の耳を満たしていた。
「苦しむ時間は、あったか?」
問いかけるように、残骸を見下ろす。
返事はない。
当然だ。
もう、声を持たないのだから。
霞は、目を細める。
その表情に、怒りも悲しみもない。
ただ、冷たい静けさ。
それは『冷静』と呼ぶには、あまりにも無感情すぎた。
──これが、あたしの役目。
──隊列を崩し、数を減らす。
──前進を許す者と、ここで終わる者を分ける。
「……任務完了。問題なし」
そう呟いた声は、まるで報告のようだった。
誰に向けたものでもない。
ただ、自分自身に言い聞かせるように。
でも、胸の奥が軋んだ。
ほんのわずかに。
風が、そこを通り過ぎた。
雷が、そこを叩いた。
霞は、気づかないふりをした。
いや──『気づかないように』した。
「冷静だよ、あたしは。ちゃんと判断して、ちゃんと選んだ。だから、これは……正しい」
その言葉に、風は揺れなかった。
雷も、鳴らなかった。
まるで、彼女の『正しさ』を否定することすら、もう興味がないかのように。
霞は、踵を返す。
炭となった二本に背を向けて、静かに歩き出す。
──風は、まだ彼女の名を覚えている。
──雷は、まだ彼女の心を見ている。
でも、霞はもう、自分の声すら聞こうとしなかった。
残り、10人。
◇
──足音が、静かに響く。
霞は、任務を終えて帰還する。
風も雷も、今は沈黙している。
まるで、彼女の背に寄り添うように。
拠点の入り口に立つと、そこにカルマがいた。
かつての仲間。
今の主。
カルマは、微かに頷きながら、霞の目をまっすぐ見ていた
そして・・・。
「おかえり」
当たり前のように声を掛けられた。
『ご苦労』ではない。
『見事だった』でもない。
『おかえり』。
その言葉は、風よりも柔らかく、雷よりも温かかった。
霞の胸の奥に、静かに染み込んでいく。
──おかえり。
それは、かつて家に帰ったときに聞いた言葉。
それは、誰かの隣にいた頃に交わした言葉。
それは、もう二度と聞けないと思っていた言葉。
霞は、虚を突かれたように立ち尽くす。
その言葉が、どこに届いたのか、自分でもわからなかった。
団扇を握る手が、少しだけ緩む。
風が、彼女の髪を撫でる。
雷が、胸の奥で静かに鳴る。
「・・・ただいま」
その声は、霞自身も驚くほど自然だった。
まるで、ずっとここにいたかのように。
まるで、これが『帰るべき場所』だったかのように。
霞は、拠点の奥へと歩き出す。
その足取りは、任務の帰還ではなく──帰宅のようだった。
部屋に入る。
扉を閉める。
そのくらい当たり前に、奥に置かれたソファに腰かけた。
風が、壁を撫でる。
雷が、床を温める。
『おかえり』——その言葉に、『かすみ』としてのあたしが、初めて居場所を得た気がした。
「・・・ここが、あたしの居場所なんだ」
その言葉に、風が優しく吹いた。
雷が、静かに脈打った。
それは、肯定でも否定でもない。
ただ、霞の『今』を受け入れる音だった。
──葉隠かすみ。
かつての探索者。
今は、ダンジョンの守護者。
そして、カルマのもとに帰る者。
その心は、風に包まれ、雷に導かれながら──確かに、居場所を見つけていた。
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